音もなく、炎が燃えていた。熱さの無い炎だ。それはゆらゆらと、陽炎のごとく風景を揺るがせている。おのれの身さえほどいて溶かしてしまうような、紅色の花だ。細く燃える炎を、幾つずつか束ねたような。

 ギンコはそれに取り囲まれて、体の何処も動かせず、ただうっすらと目を開けて、眠りに落ちていこうとしていた。今にも眠ってしまいそうにまどろんで、彼は今、とても安らいでいる。

 あぁ…。

 と、そうギンコは思い、吐息をつく。


 あぁ、やっとなのだな。とうとう、眠れる…。

 この眠りにはきっと、どんな苦しさも寂しさも無い。痛みも悲しみも、悔しさも無い。だって、深く深く眠ってしまいさえすれば、この先もずっと、どんなに果てし無く先まで一人でも、その孤独を感じる心も無いのだから。


 白く柔らかな霧の色が、ゆっくりと近付いてくる。花々の間から滲んで、彼を押し包むように。今一度、そっと開いた目に移る、彼自身の手も、指も、その霧に溶けるように透けていく。

常世花檻  とこよ の はなおり 五

 苦しかったのも、辛かったのも、こうなった今ではまるで、夢のことのよう。もう、どうでもいいことばかりだ。誰が自分を蔑もうと、自分に家が無くとも里がなくとも、心を許せる相手の…一人すらも無くとも。

 ギンコの喉が、ふと、かすかに震えた。


 さよ…  な       ら …

 
 唇が動いて、たった四つばかりの、ひらかなを呟く。

 別れを言う相手なんて、自分にいただろうか。消えていくその身で、消えていく意識の片隅で、ギンコは思った。薄く開いた目で見る視野の、紅い紅い色が、何か、水の膜の向こうに見るように揺れて歪んでいる。けれどそれが、涙、なのだとは気付かない。

 彼が見ている目の前で、紅い花はますます紅く血の色をして、それでいて燃え盛る炎のように生き生きとしているのを、ギンコは見ていた。この花は蟲なのだ。そして、この炎は命。血の色をしながら、今、異様なほど紅く紅く熟れて見えるのは、この身の生を吸ったからなのだろう。

 俺の命がこの花の、この蟲たちの、命に…なるのか…。
 そうだよ、覚えている。あの時、約束、したもんなぁ。

 
 欲しいのなら、いつだとてくれてやる。こんな命、何すらも惜しくは無い。俺がこれっぱかりも惜しくない俺の命を、お前たちが欲しいというなら、それで助かるというのなら、好きな時に、好きなように、どうとでも。

 誰にも望まれぬ命が、そうやって喜ばれるんなら、生まれたかいも、あったというものさ…。

 ギンコは短く嗚咽して、向こうの透けて見える手を眺める。また、言葉が零れた。


 あ… り   がと…  な…


 その声に、誰かの別の声が重なった。声は、けれど酷く遠くて、何て言っているのかまで聞こえない。ゆらゆらと、この花たちの姿のように、その声も揺れて、切れ切れで、だけれど、それは酷く、深く、深くて。


 ぎ …   こ      ぎん   こ  …

 ざわ、と花たちが揺らいだ。赤の色が、微かに褪せて、白い霧は、すう、と乱れて薄れた。


「そこにいるんだな、お前だな、ギンコ…っ! 今、いく…!」

 
 あ  …  


 ギンコは横たわったまま、指先一つ動かせずにいて、それでもはっきりと、その声を聞いた。そして姿を見た。濃い霧の向こうから、花々を薙ぎ払いながら進んでくる、その男を。

 だけれど、そこへと踏み入ってくる男の姿は、この場所に拒まれて、ところどころが消えてしまっている。白い霧が体にまといつき、紅い花々に行く手を阻まれそうになり、その片腕、片胸、髪も、指の幾つかも、幻になりかかっている。

「く…くるな…」
「もう…大丈夫だ。今、助けるぞ、ギンコっ」
「…来るな。お…お前も、食われちま…」

 その言葉で、化野も気付いた。自分の体のあちこちが、すでに消えてしまっていることを。一瞬唖然とし、だけれど唇を噛んで、濃い霧を掻き分けるようにして、彼は進んでくるのだ。

「俺を喰うのなら、喰えばいい! 花に喰らわれたって、俺はお前を、諦めやしないぞッ」
 
 そう叫んで、化野は手にしているものを、高く高く振りかざした。鈍い色をしたランプ。火も灯されないそれが、斜めに空を切り裂いた。白い霧の中、紅い炎のようだった花が、その一瞬、血の飛沫のような悲鳴を上げたのを、聞いたように、思った。

 …あだ  し   の……

 ぽつり、と、大切なその言葉を呟いたあと、ギンコの唇が小さく動いて、もう一つか、二つ、言葉を零したようだったが、それは誰にも聞こえなかった。














 本日は二話同時アップとなります。わー、暫くぶりだ、そういうのー。嬉。でも実は、一個ずつはそんなに長くないですけども。す、すいません。ともあれ! 今回は美麗な挿絵も入りました。狂喜ランプじゃなくて、狂喜乱舞致したい〜。

 というわけで、次いきますー。


10/04/24