常世花檻 とこよ の はなおり 五
苦しかったのも、辛かったのも、こうなった今ではまるで、夢のことのよう。もう、どうでもいいことばかりだ。誰が自分を蔑もうと、自分に家が無くとも里がなくとも、心を許せる相手の…一人すらも無くとも。
ギンコの喉が、ふと、かすかに震えた。
さよ… な ら …
唇が動いて、たった四つばかりの、ひらかなを呟く。
別れを言う相手なんて、自分にいただろうか。消えていくその身で、消えていく意識の片隅で、ギンコは思った。薄く開いた目で見る視野の、紅い紅い色が、何か、水の膜の向こうに見るように揺れて歪んでいる。けれどそれが、涙、なのだとは気付かない。
彼が見ている目の前で、紅い花はますます紅く血の色をして、それでいて燃え盛る炎のように生き生きとしているのを、ギンコは見ていた。この花は蟲なのだ。そして、この炎は命。血の色をしながら、今、異様なほど紅く紅く熟れて見えるのは、この身の生を吸ったからなのだろう。
俺の命がこの花の、この蟲たちの、命に…なるのか…。
そうだよ、覚えている。あの時、約束、したもんなぁ。
欲しいのなら、いつだとてくれてやる。こんな命、何すらも惜しくは無い。俺がこれっぱかりも惜しくない俺の命を、お前たちが欲しいというなら、それで助かるというのなら、好きな時に、好きなように、どうとでも。
誰にも望まれぬ命が、そうやって喜ばれるんなら、生まれたかいも、あったというものさ…。
ギンコは短く嗚咽して、向こうの透けて見える手を眺める。また、言葉が零れた。
あ… り がと… な…
その声に、誰かの別の声が重なった。声は、けれど酷く遠くて、何て言っているのかまで聞こえない。ゆらゆらと、この花たちの姿のように、その声も揺れて、切れ切れで、だけれど、それは酷く、深く、深くて。
ぎ … こ ぎん こ …
ざわ、と花たちが揺らいだ。赤の色が、微かに褪せて、白い霧は、すう、と乱れて薄れた。
「そこにいるんだな、お前だな、ギンコ…っ! 今、いく…!」
あ …
ギンコは横たわったまま、指先一つ動かせずにいて、それでもはっきりと、その声を聞いた。そして姿を見た。濃い霧の向こうから、花々を薙ぎ払いながら進んでくる、その男を。
だけれど、そこへと踏み入ってくる男の姿は、この場所に拒まれて、ところどころが消えてしまっている。白い霧が体にまといつき、紅い花々に行く手を阻まれそうになり、その片腕、片胸、髪も、指の幾つかも、幻になりかかっている。
「く…くるな…」
「もう…大丈夫だ。今、助けるぞ、ギンコっ」
「…来るな。お…お前も、食われちま…」
その言葉で、化野も気付いた。自分の体のあちこちが、すでに消えてしまっていることを。一瞬唖然とし、だけれど唇を噛んで、濃い霧を掻き分けるようにして、彼は進んでくるのだ。
「俺を喰うのなら、喰えばいい! 花に喰らわれたって、俺はお前を、諦めやしないぞッ」
そう叫んで、化野は手にしているものを、高く高く振りかざした。鈍い色をしたランプ。火も灯されないそれが、斜めに空を切り裂いた。白い霧の中、紅い炎のようだった花が、その一瞬、血の飛沫のような悲鳴を上げたのを、聞いたように、思った。
…あだ し の……
ぽつり、と、大切なその言葉を呟いたあと、ギンコの唇が小さく動いて、もう一つか、二つ、言葉を零したようだったが、それは誰にも聞こえなかった。
続
本日は二話同時アップとなります。わー、暫くぶりだ、そういうのー。嬉。でも実は、一個ずつはそんなに長くないですけども。す、すいません。ともあれ! 今回は美麗な挿絵も入りました。狂喜ランプじゃなくて、狂喜乱舞致したい〜。
というわけで、次いきますー。
10/04/24