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 老爺は谷を下ってくる。老いた肩に、今夜も道標を担いで。誰も見やせぬ道標立て。今はもう遠い、思い出ばかりの蛍池。暗がりに、蛍火飛び交う、蛍火の池。

 そうして老爺は足を止めた。その手から道標ががらり、と落ちた。震える足で近付いて、水を湛える池の底、沈んで揺れるものを見たのだ。

 椿の白い花、一輪。
 そうして、白い髪をした、若い男の体が一つ。

 一瞬、過去を見ているのかと、老爺は思った。

 長い髪を水に揺らして、沈んでいた娘…。
 髪に飾ろうとしたのだろう、白い椿。



 あぁ、つばきお嬢さん
 間違えたのですか?

 その人は違う…
 今 わたしが逝くから、
 捕らえたその光を、放してください。

 これからは幾らでも、
 椿の花を拾って差し上げられる。

 長く待たせて、すみません。



* ** ***** ** *


 化野は、縁側に腰を下ろしていた。体はほんの少し斜めに傾いて、彼はすぐ傍らに、そっと片手を置いている。ここに、ギンコが座っていたのだ。彼の影が座っていた。そうして影は、すぅ…と消え、そのあと、どうしてしまったのか…。
 
 さよ…な…ら…。

 最後に聞いたその言葉は、幻なのだと思い込む。声が耳に、残っていても、その時流れた涙の辛さを、全部全部、覚えていても。幻でなくば、あれは悪い夢。顔を上げれば、白い白い半月に、暗い色した雲が掛かるところだ。

「これ、この…届け物、を…お渡ししに…」
「え…?」

 いつの間にか目の前に、人影が立っていた。数歩で手が届きそうに近くなのに、どうしてか顔がよく見えなかった。

「帰るのなら…ここへ、帰りたい、と、言うのでな」
「どなた、ですか…」

 声は老人だ。なんとなく、少し背中の曲がったような、そんな姿が朧見える。それほど暗くはない夜なのに、どう目を凝らしても、化野の目には相手の姿がよく見えない。

「なぁに…『どなた』でもいいだろう。大事な大事な預かりものを、あんたさんへ返しに、持って、きた」

 老人の声のその影は、すい、と片手を前へ差し出す。そうして、小さくて四角い、裂いた竹で編んである虫籠を、その指先に下げてゆらゆらと揺らす。

「すまんかった、のぉ。わたしが思い切れずにいたばかりにな。すまんかったのぉ。だけどなんとか、間に合うたよ」

 ゆらり、ゆらり、揺れる虫籠の中で、うっすらと青い光を放ち、蛍が一匹、灯っている。


 つばき、つばき…
 いま、そこへゆくよ。
 もう永久に、二人で居ような。
 蛍の揺れる水の底にも。
 蛍の照らす過去の中にも…


 ぽつり、老人の声で呟かれた言葉の意味を、化野は少しも判らない。

 気付けば、化野の指先に、虫籠がゆらりと揺れている。そうして彼が見ている前で、その虫籠の竹編みを通り抜け、青い光の蛍が逃げた。あ、と声を上げて立ち上がり、化野は手を差し伸べる。

 伸べた指先に蛍はとまって、一度、二度、三度…と、淡い光を灯しては消した。指先にいる蛍はそのまま、気付けば彼の目の前の、老爺が立っていたところにも、一匹の別の蛍。

 その蛍は、一度きり、ちかり、と強く光ったきり、もう二度とは灯らずに、どこへ行ったか判らなくなった。老爺の姿も何処にもない。そうして今度は、指先にいたはずの、あの蛍の、小さな灯火も見えなくなっていて…。

「あぁ、戻った…よ、化野…」

 聞こえてきたのは、愛しい、声だ。

 弾かれたように振り向けば、ついさっきまで彼が座っていた縁側に、ギンコがいつもの格好で腰を下ろして、少し、青い顔色をしたまま、化野のことを眺めていた。

「待ってくれ。暫し、触らねぇでくれるか…? どうやら、まだ少し不安定な、ようだから」

 見ればギンコの胸のあたりは、まだ薄っすらと藍色の影にように見え、そこに蛍の灯す光が、ゆらゆらと揺れて見えるのだった。


* ** ***** ** *


「実際、俺にもよく判らねぇんだよ」

 と、ギンコは言った。ようやく青い顔色も元に戻り、失っていた体温も戻って、しつこいほどに抱き締められて、口付けを受けてから、ギンコは思い悩むような顔をしてそう言った。

「判らん、とは、どういうことだ。蟲に憑かれて、死にそうな目にあったんじゃないのか?」
「…いや、そう思っていたのが、最後には、よく判らなくなった」

 ぽつりぽつりとギンコは語る。あの書付けを手に入れてから、書いてある通りにしようとしたこと。書付けの二枚が、貼り合わさっていたせいで、条件が揃わず、しかし水に落ちた椿の花のせいで、中途半端に条件が揃ってしまった。

 あの池で、闇夜と、花と、水に身を浸す誰かはつまり、過去から現れる蛍火の餌なのか。だとしたら、ギンコはまさに、喰われてしまうところだったのだが…。

 不意に、化野が聞いた。

「おい、今、つばき…と言ったのか」
「んん? あぁ、言ったが、それがどうか」
「ここに現れて虫籠を俺に手渡した老爺が、つばき、つばき、と誰かを呼ぶように言っていたぞ」

 ギンコは暫し黙って、それから何かを思い出そうとするように目を細めた。

 水の底で、動けずにいた時、何か幻のようなものを見た気がする。いいや、見たんじゃない、聞いたのだ。つばきお嬢さん、と誰かを呼ぶ若い男の声、ケイ介、と呼び返す、やはり年若い女の声。 
 
 きっと、二人は恋仲だったろう、とギンコは思った。
 だけれど女は、先に死んだのだろう。きっとあの池で死んだのだ。

 つばき、つばき、と名を呼んで、泣いて喚いた男の声を、夢まぼろしの中で、ギンコは確かに聞いたから。

「蛍は…いや、あの蛍火は」

 ギンコはほろりと、零すように言った。

「蟲かもしれんが、もしかしたら、寂しい誰かの、魂なのかもしれねぇ」
「魂…」

 たとえば、好きな男と結ばれなかった女の、切ない魂。

 そうして魂の小さな火は、あの老爺をだけ、呼んでいたのだろうか。女が何故、あの池で死んだのか判らない。老爺が何故、ギンコの魂をここに返しに来て、自分が入れ替わりに蛍になって、消えてしまったのか判らない。

 それはまるで、遠い時を経て、二人の死を重ねるような。

 あの書付けはもしかしたら、夢で見た男の書いたものかもしれなかった。だとすれば、たくさんの花を贄にし、命の助かるその方法を、糊で貼り合せて隠したのは、どんな意味があったのか…。

「ま、いいさ」

 急に、明るい声で化野が言った。彼はギンコの腕を掴んで引き寄せて、飽きもせずに彼を抱き締める。温かなそのぬくもりが嬉しくて、嬉しくて、堪らないというように、化野は笑っている。

「俺のとこへ、帰ってきてくれたんだからな、お前は」
「……化野…」
「ん?」

 ギンコは大人しく抱かれたまま、何か怖いものを言葉にするような、少し震えた声で言ったのだ。

「俺がもしも先に死んで、夢の中に出てきて、お前を呼ぶようなことがあっても、そんなの気にすんなよ」
「……判らん」
「判らん?! 気にするなと言ってんだ!」
「なら、俺も言わせて貰うが、俺より先に逝くなど、許さんからな」

 顎を掴んで顔を上げさせられ、ギンコは真顔でそう言う化野の言葉を聞いた。

「そんな変なことを俺に約束させる暇があるんなら、死なんように生きろ」
「…わかったよ」

 もしも、明日にでも命を落すようなことがあったら、もしかして、俺は化野を呼ぶかもしれん。傍に来てくれ、一緒にいたい、ずっと共に…と、蛍になってでも呼ぶかもしれん。風になって、こいつの髪を揺らしながら、そこの風鈴のように、寂しい、恋しい、と泣くかもしれん。

 そうしてもしかしたら、化野はその声に、答えてくれようとするかもしれないと…。そうなってみなければ判らないが、もしかしたら。

 だったら、化野の言うとおりに、死なんように懸命に、死なんように気ぃつけて、毎日を生きてゆかなくてはな。そうギンコは思った。抱き締められたまま、そう思って、もう一度言った。

「わかったよ、化野」

 軒に下がった風鈴が、りぃん、と、宵闇の中に美しい音を響かせた。







  
 




 

 なんざーーーーーーーーーーん。難産、最近多いです。最後の締めで苦しむこと多し! つばきという名前の女と、ケイ介(おそらく蛍介)という名の男は、多分、身分違いの恋ですね。

 結ばれずに終わったというか、きっと、お互いの気持ちすら言い合えないで終わった。だからこそ、老爺(つまり蛍介)は、弔いの気持ちを込めて、あの蛍火池を守っていたのかしら。蛍池は、通常、呼ばれる名。蛍火池は、蛍介だけがそう呼んでいるのかと…。

 まぁその…いろいろ失敗してるんだけど、突っ込みせんでもらえると。ややこしい設定にしてしまって、悩んでいろいろ決めるのいいけど、それを書き切る能力はなかったんだな。しくしく。

 蟲箱師も連載中だけど、同じ結果にならないように気をつけます。ではでは、ありがとうございましたーっ。


2010/08/18
 




興味ある方だけどうぞv つばきお嬢さんとケイ介のお話です。
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