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 夕暮れの中を往診に出ていく化野を、畳の上で仰向けのまま、あの時、ギンコの視線が見ていたのだ。ギンコは彼を引き止めはしない。化野は旅にゆくギンコを引き止めないように、日が暮れる前に、わざと外出したのだと判っている。

「気ぃつけて、ゆけよ…」

 それだけを言った。こぶしが強く握られて、震えているのが見えた。ギンコは、あぁ、とだけ言った。それしか言えなかった。

 それから数時間、化野は暗い道を、項垂れて歩いている。坂を上りながら顔を上げれば、灯りのひとつも灯らない家が見えた。

 行ったんだな、ギンコ… 
 お前はもう一度ここに戻れるのか。
 俺はお前と再び会うことが出来るのか。
 
 問うてもしかたない問いを、無理に押し殺した胸が痛む。真っ暗な家に帰って、灯りをつける気もせずに、鞄を置くと、化野は闇に蹲る。濃い闇色の中にいる彼は、だけれどふと、零れている光に気付いた。

 ぴったりと閉じた隣室への襖から、仄かな光がもれているのだ。細かい銀の粉を零したような、ほんの微かな光りだった。

 まさか… まさか…っ

 ガタリ、と音を立てて襖に手を掛けたその時、その向こうからギンコの声がしたのだ。

「あだしの…か…。戻ったのか」
「…ギ…っ」
「まだ、来ないでくれ。聞いて欲しいんだ…」
「ギンコ…お前…」

 化野は襖に手を掛けたまま、小さく震えてギンコの名前を呼ぶ。

「ギンコ、ギンコ…」
「…なんだよ、そんな声で呼ぶなよ。どこにも行っちゃいねぇよ。…まだ…な」
「まだ…」

 残酷な言葉だった。畳の上に膝をついて、化野はそこに屈み込んだ。零れそうになる嗚咽を堪えるので、彼は精一杯だった。何故まだいるのか。どこへ行ってしまうというのか。ほんとうに…ほんとうに、俺が言い当ててしまったような、戻れないような場所に、お前はゆくのか…。

「あだしの…」

 ギンコはかすれた声で呼ぶ。揺れてしまうのを無理に隠すような、力のない声で…。

「お前、蛍は好きだろ? 今まで、一緒に見たことはなかったが、きっと好きだろう…?」
「あぁ、好き…だよ…」
「…それなら、待っていてよかった。…見せられる」
「どこに…」

 化野の問いかけに、ギンコは答える。声が、遠ざかったように思った。来て良いとは言われていないのに、ほんの少し襖を開いてしまう。
  
「いや…。ここでだよ…。ここにいる」
「ギ…ン…」
「…せっかちだな…せんせい」

 改めて大きく開いた襖の間から、やっと向こうの部屋が見えた。隙間から零れていた光は、もっと明るく見えたのに、部屋にはどんな灯りもともってはいなかった。あるのはいくつかの…小さな光たち。

「ホタ…ル…?」
 
「あぁ…そうだよ…蛍火だ」

 ギンコは縁側に座っていた。辺りは真っ暗で、彼の体の輪郭が薄っすらと見えるだけだった。蛍はギンコの体にとまっているのか、彼の肩の辺りにひとつ、頭にひとつ、傍らの床にひとつ、光が灯っていた。

「き、れい…だな」
「……そうか」

 見ている前で、ギンコの背中にもひとつ、光が灯った。その青白い小さな光は、化野の眼差しに追われながら、すう…とギンコの首の方へと揺れながら動いた。

 ゆっくりとした点滅 ゆっくりとした飛翔
 か細い光は 今にも消えそうな命のようだ

「お前に、とまっているのか…?」
「……ちがうよ…」
「違う…?」
「あぁ、違うよ。蛍火は…ここにはいない…」

 でも、見えるじゃないか。お前の傍に蛍はいて、お前を慕うように纏いついているじゃないか。なのにどうして…。

「ここには、いないんだ…」
「……おま…え…」

 遠く遠く、消えそうに揺れる声に、化野は震えた。ぽつぽつと灯っては消える光に、何かが照らされている。暗がりの中で、一瞬ごと、その小さな光が、闇色の影を浮き上がらせている。

 尖った草の葉

 細い枝

 流れの静かな水面の揺らぎ

 ここに…化野の家の庭には、ないはずのものを蛍たちは照らす。そのかわり、ギンコの髪にとまっているはずの蛍は、彼の髪を照らさない。肩にいる蛍はギンコの肩を、指にいる蛍はギンコの指を、どうしてか、ほんの少しも照らさない。

 草の葉が、枝が、水面が、ちらちらと光ながら飛ぶ蛍に照らされて、ギンコのいる場所に見えていた。

「ギンコ…」
「…綺麗だろう? 化野…。きっと綺麗なんだろう。ここにいる俺は…もう、俺じゃあ…ないよ。だからかな、俺には…見えねぇんだ。もう見えねぇ…。お前の姿も見えない。…だから、もっと何か言ってくれ…、残ってる片耳も、きっと…もうそろそろ『影』になる…」
「ギ、ギンコ…、ギンコ」

 化野は泣き喘ぎながら、けして目を閉じることなく、項垂れることなくギンコを…。ギンコの形をした影を見ていた。その形のままに、どこか知らない風景を見せる、暗い洞を、化野は見ていた。

「ギンコ、行くな…、ギンコ…」
「…そ…だな、ぁ。行き…く……ね…よ…。……だしの、最後…、おま…に、きれ、…な…を、見せら…て、良かっ……」


  さ   よ、なら…


「ギ…ン……。嘘だ、ろ、ぉ……っ、ギンコぉ…ッ」


 一匹の蛍が、すう…と、化野の方へ飛び来るように見えた。けれどその光は、差し伸べた化野の手に届くより先に、闇に喰われるように、ふい、と消えていってしまった…。





 化野。俺はお前に、最後まで我侭言ったな。
 だから、これは俺からの最後の土産だ。
 形のないもので、すまんな…。
 だけど、
 綺麗なものが、好きだったろう。
 珍しいものが、大好きだろう。
 
 俺はもう、この世のものじゃあないけど、
 せめて『影』でいられるうちに、
 お前に別れが言いたかった。
  
 辛い想いさせるよなぁ。
 そんなのは、俺の自惚れだといいのにな。
 
 本当は消えるのを見られたくなかった。
 嘘でもお前と同じ世界に、
 ずっとずっと居たかったんだ。
 
 悪ぃな
 
 ありがとう…



 
 
 呆然として、化野は縁側の柱に寄りかかって座っていた。朝の光の中で見つけた手紙から、ギンコを取り戻す術など、見つけられそうになかった。ただ涙が零れて、枯れるほど零れていくのに、泣き止むことが出来なかった。

 彼は愛するものを、蛍に奪われたのだった。
 




  








 もしも万が一、ここで「終」とかって間違えて書いたら、どこかから怒声が飛んできそうです。一番書きたかったシーンが、なんとも一番難しい。ギンコの体が「影」になって、その影の中に、過去の蛍火池の風景が透けて見える…っていう…。

 あ、そう見えませんね。…しくしく。いいですよ、玉砕覚悟で書き始めたお話です。仕方ないさ。でも最後まで頑張ります。

 次はギンコ救出編ーーーーーーっ。と言っても、先生が何かできるわけじゃなくて、ギンコはギンコ自身で自分を助けるんですけどね。ははははは。助かったあと、どんな顔して先生に会いに来るのかな。ふふ。

 そういうわけなので、ギンコのことは、ご心配なくっ。


10/08/08