どこへ 行ったんだ … ?
化野は力の抜けたようになって、その場にへたりと座り込んだ。ギンコが消えてしまった。まるで幻のように消えてしまったのだ。怯えた目で部屋の中を見回せば、ギンコの木箱が見当たらない。彼の着てきた服が無い。
怖かった。確かめるのが恐ろしいのに、無意識に化野は部屋の中へ視線を彷徨わせる。あいつのために用意した茶碗。いつも貸している着物。奥の間に二つ敷いていた筈の布団の片方。あいつがここに居た痕跡が、ないのだ。
あいつ …
誰だった? …名…前、は?
全部が、夢のこと、だったのか
そんな奴は本当は、どこにもいなくて…
酷い眩暈がした。それでもぼんりと思い浮かぶのは、白くて綺麗な髪、大好きな翡翠の色の瞳は、片方しかなく、あいつはいつも…遠慮がちなことばかり言う…。
「ギ…、ギン…コ…。あぁ…!」
衝動的に、化野は文机へと駆け寄った。忘れてしまうなんて、嫌だと強く思う。だけれど机の上には筆も硯も無い。紙もない。気が変になりそうに焦って、化野は着物の片袖を捲り上げる。
「ギンコ…! 忘れてたまるか! 忘れて、たまるか…ッ!」
人差し指の爪で、化野はギンコの名を書いた。最初の一文字からは血が噴き出した。次の字には血が滲み、最後の一文字は酷いみみず腫れ。誰かが見ていたら、本当に気が狂ったかと思われそうだが、痛みなど感じなかった。
血を流す腕の内側に額を擦り付けて、祈るように化野はギンコの名前を心で繰り返している。絶対に忘れない。でもそれだけじゃ嫌だ。俺の心の中だけのお前? そんなのは嘘だ。あいつは確かに居た。
居るんだ、今も、どこかに。
傷つけてしまった腕に白い布を巻き付け、化野は当てもなく外へ出る。里人に会うたびに、ギンコを見なかったかと問うが、何処の誰も居場所を知るどころか、ただ不振そうに首を傾げた。
みんな、忘れてしまってる。まるで、「ギンコ」なんか、元々居なかったみたいに、綺麗に記憶を掻き消されてて。
里中を彷徨って、とうとう里の外れまで来た頃、幼い子供二人と出会った。子供は手に手に真っ赤な花を持っていて、それを刀に見立てて打ち合わせて遊んでいる。
あの子供らだ。
昨日、ギンコといる時にここで会った。
「…なぁ、お前たち、昨日のこと、覚えてるだろ、花が可哀相だ…って、俺が言ったのを」
「…えー?」
「覚えて、ないのか?」
ぞくり、と、する。
本当に、ギンコが係わっていること全部が、その記憶から消えて、このままじゃあいつは本当に、最初から居ない人間になっちまう。
「思い出してくれ、ほんの、昨日の、ことだろ…」
「…ゴメンナサイ」
「え…」
「おはな、いじめて、ごめんなさい。おはなも、いきてるから、かわいそうって、先生、昨日」
見開いた化野の目には涙が滲んだ。
「そう、そうだよ! 覚えてるんだなっ、昨日ここで、俺がギンコと一緒にいて、それで」
「先生、ひとりだったよ」
「……ひとり…」
風景は、まるで一つすら色を残さず死に絶えていくようだ。もう何一つ、希望などありはせぬと、心のどこかで思いながら、化野は項垂れて涙を零す。そんな彼の袖を、子供の一人がかすかに引いてた。
「せんせえ、このおはなも、かわいそう? 死んじゃう?」
「お花…」
指差されて、初めて気付いた。化野は草履を履いた足で、一本の赤い花を踏みつけていた。そこに咲いていたのを、化野が気付かずに踏み付けたのだ。
慌てて足をどけて、身を屈め、昨日、ギンコの傍でそうしたように、拾い上げようとした彼の目には、唐突に赤い色が押し寄せた。
花 花 花 花 花 花花花…
そこら中、ばら撒いたように、真っ赤な花が、彼岸花が咲き乱れている。ずっとギンコを探して、半日も彷徨ってきた里を、その場所から振り返れば、風景は何処もぼんやりと赤い。
強い不思議な花の匂いと共に、何故か生々しいような匂いがする気がして、それを血の匂いだと、化野は気付いてしまった。まるで、この花の血の色に、ギンコのすべてが食われてしまったみたいに思える。
あぁ、火を…放って、全部、焼き払って、しまいたい。
そしたら、お前が、ここに帰ってこられるんじゃ…
いつの間にか、化野はそこに一人だった。日が暮れて、あたりはもう暗い。ふらふらと歩きながら、ぼろぼろと泣きながら、ギンコの名前を呟いて、何かが指に触れるたび、それを掴んでむしっては捨てた。
返せ 返せよ… 俺の… 俺の大事な…
返せないなら、いっそ… 俺も、つれてけよ…
赤い赤い血色の花の原を、化野は彷徨う。触れてはむしり取り、むしっては捨て、花殺しを続けながら。そうやって花を手折って捨てても、血色の花は減ることが無く、寧ろ、手折って捨てられるほどに、逆に数を増やしていた。
花の原は、今やもう、花の海原。
その時、道の向こう側から、灯りが一つ、ゆらゆらと揺れて近付いてきた。灯りは化野の傍で、ぴたりと止まる。灯りはぶら提げ燈籠。それを持つ手は、旅人の男のもので、男は酷く心配そうに、化野に声を掛けてきた。
「…あんた、大丈夫かい。連れは? まさか一人じゃ、ねぇだろ?」
その男はどうやら化野のことを、いくらか頭の弱い人間なのだと思ったらしい。歩いたり、時には走ったりして、もうすっかり着崩れた着物と、何もかもに上の空なような顔、虚ろな目をしている彼が、そんなふうに見えても仕方が無い。
「…連…れ…。あんた、ギンコを、知らないか…?」
「え? ギン…、何? 連れの名前かい? 知らないけど、一緒に探してやろうか? どんな人だい? 男か…女か…」
心の優しい旅人なのだろう。化野がよろけると、その片腕を掴んでくれて、腕に巻いた白い布に血が滲んでいるのまで心配してくれる。
「怪我してんじゃないか、あんた! 参ったな、俺は手当ての道具も持ってやいねぇし、その連れの人を早く探すしか」
「男だよ、ギンコは。白い髪で…洋装の…」
それを聞くと、男はぱっと顔を上げる。
「あぁ、あの人があんたの連れかい? でもな、その人を俺が見たのは一昨日だしなぁ」
「し、しってるのか…?」
突然、化野の瞳に生気が満ちた。その男に掴みかかり、一昨日、丁度この場所で擦れ違ったのだと教えて貰う。今、どこにいるのかは判らないままだが、ちゃんとあいつを覚えてる人間が居た。
「あぁ、ありがとう…! 覚えててくれて…。お、俺は…」
嬉しかった。そうして当てもなく彷徨ってばかりいた自分を愚かだったと思った。手を握って感謝を言って、化野はそこで男と別れた。急に、しゃんとなった化野のことを、不思議そうにしながら、旅人は手提げ燈篭を揺らして里へ入っていく。
男は最後に、思い出したことを教えてくれた。
「そういやぁ、その白い髪の男も、ここらでぼんやり、そっちの草の茂ってるとこを見てたよ。さっきのあんたみたいな、あぶないような顔してさ」
あぶない? と、化野は聞き返した。
「あぁ、あぶない顔だよ、いつ死んでもいいって顔さぁ」
くわばらくわばら、などと笑って、旅の男は去っていく。化野は男の指差した草の原を見据え、逸る気持ちを押し殺して、一度家へと駆け戻っていくのだった。
続
挿絵が入らない回となります。しかもギンコも出てこない! ガーーーーーーーン。なんだか詰まらないパートですかねぇ。しくしく。次回はいよいよギンコ救出シーンに入れるでしょうか! そしたら挿絵もね。頑張りますっ。
お読みくださった方、ありがとうございます。続きも待ってやってくださいね。
10/04/04
