「どこ行くんだ? ギンコ」

 ふらりと布団から起き上がり、そのままの格好で縁側に向かうギンコに、幾分驚いたように化野が聞いた。朝餉もまだだし、そもそもギンコの格好が、外に出かけるようなものじゃない。

 寝乱れたまんまの、化野からの借り物の寝間の着物…。しわくちゃになっているそれが、なんとなく、色っぽい匂いを漂わせているような。夕べは途中で途切れてしまったが、化野は思わずそれを思って、ほんのかすかに頬を染めた。

「ギンコ、おい、お前」
「…え?」

 柱に手を置いて、裸足のまんまで、庭の踏み石に足を下ろそうとしていたギンコが、やっと化野の呼びかけに気付いて振り向いた。

「どこ、行く
んだ、そんな格好で。散歩するんなら着替えてけって。貸してやろうか」

 ギンコは寝ぼけているのだろうか。化野は小さく笑い、それまで向かっていた文机に手を置いて立ち上がる。隣の部屋へ、ひょいと消え、郡の中から自分の普段使いの着物を一枚取り出して、無造作にギンコへと差し出した。

 そういえば、夕べ、ギンコは少し変だった。気が乗らなかったのかもしれないが、行為の途中でいきなり何かを口走り、おびえた様に震えていた。なんて言っていたんだったか、どうしてか思い出せない。

「なぁ、ギンコ、夕べはその…なんか悪い夢でも見なかったか?」
「夢…。いや、別に…覚えてない」
「…なら、いいけどな」

 ちら、と目の端に赤いものが過ぎった気がして、化野は無意識に片眼鏡をしていない方の目を擦った。見れば、ギンコは片手を顔へ持ち上げて、額を覆うようにしている。頭が痛むのか、それとも眩暈がするのか、と、化野は心配して彼の傍へと近付いた。

「ギンコ、散歩はやめとけ。もう少し横になっていればいい。まだ早いし、朝餉が出来るまでの間、休んでおいた方がよさそうだ」
「いや、別に、何でも……。ただ…あ、か…」
「…赤……」

 零れた言葉を聞き取って、化野は夕べのことを思い出す。

「ギンコ、きっと疲れているんだろう。平気そうな顔しといて、お前は案外無茶するからな。寝とけ。朝餉は飯を少し、柔らかくしてやるから」
「別に、病人じゃねぇよ…」

 少しばかり鬱陶しげに言いながら、ギンコは実は嬉しい。自分の世話を焼きたがる化野が、酷く甲斐甲斐しくて、妙に生き生きしていて、もしや自分のことを、と、つい思う。

「ギンコ…ちょっと、いいか?」
「ん…?」

 化野は唐突にギンコの肩を抱き、もう一方の手で障子を半分だけ閉めた。すぅ、と障子の滑る音と共に、ほんの僅か、ギンコは唇を吸われる。額だけをくっ付けて、化野はギンコの顔を覗き込み、少しばかり上気した頬で言った。

「すまん。夕べは…ちゃんとしなかっただろう。で、な…夜じゃないが、口付けくらい、したいな、と思ってな。いや…すまんな、急に」
「……あだしの」
「んん…?」

 ギンコは項垂れて、口元を手の甲で隠し、心臓の鼓動を高鳴らせていた。ずっと化野は何も言わないし、自分も聞けずにいたけれど、はっきり告げてもらえるのなら、それが「欲しい」と、そう思った。

 けれど、言い掛けただけで何も言えないギンコ。化野はそんな彼の姿を見ていて、いきなり、すう、と息を吸い込んだかと思うと、ぽつり、零れるように言ったのだ。

「俺はさ、お前を…好きなんだよ…」
「……す…」
「好きなんだ。判ってくれてると思ってたが、言ったことは無かったな。でもいつも、手を伸ばせば応じてくれるから、勝手に相愛だと思ってる。もし違うんなら、そうとはっきり…。大丈夫だぞ。恋人としては拒まれたって、友としてでも、いつもお前をこの家で待っているからな」

 にこり、と笑って言えるのは、自信があるからではないだろう。否と言われても受け止め、突き放すこともなく、友として手を差し伸べるのだと、本気で思っているのだ。

「ギ、ギンコ…?」

 化野は我慢強くギンコの返事を待って、その項垂れている姿を見ていたが、不意にその異変に気付いて青ざめた。ゆらゆらと、ゆらゆらと陽炎のように、ギンコの体が揺れているのだ。いいや違う、不確かな幻みたいに、ギンコは消えかけていた。

 彼の向こうの風景が透けて見える。
 庭の木も垣根も、
 遠くの海の風景も空も…。

 差し伸べて抱き締めようとした化野の腕は、空を切った。

 ギンコは、そのまま、消えてしまったのだった。

 
「…ギンコ……お前…」

 




 目を閉じている筈なのに、無数の赤いものが視野で揺れている。

 血の色を見るようで、頭が酷く痛んでいた。ひいやりと冷たい地面に、半身を下にして体を丸め…。寝間の着物一枚を、地肌に纏い付けただけの彼の体の下には、乾いた落ち葉が満ちている。

 ここは広い林の外れ。つい少し前までは、ヒトの姿など無かったその場所に、唐突に、けれどゆっくりと出現した彼を、何匹かの小さな動物たちが遠巻きにしていた。

 黄… 紅… 薄茶…

 枯れ葉がはらはらと、木々から零れて彼の上に降り積もっていく。

 この光景を、知っているものがここにはいるのだ。ここから少し離れた場所の、同じような林の外れ、今からもう、どれだけ前のことになるのか。あの時ギンコは旅の途中で、どこか目指している場所もなく、誰かの元へと、辿り着きたい気持ちもなく、ただ淡々と生を辿っていた。

 あの時、彼は心のどこかで思っていたのだ。


 いつ死んだって、いいさ。
 そう思っていれば、少しくらいの辛いことだって、気にせずいられる。
 たえられない…って思いそうになったら、そこで命を手放すんだ。
 何なら、こんなにも飢えて凍えて心細くしてる、
 今、この時にだって、いい。

 別に、惜しくなんかないさ…。
 だって、俺を待っているものもないのだから。



 そして今また、そう思っていたあの時の気持ちが、圧倒的な何かのように、ギンコの心を覆い尽くしていく。でも…

 ち…がう、違う、あの時と今とは…違う。
 違うんだ。判ってくれ、判ってくれよ。
 許してくれ…、お前たち…。

 震えるように心で叫び、肌もあらわな着物の下で、足を、腕をもがかせて抵抗しようとするのに、体は少しも動かない。鉛のように思い瞼を、必死の思いで開ければ、枯れ草と枯れ葉と、枯れた木しか無かったその場所に、ぽつり、ぽつりと「誰か」が立って、ギンコを「見て」いた。

 それら「赤い」彼らは揺れて、

 約束、したよね…。

 と、そう、さざめいた。















 ギンコ捕まりました。何を約束したというのでしょう。駄目ですよね、迂闊に約束なんかしちゃあー。

 もう逃げたい、死んでしまいたい、死んでもいいって思えてしまう時は、幸せが訪れることなんか、想像したくても出来ないものだって、ほんの少しくらいは判る気がするんですよ。ええ…。

 だけど幸せを見つけたら、命が惜しくなるのは当たり前なのです。ギンコさんには生きてて貰わなくちゃ。先生、頑張れ、ギンコを見つけるのだ! 待て次回〜〜なのですよね。

読んでくださり、ありがとうございます。そして影さまにもてんこもりの感謝を! 一枚目の挿絵を飾らせていただきましたですよ♪ 挿絵付! なんて豪華なんでしょうか♪ 小躍りします! ふふー。


10/3/28




常世花檻  とこよ の はなおり 二