蛍 火 の 籠 ・ 別話
「ケイ介は、つばきを好き?」
何度も何度も尋ねられたその言葉。
「つばきお嬢さんが、好きだ」
たった一度だけ、声に出したその言葉。
「ケイ介、花を取って頂戴。あの花がいい、一番大きくてきれい」
少女の細い指先が、池に浮かんだ白椿の花を差す。艶やかで高価な振袖が、涼やかな風にいつも揺れた。少年は、落ちている枝を拾って、精一杯腕を伸ばし、池から椿の花を拾う。
「ありがとう。ねぇ、ケイ介はつばきを好き?」
ちゃんと結い上げた髪に、白い花を飾り、にっこりと笑った少女は、山一つを持つ大地主の一人娘。着物の裾も擦り切れたなりの少年は、少女の家に雇われた下働きの子供。
「ケイ介、また連れて行ってよ。花を取って頂戴」
「つばきお嬢さん、もしも落ちたら危ないって、旦那様が心配するよ」
少し成長した少年がそう言っても、少女はいつまでも幼く我侭で。
「連れて行ってくれないなら、一人で行くわ。一人で椿の花を拾うわ」
「…今日だけ、だからね。お嬢さん」
枝を拾い、池の傍に屈んで、少年は少女のために花を取る。
「もう、今年の椿は終わるよ」
「…だったら、別の白い花でいいの、明日も取って頂戴ね」
そうしてまた月日は流れて、少年は、青年と呼ばれる年になる。少女も、少女のままじゃない。
池からの帰り道、細い山道をゆきながら、つばきの手はケイ介に引かれていて、彼女はもう一方の手で、髪の椿に触れながら、小さな声でこう言った。
「覚えていて? ケイ介」
「何をです?」
「私がもっと小さい頃、ケイ介が初めて椿の花を私に拾ってくれた…。私が言ったからじゃなくて、池で見つけたから、私に…って。だから、私、椿の花が終わっても、違う花でもいいの。ケイ介が私に…」
ケイ介はどうしてか、いきなり彼女の手を放した。歩きにくい道が終わって、この先は広くて平らな道だから。
「覚えてます」
「よかった…。ねぇ…ケイ介は、つばきのことを好き?」
「……急ぎましょう。もう日が暮れる」
つばきは唇を噛んで、拗ねたように押し黙った。ケイ介はもう一度手を差し伸べて、彼女の手を引いて、急な坂道をゆっくりと下りた。
「あの池は蛍池というのだそうです。ケイ介のケイは蛍と書くんです」
「まぁ、そうなの。…じゃあ、蛍を見たいわ、私。連れて行って頂戴ね」
「…えぇ、お嬢さん、いつか…」
けれど、毎日毎日違う模様の、綺麗な着物を着る彼女と、毎日毎日下働きで、汚れた着物のケイ介は、ずっと一緒にはいられない。やがて、つばきには縁談が。遠いところへ嫁ぐのだと、家の都合で決められて。
「ケイ介、…ケイ介は、つばきを好き? 私を…好き? つばきはケイ介が好きよ。ずっとずっと前から好きよ。離れ離れになるなんて…」
「……つばきお嬢さん」
「ケイ介は平気なの? 私と会えなくても平気なの? 髪に飾る椿は、ケイ介の取ったのじゃなきゃ嫌。…まだ一緒に、蛍も見てないのに、遠いところへいくのは嫌…っ」
「…お嬢さん」
しがみ付いてくるつばきを、無理に引き離してケイ介は言った。
「ケイ介は、お嬢さんの家の下働きです。お嬢さんとは、住む世界が…」
「違わないわ。ずっとずっと、私たちは一緒にいたもの。違わないわ、ケイ介。意地悪を言わないで」
その時、ケイ介の背中に誰かの視線が刺さる。つばきの父親が、遠くから見ていた。怒ったような目をしていた。
「仕事がありますから、お嬢さん、お話は…また…」
その日、ケイ介は父親に叱られた。お嬢さまとあまり親しくするなと、厳しく言い渡された。つばきも親に叱られた。もうお嫁に行くのだから、下働きの男なんかと、万が一何かあったら、お相手の家に言い訳できない。
早朝に、一緒に池まで行って、ケイ介が取ってくれた椿の花が、髪からぽたり、と、散るように落ちた。
そうして夜遅く、ケイ介が粗末な部屋に戻ると、机の下に白いものが見えた。椿の花と、その傍らに短い手紙。かさりと開いて、ケイ介はそれをすぐに懐へ隠した。
「蛍池で待っています」
と、そう書かれてあった。手紙を隠した懐を、強く、大事そうに押さえて、ケイ介はきつく目を閉じる。蛍を一緒に見る約束だけは、叶えたい。つばきお嬢さんのために、そして自分のために。だけれどこの手紙は、もしかしたら、連れて逃げてくれと、そういう意味かもしれなくて…。
逃げられるものなら、とケイ介は思う。
綺麗で可愛くて我侭で、ずっと彼を困らせてばかりのつばきお嬢さん。まだ十になる前に初めて会って、その時からずっと、好きだった。彼女の名前と同じ、椿の白い花に「好きだ」と込めて、つばきお嬢さんの髪に飾った…。
あぁ、逃げられるものなら。そうして、贅沢ばかりで育った彼女と、共に暮らしていける、そんな男であったなら。だけれど、そんなのは夢ですら叶わない。所詮、大地主の一人娘のお嬢さんと、下働きの自分とでは、どんなことをしたって、一緒にはなれやしない。
せめて、朝になったら、最後の椿の花を、一輪拾って渡したい。そう思って、ケイ介は薄っぺらい布団に潜り込んだ。彼の父親が、まるで見張るように、明け方近くまで寝ず、彼の背中を眺めているようだった。
「ケイ介はつばきを好き? 嫌い?」
つぶやいて池の傍で、つばきは小石をこつんと蹴った。それは池にぽちゃりと落ちて、水面に浮かんでいるたくさんの椿の花を揺らした。
つばきのことを、嫌いなの?
嫌いならどうして花をくれたの。
どうしていつも私の我侭、嫌がらずに聞いてくれたの?
彼女は長いことずっとそこにひとりでいた。夜、夕餉の片付けで忙しい使用人たちの目を盗み、気付かれないように抜け出して、ケイ介の部屋に手紙を置き、一生懸命ここまで走った。この蛍池は、ケイ介と自分だけの場所だから、もしも探されても、ここなら見つからないと判っている。
彼女の髪には椿はない。手紙と一緒に置いてきてしまったから。月は高い空にかかって、あたりが暗くなると、蛍の最初の一匹が、青白い光を放って、ふわりと飛んだ。
「あぁ、綺麗ね…。これが蛍なのね。ケイ介は、蛍介だから、この蛍はケイ介なんだわ。…ねぇ、ケイ介? ケイ介はつばきを好き? ずっと前から好き? 今も…好き?」
つばきはふらりと立ち上がり、たった一匹だけ飛んでいる蛍に近付こうとした。蛍はふわふわと、彼女の指先に纏いつき、まるで彼女を好いているように見える。
「あぁ、つばきも好きよ。ケイ介を好き。離れ離れになったって、私はずっと…。あ…っ!」
水が跳ねた。蛍は飛沫から逃げるように、一度は高いところへ飛んだ。だけれど水際へすぐに戻ってきて、静かに何度も光を灯した。
ケイ介は、つばきを好き?
池の傍で何度も繰り返された言葉に、ケイ介はずっと答えなかった。そんな彼が、その明け方に、池の傍に膝をついて、喉が裂けるほどに、胸が潰れるほどに、泣いたのだ。
たくさんの落ちた椿の花に囲まれるように、つばきお嬢様は池に浮いていた。綺麗な色の振袖を広げ、綺麗な長い髪を揺らし、まるで彼女を飾るように、椿の花が、数え切れないほど、水面に…。
もう、朝になるというのに、一匹の蛍だけが、彼女の黒い髪にとまっていて、ケイ介の叫びに驚かされたように、いつの間にか消えていた。
「つばきお嬢さんが、好きだ…。好きだったんだ…ずっと…」
最初で最後の告白は、散々泣き叫んで、枯れた声。彼の慟哭が届いたように、椿の花が、また幾つか落ちて、その一輪が丁度、水に浮いているつばきお嬢さんの髪を、そっと飾った。
その先、何年かたっても、池にはずっと、夜半には蛍が飛び交い、傍には、夏椿の小さな木が、水の上に枝を差し出していた。その枝から、白い椿の花がいくつもいくつも落ちるのだ。蛍はそれを恋しがるように、椿の傍で光を灯した。
この先もう、誰も、拾って髪に差したりしなくとも、花は毎年咲いたし、蛍も毎年、淡く儚く光る。蛍池の蛍は、闇の中で美しく発光するような、白い花に群れるのだ。白い椿の花には特に、綺麗に光りながら群れる。
地主の家を追い出されたケイ介は、自分でボロ小屋を立てて、山の奥深くに身を隠して住んでいる。彼は毎夜、そこに来て、椿と蛍を眺めていた。椿の季節が終わり、蛍の季節が終わっても、毎夜、白い花を一輪、水に浮かべに来た。
そうするうちに、池は枯れた。蛍もいなくなった。
つばきお嬢さん。お嬢さんは椿の花がお好きでしょう。
蛍はきっとケイ介が、またいつか見せてあげますから、
今はこの椿だけで我慢してください。
つばきお嬢さんとの思い出のある、大事な大事なこの池も、
今では畑や田んぼに水引くために、川を塞き止められ、
昼の間は乾いてしまう。
もう、ケイ介は蛍になって、お嬢さんの傍へ行きたいけど、
その方法も判っているけど、今は蛍池を守ります。
夜の間だけでも、蛍池はあの日のままにあるのです。
ケイ介が、この世に生きている限り。
つばきお嬢さんの好きだった椿。
つばきお嬢さんが、ケイ介と見たがってくれた蛍。
ここはお嬢さんとケイ介との、思い出が降り積もる場所…。
ある時、ケイ介はまたこの池で蛍を見たのだ。
だけれど、今、この池に飛ぶ蛍は、ほんとうの蛍じゃない。それらは蛍とそっくりで、白い花が水に落ちると、愛しむように、それへと集まり、花が水に沈むと水の底へまで、花を追ってゆく。
蛍と同じ姿の、蛍じゃない生き物。蛍火という名なのだと、知り合った蟲師に教えられ、ケイ介はさらにそれを調べる。他に知っている蟲の覚書に紛れ込ませて、彼は詳しく調べた蛍火のことを記録した。
蟲師はこうも言っていた。
蛍火は、もうとうに滅びた蟲。だけれどあの蟲は、ごく稀にだけ、時を超える力を持っている。白い花の贄と、今は蛍の居ない、清らかな水とがあれば、彼らはその時だけ現れて、美しい姿を見せてくれる。
つばきお嬢さん、見ていますか。蛍ですよ。
あなたが見たがっていた蛍がまた、
この池に光を灯しにきてくれた。
やがては彼も年老いて、もうそろそろ長くはない。彼は昔々、自分で書き綴った、あの書付のことを思う。蛍になる方法は、今は必要がないから、と、一度は手放した文面を、彼は一言一句思い出した。
既ニ 種ノ滅ビシ 古キ時代ノ 蟲ニシテ
マレニ故 揃フ時
ソノ姿 闇色ニ紛レ飛ブヲ 見ユル
人ノ チカラ 持ッテシテ 故ヲ揃エント欲スルナラバ
ヒトツ 天ニモ地ニモ 闇照ラス トモシ火退ケオリ
ヒトツ 古キニ 蛍ノ住ミシ 水辺ニテ ソノ身捧ゲ
ヒトツ 水ヘ供ウルハ 曇リテ無キ 白キ花
四ツ 五ツ 六ツ 摘ミオクベシ
其レハ 贄ニシテ 足リヌコトナキヨウ
足リヌハ 身代ワリノ 生ケル其ノ命
儚クナリテ ホタル火ノ 一ツトナリヌ
酔イ痴ンガゴト 稀ナル ホタル火
明ケノ刻マデ 飛ビ交イテ
三タビ 古キヘ 帰リユクゴトシ
永久ニ 眠ラン
あぁ…長く、本当に長くお待たせしましたね、つばきお嬢さん。
椿の花も、今年はもう終わり、蛍の季節も終わりますから、
そろそろ、わたしもつばきお嬢さんのところへ逝きましょうか。
そちらでも蛍は飛びますか。
そちらでも白い椿は咲きますか。
今度こそ、一緒に見ましょう。
わたしの取った花をどうかまた、
綺麗なその髪に飾ってください。
今、お傍に逝きますよ、お嬢さん。
もう二度と離れはしません。
ケイ介は、お嬢さんが、
とても、とても、好きですから。
老爺は道標を肩に担ぎ、静かに微笑みながら立ち上がった。
終
お読みくださいました方、
そして背中を押してくださったJ様、
ありがとうございますv
2010/08/22