さっきの幻の中では、視界がすべて赤かった。見渡す限り一面の彼岸花は、まるで血の海の中にいるようで、酷く恐ろしく禍々しかったけれど、その幻影が消えた今も、花が里に咲いていないわけではない。
あちこちに花は咲いている。昨日までは、こんなところに咲いていなかったと判っているのに、里人は誰もそのことを気にしていない。ギンコのことを忘れ去ってしまっても、そのことに気付いていないのと同じだった。
「いやぁ、凄い花だな」
と、化野がさり気ないふうを装って、雨戸を立てている隣近所の人たちに言う。すると女も男も老人も、誰もが一瞬、言葉を止めてから、普通の調子で言うのだ。
「あぁ、そうだねぇ、綺麗なもんだよねぇ」
化野は唇を噛んで、その言葉を黙って聞いて、それから家に戻って淡々と支度をした。旅支度、とまではいかないが、歩きやすい草鞋を履き、夜まで出かけていても平気なように、厚手の着物に着替え、羽織も着て、襟巻きも巻いて、手にはランプを。
「あれ、どこ、いきなさる? 先生」
「…散歩だ」
少し遠出になるかもしれんが、ギンコのいるところまで、あいつを迎えにゆく散歩だよ。見つけるまで、掴まえるまで戻らない。
内心のそんな思いをおくびにも出さず、近所の婆に笑ってそう言っていると、婆の後ろの山道を、通りがかるのはさっきあった、あの親切な旅人だった。彼はどうやら行商人だ。大きな包みを肩にしょっていて、それを大事そうに揺すり上げる。
「ま、待ってくれ! あんた」
「おぉ、さっきの。ここがあんたの家かい? ちゃんと戻れてよかったよ。心配してたんだ」
「俺の、連れの話だが、さっき言ってた話は」
「え? なんのことだ? あんたは一人だっただろう」
化野は言葉を切った。そうしていぶかしむようにゆっくりと尋ねた。もしかしたら、と思ってはいたのだ。そうと判るのは辛いことだったけれど、それも手がかりだ、と思う強さを取り戻せていた。
「白い髪の、男のことを覚えているか…?」
「白髪頭のかい? いや、知らないよ。この里の人のことか? どっちにしても俺は会ってないけどな」
「…あぁ、そうか、俺の思い違い、だったみたいだ。すまんね」
もう時刻は遅い。空も道も真っ暗だ。通りすがるものも居ないから、ランプ一つかざして歩いていても、きっと誰も気付かない。好都合さ、と化野は少し笑った。
紅い紅い花の間を縫って、どれだけ歩き回ることになるかわからない。手がかりは一つ、二つしかなくて、それだとて本当に手がかりなのかどうか。だけれど一つ、安心していることがあった。化野は巻いた白い布の上から、守るように自分の腕を撫でる。
ギンコが消えたあの時、あっという間に薄れて消えてしまいそうだったあいつの記憶は、自分の中ではもうほんの少しも揺らがない。
化野は高く片腕を上げて、たった一つの道を、どうか照らして示せよ、と、願いを込めながらランプをかざす。光は暗闇の中で尾を引くように、ゆらり、不思議な余韻を纏いつかせながら揺れた。照らされた彼岸花の紅は、どす黒くますます不気味に見える。
しっかりと地を踏みしめて、これ以上なに一つ見失わないように、そして失ったものを見逃さぬように、彼は歩き出したのだった。
りーん、りーん、りーん。音が、聞こえていた。虫の声だろうか。
いいや、きっと違う。だって、それはあまりにあちこちから響いて来すぎるから。音色と共に、傍らの花が揺れて、その赤い色が周囲に滲む。いつしかその滲んだ色は別の同種の花に姿を変えて、あっというまに視野はまた花の海原になった。
広がるのは、眩暈の紅。血の色。そしてそれは、毒々しいまでに力強い生命の色でもある。化野はランプを翳しながら、あの旅人とあった里外れまで来ていたのだ。慎重に一歩一歩、何かを探す目になりながら進んできて、化野はとうとう足を止める。
かざしたランプの灯りの中、照らされているのではなく、自らかすかな光を放っている花があるのだ。それも一本ではない。無数の花々の中、その数十のうちに、一本か、二本ずつ。
まるで、草花とは違う、もっと…そう、温度をもった何か。草や花の命の色を、もしも白とするならば、化野が見つけたそれは、花から放たれながらも、獣の命のように、もっと熱く、意思を持つように強く貪欲な紅の色。
仄かな光を放つ彼岸花は、見渡す限りの中に、ところどころ咲いていたが、それが一塊、群れている場所があるのを化野は見つけた。
あぁ おまえ
そこに いるのか ?
無意識なままでそう言って、化野はそちらへとランプを差しつける。そうした途端に、ランプの硝子の中で、しっかりと燃え続けていた火は、何者かの仕業のように、唐突に、ふ、と消えてしまった。
あぁ そうだろう … そこなのだな
あかりなんか 消したって だめさ
そんなもんじゃ あきらめっこ ないよ
足を踏み出すと、草履を履いたその足の下で、ぽきり、と彼岸花の茎が折れた。ゆら。とそこから血けむりのような、紅い霧が零れて滲んで、その場所の花は、一層増えた。
ぎん こ
呼んでいる筈なのに、声がでない。知っているぞ、おまえたち。と、化野はそう言った。心の中で、言ったのだ。
欲しいのだろう。
なぁ、欲しいのだろ?
だからギンコを、奪っていったのだ。
欲しいのなら、奪れ。
この俺をだよ。
ギンコを奪っていったように、俺のことも奪ってゆけ。
淡々と思いながら、化野は手にしたままのランプを…今はもう火も消えて、ただの荷物になってしまった、銅で出来たランプを、花の中で一薙ぎさせた。弱弱しい茎しか持たぬ花は、そんな彼の動作一つで、ぽきぽきと折れて、地へとそのまま横たわる。
こっちだろう。そうだ。そこだろう。そこにギンコを捕らえているのだろう。判っているぞ、判っている。ここが境界なのだということが。…返さんというのなら、この血色の花々全部刈り取ってでも、俺はギンコを取り戻す。
そのために、俺をも奪えと、そう言うのだ。奪われたって、ギンコを取り戻し、己の命も取り戻そうというのだ。
『花だって生きてる』
『もっと生きたかったろうに』
『…かわいそうだ』
その時、奇妙に響いてきた声は、化野自身のもの。幻聴だか何だか知らない。ただただ、責めるような響きも含んで、それは何度か聞こえてくる。
『花だって生きてる』
『花だって…』
化野はそれを聞いて足を止め、ほんの少しだけ項垂れた。手にしていたランプを、戸惑うように眺めたが、その一瞬あと、彼はそれを激しく地面に叩きつけていた。
「あぁ! そう言ったさ。言ったがどうした…っ。獣だとて魚だとて、花だとて生きてる。医家の俺がそう言うのだ。それが本当のことだ、だが、それがどうした! …俺は…、俺には…」
何より、ギンコの命が大事 なのだよ。
俺の命の、その次に。
それが何か、悪いというのか。
化野は手を伸ばし、目の前にあるその花に触れた。そうしてしっかりと茎を握り、ぽきり、と折った。仄かな光を放つその花の茎は、奇妙なほどに温かかった。
激しい眩暈がする。どこか別のとこへ踏み込んだのが、心のどこかで知れた。腕に刻んだ名が痛む。焼け付くように、酷くだ。
あぁ、ギンコ。俺はお前と共に生きていたい。お前もそうだ、と言ってくれ。いつ死んでもいい、だなど、少なくとも「今」のお前の思いじゃない筈だ。生きたい、と…きっと、願っていてくれ。俺と共に、生きたいと。
りーん りぃーん りぃ ーぃん ……
鈴の音だろうか。それとも耳鳴り。虫の音。ギンコはうっすらと目を開けた。生きているのだろうか、と己の命を訝った。視野に見える紅い花と、白い霧、茶色の落ち葉。そうして投げ出された己の手が、指が、透けている。
あぁ、違う、駄目だ。許してくれ。
俺をあの場所へ帰してくれ。
…きて…いたい。
……て、いたいんだ、今は。
心で思うたび、紅い花が視野で増える。白い霧が濃くなる。体が冷たくて、酷く眠くて、眠りがなにより、いいものに思えてくるのだ。
……て、いたいんだよ。
…るして、くれ…。
続
ギンコが、ギンコが出てこないーーーーーー。すいません。もう、主人公不在ノベルって、どーしよーもない。挿絵も入らなかったし、あー、ごめんなさいぃ。
許しておくれ、ランプを振り回す先生に免じて!←余計許されないか。
さて、実は鼻炎と頭痛に苦しむ惑い星なので、これにてドロンー。
10/04/18