ヒャク ノ シズク 後
この冬山では、視野は最初から白い。真っ白に埋め尽くす雪の大地で、雪と違う部分は、白と白の狭間の空間だけなのに、その空間すら埋めてゆくように、静かに、圧倒的に新たな雪が降り続いている。
山も木々も大地も、すぐ目の前の吊り橋も、吊り橋のかかる谷も、まるでこの世から消え去るように、雪はすべてを覆ってゆく。生きて動くもののない光景が、まるで死の世界だ。それとも、この白の下に流れ行く命のためだけの、常とは別の世界なのか…。
きし、と橋が軋んだ。次にはもっと大きく、ぎし、と。風はなく、その音はただ、雪の重みに堪えかねてあげられる吊り橋の悲鳴。
もはや氷の彫像のようになってしまったギンコだけを、橋の上に置き去りに、クマドは肩の上に化野を担いで吊り橋を渡り切る。イサザも一度ギンコを振り向いて、あとは躊躇わずに橋を後にした。
渡り切った橋を振り向くと、豪雪に姿を消されかけたままで、その手摺から蔦がほつれ、ほどけかけていくのが見える。きしきし、めりめり、と、だんだん音を大きくしながら、雪煙を上げながら、橋は見る間に崩壊し、がくり、と一段低くなった。
ばき、と大きく鳴り響いた音が聞こえたか、クマドの肩の上の化野は意識を取り戻す。そうして暴れて、地に落とされ飛び起き、声も無く吊り橋へと駆け出そうとした。そんな彼の腕をイサザが掴む。そうして化野はクマドの腕に捕まり、羽交い絞めされて喚いた。
「ギンコ…っ。ギンコぉ…ッ!」
「先生、駄目だ、今行っちゃぁ」
「離せっ、離してくれ、ギンコが…っ」
悲痛な叫びはすべて、降り頻る雪の中で無力に過ぎる。彼の声に、段々と大きくなる吊り橋の悲鳴が重なり、そこへさらに、イサザの声が静かに落ちた。
「俺達の誰かじゃそうはいかないけど、あいつなら多分…。そもそもギンコは最初から自分が贄になると判っててきてる筈なんだ」
化野の耳のは言葉は届いていなかった。それに、抗いなど無意味だと冷静ならば判る筈だ。彼を押さえるクマドの力は、まるで自然そのもののように淡々と容赦がない。イサザは聞かれていないと判っていて、それでも続ける。まるで罪悪感を少しでもなくしたいかのように。
「…ただ、新たに作られる光脈の流れが、こんなに巨大で、圧倒的な力だとは俺達の誰もが予測していなかった」
だからギンコは来たのだ。そんなにも急かして化野を連れてきて、光り輝きながら落ちていく命の雪片を、その美しい光景を、ギンコは彼に見せたかったのだろう。これほど危険だとは思わずに、たぶん、共に並んで話をしながら見ていられるとでも思って。
「…先生に、よほど見せたかったのか」
「そ、そんなの、そんなの俺は…、お前が…ギンコ、ぁあ…。頼む、助けに行かせてくれ、俺はあいつがいなけりゃ…っ」
「もう橋が」
「…落ちるぞ…」
低いクマドの声が、最後の橋の喘ぎにかぶさる。鈍い音を立てて引き裂かれ、橋はとうとう、二つに分断され、白い雪煙を立てて落ちてゆく。きらきらと輝く雪の粒。ギンコの周りにだけ漂う、金色の雫の美しさなど、化野の目にはもう止まらない。
「い、嫌だ、誰か…。ギンコを、ギンコを…っ。嫌だぁぁ…ッ! 逝くな…っ、ギンコぉぉお…ぉ…!」
半狂乱に叫び続ける化野の姿を見ようとはせず、クマドはじっと彼を押さえつけていた。それとは対照的に、イサザは彼の姿を見つめ続け、半ば声も枯れ、涙で顔をぐしゃぐしゃにした化野に、そっと静かに語り掛ける。
「先生は、そんなにギンコが好きなんだな…」
その、淡々とした寂しげな声は、本当は化野に囁かれたものではなく、寧ろクマドに聞かせたくて…。そんな自分を、小さく笑い、イサザは谷ぎりぎりの場所まで行って、遥か遠い谷底を見下ろした。
そこに金色の流れがある。まるで光脈が地表に現れたような、見事な、静かな流れ。とうとうと、澱みなく、容赦もなく。その中にギンコの姿を見て、イサザは多くを言わなかった。
「…俺達も、下へ行こう」
半ばクマドに抱え上げられるようにして、化野は谷底へと連れて行かれる。あの高さを落ちて、ギンコが無事だとは思えず、その前に見せられた、凍りついたギンコの姿が、さらに彼を打ちのめす。あれ以上に無残な姿など見たくない。だけれど、せめて抱いてやりたいと、心臓を締め付けられるような思いでいる。
あぁ、いっそ自分もそのまま傍にいようか。
そうすればまたすぐに会えるなら、それが何よりの願いだ。
遠い遠い道のりを、歩かされたような気がした。逝ってしまったギンコと自分との距離を思わされるようで、化野の伏せた瞼から、ぼろぼろと涙が零れた。
その涙は顎から滴った瞬間、氷の欠片になって、ぱたぱたと彼の足元へ零れる。それが零れる彼の足の片方が、そういえば下駄すら履いていないのを思い出し、イサザは無言で自分の両腕に巻いた布をほどいた。
あの世で会うにしても、この世で会うにしても、先生の足、凍傷にでもさせたんじゃあ、何言われるか…。声に出さずにイサザは思って、一旦、クマドの足を止めさせ、化野の裸足の足にその布を厚く巻きつけた。そんな様子を、クマドはいつもの無表情で見ている。
長い道のりを歩いて、やっと谷底へ辿り着き、イサザが短くこう言った。
「見なよ、ギンコはあそこにいる」
目を閉じたままに暫し震え、それでも化野は縋るように、イサザの指し示す方を見た。見開いた目に飛び込んでくる、目映い金色の流れ。金の砂を流した川のようだ。その砂は生きていて、ゆっくりとたゆたいながら、白い雪の谷底を、自らの輝きで淡い金の色に染めている。
その流れの、一番緩やかな場所に、ギンコがいた。
横たわり、流れに体を浮かべながら、静かに揺らめいている。衣服は身に付けているのに、その不思議な流れのせいか、布地はすっかり透けていて、一糸纏わぬ姿に見えた。
「…ぎんこ……。でも、し、死んで、いるんだろう…?」
枯れた声で、怯えたように化野が言う。
この遥か高い場所から落ちて、普通なら生きている筈も無いが、体はどこも、傷ついていないように見える。腕も足も首も、どこも歪んでいない。血の色も見えない。
「生き…」
「生と死の狭間に漂っている」
生きてるよ、と告げてやろうとしたイサザの声を、クマドが唐突に遮った。イサザは少なからず驚き、だけれど何も言わずにクマドを見つめた。クマドは化野の方も、イサザの方も、そしてギンコの方すら見ないままで、まるで焦がれるように光の川を見つめている。
「この流れは、命の、源の流れだ。生まれたばかりの命の大きな流れの中に、その流れの営みの贄にされて漂って、丁度、今『生き』と『死に』の間にいて、どちらか一方へ引き寄せられようとしている」
「ど、どうすれば…っ」
どうすればギンコを助けられる。どうすれば呼び戻せる。どうすれば温かなぬくもりを、またあの体に宿せるんだ。あの目が俺を見て、俺を呼んで、また年にたった数度の逢瀬だけの、辛くて哀しくて、それでも小さく幸せな、そんなこの世で、共に生きていける…?
俺を呼んでくれ、もう一度。
俺に触れ、俺から触れさせて。
鼓動を感じたいのだ。
呼吸を聞きたい。
あぁ、あの里の坂を登り、きらめく海を背にして、よぉ、と片手を上げて、ほんの小さく笑うギンコを、俺に、どうか、返してくれ。
切れた言葉の先に続く、膨大な量の願いを、耳にも目にも知らされず、それでもきっと判ったのだろう。クマドは言った。
「呼べ。本来、生きとしいけるものは、誰も『ことわり』に逆らえない。だがあんたが呼べば、あるいは」
聞かされて、化野は飛び出した。膝まで埋もれる雪の中を必死に走り、腰までの雪の中でさらにもがいて、とうとう金色の流れへと躊躇わず入ってゆく。そこで、まだ遠くあるギンコの方へ手を差し伸べて、化野は語りかけた。声を限りに叫ぶのかと思っていたイサザは、不思議な思いをして彼の言葉を聞く。
「ギンコ、ギンコ…。目を開けてくれ、もう一度俺を見てくれ…。お前を、愛しているんだよ…。聞こえているか、ギンコ…」
囁きは多分、金の流れにのせられて、その狭間にいるギンコの魂に、ゆっくりと響いたのだろう。たった一度の語り掛けで、ギンコの瞼が小さく震え、彼はまっすぐ前を、つまりは上を見たままでうっすらと瞳を開く。
あぁ、生きていてくれた。と、それだけで胸が裂けるほど嬉しくて、涙声になって化野は続けた。
「こっちを見てくれ。俺を呼んでくれ。ギンコ、さぁ、ここへ戻ってくれよ、俺の腕の中へ」
言えば、ギンコの視線は、すう、と化野の方を向いた。その唇が小さく揺れて、何かを言い掛けている。いや、もう何か言っていた。雪は今、ほとんど降っていないが、金の流れに邪魔され、目を凝らしてもその口元がよく見えない。
あだし の
も すこし にえ に なっていろ と こいつら が
やっと見えた口の動きに、化野は唇を噛んだ。
「なんで…っ。もう充分だろう。どうしてお前が、お前だけが…」
おこ るな ちゃんと おまえへ もどる から
弱々しい笑みが、金の流れの下へと一瞬沈む。化野はさらに川の深みへと自分も進もうとし、そこから先、一歩も動けなくなっていることに気付く。『ことわり』とやらが、彼を拒絶している。
「じゃあ…。じゃぁ…ッ、俺のも取れっ。『ことわり』とやらっ。俺の熱も、なんなら命も削りとってけばいいだろうっ。その分、早くギンコを返してくれ。頼む…!」
叫びが『ことわり』に届いたのかどうか。それとも丁度。光り輝く命の流れに、必要な力が満ち足りたのか。その瞬間、流れは地の底へと、見る間に沈み込んでゆく。谷底の栓がいきなり外され、そこに満ちていた水が抜けて行くように、ざぁ、と微かな音立てて。
化野は声も無くギンコへと駆け寄り、突き飛ばすような勢いで縋りついた。どんなに凍えているかと思ったら、ギンコの体はほんのり温かかった。化野の方が、氷のように冷えた体になっていて、ギンコは逆に彼を気遣い、その背中を包むように抱き締める。自分を呼ぶ枯れた声が何故なのか、聞かなくとも判った。
「無茶、しやがって…化野」
「…っ、お、お前が言うか」
何事もなかったように、ただの雪の景色に戻った風景の中、断ち切られた吊り橋の残骸が、新たに降り出した白の下に、もう隠されていくところだった。
* *** *** *** *
「ぜんぜん、平気だったのかい、あんたは」
化野がくれた傘をさして、クマドはまたしんしんと降り続く雪の山中を歩いていた。山を出て、化野の住む里を抜けて次の冬山に入ってゆく彼を、イサザは追いかける。追いかける、というよりも、数歩の距離をおいてついて歩いているようで、そんな彼をクマドは嫌がりも、もちろん喜びもしないのだが。
「…平気、とは」
やっと返事が返ってきて、イサザは嬉々として彼の隣へ並ぶ。
「あんたの魂は蟲なんだろう。例え人口のものでも、光脈に引き寄せらたり、影響があったりしないのかって、そういうことだよ」
「……いっそ」
短い沈黙の後の、たった一言の声。その後またクマドは黙り込み、何かに気付いたように、イサザの方へ、少しばかり傘を傾けた。彼の着ている蓑には、重たげな雪がたっぷり積もり、それが歩くごと少しずつ足元へ落ちていたからか。
「いっそ?」
沈黙を許しておかずにイサザは言って、それへは返されない言葉を待たず、投げ付けるように、ぽん、と告げた。
「あんたさ、蟲ばかりじゃなく、も少し人間を見なよ」
そうしてイサザは、ぱっ、とクマドの傘を奪い、その上に積もっていた大量の雪を払い落としてからクマドへ返した。
いくら強く揺ぎ無く、そう生きるべく育てられたからとて、払い落としていい重荷まですべて、ずっと持ったままで歩くことはない。人の心の一欠けらすら、持ってはならぬと誰が言った? そんな生き方のクマドが、イサザはいつからか気になって仕方なくて。
もしもイサザの見間違いでなければ、クマドはさっき、ギンコと化野の間の絆を、良くも悪く気にしていた。
「あんたにもしもの時は、なんなら俺が叫んでやるよ」
最後にそれだけを言い捨てて、イサザの足は道の無い雪の中へと逸れた。クマドは彼の後姿が見えなくなるまでそこに立ち止まっていて、やがてはそんな自分に、はた、と気付く。
再び歩き出す前に、クマドは傘を傾け、その上の雪を暫し眺めてから、イサザがしたようにそれを払い落とした。傘の上の雪が落ちると、それを持っている腕は楽になる。傘は雪空のほのかな明かりを透けさせて、クマドの顔にも淡い光が注いだ。
「イサザ」
名前を確かめるようにそう呟いて、クマドはまた無表情なままで、自らの旅へと戻るのだった。
終
たった二話ですけど長くなりました。うちでは本来、三話になる長さです。この重たげな話。こんなの喜んでくれる方がいればいいんですけど。とほほ。JIN様に捧げるものなのに、なんでこんな重い話に。涙。
イサザの恋は前途多難です、ってそもそも恋だったかーっ。
それとは違ってギンコと化野はラブラブで、二人がピンチだってのに、砂吐きそうになりました。「愛してる」発言でた〜っっっ。執筆後コメントが壊れていてすみません。お付き合い頂いてありがとうございましたっ。
09/01/28