ヒャク ノ シズク  



 雪が、静かに降っていた。山の風景はすっかり白へと飲まれている。

 足元から、遥か下へと小さな雪の塊が落ちる。化野は少しばかり、膝が揺らぐのを感じてそこに立ち止まった。連れはもう、彼より先に向こう側についてしまうところで、そのあまりのつれなさに、哀しくなる。

「ギンコっ、お前なぁ。少しは気遣いというものを…」
「…怖いか。手ぇ引こうか? 先生」
「そんなわけあるか」
「だったら早く渡ってきてくれ」

 ギンコはどこか、透き通った笑みをしてそう言うのだ。風が強く吹いてきて、化野の立っている場所が大きく揺れる。右へ、左へ。右へ、左へ。そこは吊り橋の上だ。蔓を雑に依り合わせ、そこにまばらに板を渡しただけの、実に簡単な。

 足元から、随分と下に谷底が透けて見える。細かく降り頻る粉雪は、静かに、音もなく、吸い寄せられるように落ちていき、落ちて行く、というそのことが、なりよりも摂理なのだと告げるようでもあった。

「こ、この橋、大丈夫なんだろうな」
「さぁな、俺が作った橋じゃねぇし。確かに古そうだ、急いで渡った方がいい」
「なんだって…っ」

 聞くなり本気で怖くなって、化野はカタカタ音立てて橋の上を走り出す。まだ半分きたところだったから、向こう側のギンコまでは随分と遠く感じるのだ。カタカタ。カタカタ。カタカタと。化野の走って進む音が、不意に乱れ、呑気に煙草を燻らしながら、枝の雪を見ていたギンコが慌てて顔を上げる。

 化野は、狭い橋の上で転んでいた。一瞬で見て取った彼の片足に、履いていた雪駄がない。足袋も履かぬ素足の指先が、凍えて赤く見えるのまで気付いて、ギンコは急ぎ足に彼の元へと近付いて行く。

「大丈夫か、おい。で、雪駄は。もしや下へ落ちちまったんじゃ…」
「うー…。いてて。わからん、そうかもしれん。鼻緒が切れた感触もあった気が」
「だいたい…なんでそんな気安い恰好で出てきてるんだ…。足袋くらい…」

 言うと化野は、何か言いたげな顔でギンコを見た。上目遣いで見られ、思わず視線を逸らしてしまう。
 そういやそうだった。蟲を見せるといきなり言って、急げ急げと急かしたのは自分の方だ。自分自身は旅の途中で、分厚い上着に襟巻き、手袋、雪藁靴。それに比べて化野は…。

「すまん。とにかく急ぎたいから」
「お、なんだよ、そんなに素直に謝られると、こっちも居心地がわる…。え?」
「負ぶされ、そら、早く」

 向けられた背中を、化野は呆然と見つめる。そりゃあ、片足だけ裸足のまんま、喜んで雪の上を歩くやつはいない。いないが、それにしても、危険じゃないだろうか? 強くなってきた風に、橋はますます揺れている。ゆらり、ゆらり。
 
「こ、こんな橋の上でか?! 余計にあぶな…」
「いいから。年中山歩きしてる足腰を馬鹿にするなよ。本気出しゃあ、お前よりも随分と力はある。いつもは発揮しないだけだ」
「……わかった」

 一度橋の雪の上に膝をついて、それから化野はギンコの肩に手を伸ばした。なるべく、できる限り体を低くし、縋りつきやすくしてくれるのがありがたい。膝をつき、雪駄を履いている足の方で身を支え、自分と殆ど同じ背丈の、ギンコの背中に体を預けた。

 ゅら、ゅらり、と橋が揺れる。その不安定な揺らぎが、身のすくむような寒さを倍増させ、思わずギンコの首に、ぎゅ、と力を込めてすがりつく。あぁ、こんなに冷えた上着越しでも、ギンコの体は温かい。そう感じるのが慕わしさからくる錯覚と判っていても、それでも嬉しい、笑んでしまうほどに嬉しいのだ。

「ギ…」
「…イサザ…」
「え」

 名を呼びかけた声が、ギンコの声に掻き消される。途端にずるり、と手が滑って、化野は橋の上に尻餅をついてしまっていた。

「あぁ、い、てて…。ぅう…」
「イサザ、お前なんでここにいるんだ、向こうで待っているはずじゃないのか?」
「…先に先生を助け起こしてやったらどうだい? 大事にしてるんだろ、その人のことは」

 化野が後ろから見上げているギンコの頬が、その時うっすら赤くなる。自覚しているのか、ギンコは襟巻きで無造作に頭までを被い、それから無言で彼を振り返った。尻持ちついたまま、手を冷たい雪の上についた化野は、訳も判らずに目を瞬いている。

「早く起きてくれ」

 冷たい言いようだ。さっきまでと言葉の雰囲気も違う。だけれどそれも照れ隠しと判っているから、何も怒ることもない。ギンコの気持ちも判る。化野が見たことも無いそちらの男が、薄っすら笑って二人を見ているのだ。不躾と思えるほどの見つめ方で。

「そっちの人は、お前の知り人か」
「…まぁな、古馴染みだ。ここじゃなく、もっと先で落ち合うつもりだった」

 先。先とは、この橋を渡った先か。蟲の織り成す珍しい光景を見せると言われてついて来たが、いったい何処でそれが見られるというのか、化野は知らない。視線を遠くの岸へと向けると、少し前に越えてきた岸よりもさらに向こう、黒く木々の折り重なる場所に、見慣れぬ黒い人影が。

「…なんであいつまでいるんだよ」

 そう聞いたのはギンコの声。低く咎めるように言われても、イサザと呼ばれた男は動じもせずに、化野の方へと言葉を掛けた。

「立った方がいい。どうやらここは特別の場所だ。しかも今は、期が満ちようとしているから、そうやって雪の積もった場所に、身をつけているのは、あまり」
「…っ! 化野、立て!」

 言われて立とうとするが、どうしてかぴったりと張り付いたように、橋を構成する何枚かの板から膝が離れない。とりあえず四つん這いになって、力を込めようとしたその手もそこに、吸い寄せられたように。

「立てないぞっ。膝も、て…手も…っ」
「…言わんこっちゃない。捕まったんだ。…贄、だな」
「それはこの場所じゃない筈だッ」
「ずれたんだろ、蟲の都合だ、俺は知らない」

 いいや違う。イサザは知っていた。この場所で稀有な現象が起きると知っていたからこそ、クマドまでが見届けようとここにいるのだ。今からここで起こる事象は、そうそう簡単に見られるものじゃない。薬袋家の当主として、見ておく価値があるということか。

「まさか、わざと…」
「いくらワタリだって、そんなはっきり場所は特定できないんだ。偶然だ。それに、見れそうだ、とは教えたけど、先生まで連れて来いなんて、俺は言って無い」

 二人の話している意味は化野には判らない。だが、ぞくり、と背筋が寒くなる。助けを求めるように見上げると、目の前で膝をついたギンコの顔が、今までみたこともないほど青ざめていた。ますます怖くなる。贄とは何だ。蟲の、なのか?

「ヒャクノシズク。聞いて字の如し。光酒のことはギンコに聞いているかい、先生。蒸発した光酒は、雫となって雨に混じる、もしくはそのまま雲の中で雪に変わり、どこにでもある雪と同じように、地上に落ちてくる。それらは凍り付いているせいで力を失っていて、その足りない力を補うために、人に憑くんだ」
「憑かれたら、どうなる…?」
「熱を取られる」
「それで」
「光酒は空を漂う気体から雪に固められた個体に。そうして地表の限りなく近くで、生き物から熱を奪って、液体へと戻った光酒は、地へと深く染みてそこに大きな溝を穿つ。道が出来て、新しい流れが、そこに作られる」
 諸説はあれど、それが光脈筋の出来る、ひとつの過程。 

 あだしの…。
 
 その時、息遣いだけのような、ギンコの声が聞こえた。その、あまりにも必死の目が、化野には嬉しく思えた。こんなときだというのに、どれだけ俺はこの男に惚れているのだろう。自分を思う、その思いが嬉しいのだ。死を賭して得るに、相応しいと思うほど。

 どこか呆けたようになった化野の様子に、何処か不安が掻き立てられたのかも知れぬ。
 ギンコは隙間ばかりの橋の渡し板に、両膝をついて膝立ちになり、ゆっくりと、変にゆっくりとした動作で襟巻きを解いたのだ。雪と紛うような、白の髪が露になる。白く青ざめた頬が、この山中の、陰る色と添うように、更に白く、白く。そうしてギンコは上着までを脱いでしまう。ついでその下に着ている、厚地の服をも。

 躊躇している暇なぞない。白いばかりのシャツだけになって、ギンコは天を振り仰いだ。揺れる吊り橋のその上で、白い天から、灰色の雪が降る。白に重なる白は、どちらかが勝るのだと言いたげに、一方は濁った灰の色となり…。

 だけれどその雪のひとひらずつは、ギンコの肌に降り落ちた瞬間、透き通るかのような白に生まれ変わる。


 俺に 来い  命の流れの  なれの果てたちよ

  雪に包まれたそのままで 融け消えたくは ないだろう

   これら無数の雫は皆 次なる命の核になろうと 足掻いている


 ギンコと、そうして彼と向かい合い、地に囚われた化野と、そんな二人を見ているイサザ。岸の遥かにその先で、じっと見ている視線の男。生きて動いているものは、恐らくこの地にたった四つのこれらの個体だけだ。

 その四つの生きるものたちの、ひとつ、ギンコ。

 蟲たちにとって、この男の存在が、どれだけ甘露か、見ていて判る。雪が淡い白の衣を脱ぐように、いつしか降り頻るその白は、金に透き通った丸い雫となり、それらはギンコのまわりの宙に、無数に漂う。雨の降るさまが、もしも止まって見えたなら、きっとこうなのだろうと、そう思った。

 自らで淡い光を放つ、その煌めきの中で、ギンコは今や、生きたものには見えなくなりつつあった。風が吹いているのに、髪もシャツも、ひとつも揺れていない。肌は氷の色に似て、生き生きと輝いていたはずの翡翠の目は、まるで凍った硝子のよう。

「ギ…ギンコ。ギンコっ?!」
「…あんたについた光酒を払ったんだよ、自分の方へ引き寄せて」
「そんなことして…っ」
「もう立てるだろう、立って、向こう岸へ行くんだ、先生」

 本当だ、動ける。だが、犠牲になろうとしてるギンコをここに置いたまま、自分だけ離れるなんて、そんなこと出来るはずがなかった。変に淡々とした様子のイサザが、化野の腕に手を掛け、強引に立ち上がらせる。

「離れるんだ、三人も乗ってたんじゃ、橋がもたない。ヒャクノシズクの重みも足されて、今にこの橋は落ちる」
「じゃあ、ギンコもっ、ギンコも連れて」
「こいつはもう、動けない」
「見捨てろというのか…っ!」

 イサザが化野の目の前で、ひょい、と視線を動かした。刹那、首に重い痛みが走り、化野の意識は闇の中へと落ちて行くのだった。






 






 吊り橋。の出てくるノベルを書きたい。それがこのお話の始まりでした。四人を出す! 次にそれだけを考えて軽い話を目指していたのに、何ゆえ光脈筋の誕生、だなんていう、デカい話になるのかーーーっ。ほーら、一話で終わらなかった。惑い星を振り回す、重たげなノベルの結末はっっっ。

 少なくとも私は知りません。はははははー。ギンコ、お前まさか吊り橋の上で氷の彫像になるつもりですか。寒いんですけど、考えただけでーっ。あ、蟲…というか現象名?「ヒャクノシズク」は、蟲名Deお題より。

 このノベルは、とっても素敵な吊り橋写真を拝ませてくれたJIN様へ♪



09/01/14