蛍 火 の 籠 3
あぁ、怒らしちまった…
ギンコは胸に深く刺さるようにそう思った。顔を見るだけのつもりが、見つかって逃げられもせず、恋しい想いも離れたくない想いも、少しも押さえられず、もう、すぐに夕暮れだ。
こんな悲しい思い出ひとつ、上乗せに…。
違うんだ。そんなことのために来たんじゃない。
「あだし…の…」
「間違うなよ。怒ってやせんからな」
言われてじっと目を凝らせば、化野は、痛みを堪えるような顔で笑ってた。閉じた障子からふらりと離れて、ギンコの前に膝を付き、差し伸べた手でギンコの片頬を包むのだ。
「いいや、怒ってはいるが、それは俺自身に怒ってるんだ」
顔を寄せて優しく口付けし、黙ってそれを受け止めるギンコの頬を、大切そうに彼は撫でる。
「…お前、また何か危ないことになってるんだろう」
ギンコは目を見開いた。動揺を見透かされまいと、慌てて項垂れようとするが、それは許されず、今度は両手で顔を押さえられ、さっきよりも深く唇を合わせられる。口付けを解くと、化野は更に言った。
「俺が今まで、どれだけお前を見てきたと思うんだ? 蟲を見ることは出来なくても、お前のことはちゃんと見えるし、感じ取れる」
「ち…が…。何言っ…」
「違わないさ。…俺は、お前がそんな顔してるわけは知らない。だが、不安なんだろう? ギンコ。怖いんだろう? だからお前はここに来たんだ。俺の顔見て、俺の姿を見て、声もできれば聞いて…。そうして行こうとしたんだ、どこか遠い、もしかしたら戻ってこれないかもしれないところに」
ギンコは強く息を吸った。そうしてそのまま息を止める。そうしなければ、嗚咽が零れそうだったのだ。みっともなく化野に縋って、不安も怖さも吐き出してしまいそうだった。
何も言わないギンコに、言葉を強いようとはせずに、化野は静かにゆっくりと言う。
「俺は俺自身に怒ってるんだ。そんなお前を見ても、俺では助けられないと判っているだけで、何も出来ない自分を、怒っているんだ」
でもなぁ、それでもこんなに、お前を…好きだよ…
化野はそう、小さく言った。そうしてまたギンコの口を吸って、ゆっくりと彼の体を畳の上に押し倒していく。抱くぞ、と、化野の囁いた声が、ギンコの胸に染みていく。染みた胸から彼の体の隅々まで、化野の想いが満ちていく。
指先まで、つま先まで、白い髪の一筋の先までも染み透り、ギンコは抱かれながら涙を零していた。逝きたく、ねぇよ…と、泣いていた…。
* ** *** ** *
その谷にはもう、水の匂いが満ち始めている。走り通しでここまできたギンコは、自分を阻む最後の枝を、ゆっくりと掻き分けどけてその池に近付いていく。
雲が空を覆っていて、月の明かりは地上に届かないから、夜目の効くギンコでさえも、少しはあたりが見えにくい。
不思議だった。ついさっきはあんなにも水の音が聞こえていたのに、目の前の池に注ぐ水流は、今にも途切れてしまいそうに弱弱しい。それでも池は、畳の六畳ほどの広さがあるだろうか。
ここがその「蛍池」なのだと、確かめるすべは今は無いが、やってみれば、きっと判る。
ギンコは無言で背中の木箱を下ろし、それを池の傍の草の上において、例の書付を取り出して開いた。闇の中でそれをもう一度読み返し、すべきことを確かめると、彼はまず靴を脱ぎ、それから躊躇いなく、しかし慎重に、池の中へ足を踏み入れた。
今は夏の盛りなのに、水はまるで氷を思わせるように冷たい。心地いいと思うよりも、心臓まですくみあがるほど辛くて、ギンコは腹まで浸かったところで足を止める。
そうだ。白い花が、いるんだったな…。
そう思って胸に手をやって、彼の指が不意に慌てたように、ポケットの奥底までを乱暴に探った。無い、のだ。確かに摘んできたはずのヤマボウシの花が。
二輪摘んだのを覚えているが、ポケットの底に一枚の花弁すらもない。あんなに走ったから、落としてしまったのか。これでは条件が揃わない、せっかくここまでしたものを…。諦めるのは嫌で、ギンコはもう一度、近場で白い花を探そうと思った。
もう歯の根が合わない気がしつつ、強張る体で池から上がる。何か体を拭くものを取り出そうと、木箱へ手を伸ばした…その時だ。
ガク、と、ギンコの足が止まる。彼の足が、誰かに捕まえられたのだ。いや、彼を引き止める何か、など、こんな場所にいる筈がない。ただただ、水に没したままの両足が動かなくなって、ギンコの体は前のめりになる。
伸ばしていた片手が木箱の背負い紐に引っかかり、箱は池の方へと転げた。やべぇっ、と叫びながら拾おうとした手が、池の水についた途端に、その片手が今度は動かない。
「なん…だ、これっ…」
ずるり、と体が池の奥の方へと引っ張られる。足を踏ん張り、もしくは前へと進もうとするが、右の足も左の足も、すでにギンコの意思では動かなくなっていた。
「く、そ…、木箱…。あぁ、書付が…ッ」
例の書付は、ギンコの目の前ですでに水に漂って、じわじわと沈みかけている。ついさっき彼が目を通したところが丁度開いて…墨で書かれた文に、何故か別の文がうっすら重なって見えた。
濡れて沈んでいく書付の、二枚ぴったりと貼り付けられ、隠れていた箇所が、はらり、今更のように剥れて、偶然にか、故意にか、秘されていた全文が…。
人ノ チカラ 持ッテシテ 故ヲ揃エント欲スルナラバ
ヒトツ 天ニモ地ニモ 闇照ラス トモシ火退ケオリ
ヒトツ 古キニ 蛍ノ住ミシ 水辺ニテ ソノ身捧ゲ
ヒトツ 水ヘ供ウルハ 曇リテ無キ 白キ花
四ツ 五ツ 六ツ 摘ミオクベシ
其レハ 贄ニシテ 足リヌコトナキヨウ
足リヌハ 身代ワリノ 生ケル其ノ命
儚クナリテ ホタル火ノ 一ツトナリヌ
………
水に沈みゆく書付の、その文面を、ギンコがすべて読めていたかどうかは判らない。
「足リヌ」どころか、ギンコは白い花の一つも、蛍池に供えられなかった。花が足りなければ身代わりにされるとしても、ただの一つも花がなければ、条件は揃わず、何も起こらないのではないのか?
昔、蛍のいた場所
月の無い闇夜に
池の水を浴びて
白い花を…供える
だが、自分を捕らえている黒い冷たい水の、その水面の下に、ゆら…と、小さな光が揺れたのを、ギンコは確かに見たのだ。
ひとつ ふたぁつ みぃつ よつ
幻のように微かに明滅し、それでいて灯るごとに、青い蛾の鱗粉のような銀色を、微かな残像に残して消える。
今やギンコは、池の底に膝を付き、身動き一つもできなくなっていた。そうして彼は、離れた池の水面に、真っ白く美しい、夏椿の花が浮いているのを見た。その真上に、椿の木の細い枝が。
「…あ…ぁ…、椿…」
白い花の、供え物… 一輪きりの…
がくり、と冷水の中でギンコの体が崩れる。ばしゃ、と大きく飛沫があがった。
儚げで小さくて青白い、いくつもの光は、水の下でゆらりゆらりと揺れては光り、揺れては消えていく。そうしながら、たった一輪の夏椿の白花に群れて、その花を水に沈ませた。
そうしてギンコも、椿の花と同じに、無数の蛍火に纏いつかれ、その体はゆっくりと池の底へ…。冷たい冷たい、水の底へ。遠い遠い過去の中へと…。
続
ごめんなさい、と先に謝って起きますが、エチシーン乞う御期待!とかいっといて、そのエチシーン、さっくりと省かれてしまいました。もしかしたら今度こその次回に、その残り香くらい漂うかもしれませんー。ヤったことは確かだと思うんですけどねぇ。
いろいろと謎だった部分が明らかになってきてます。え? わかんない? あー、それは私の文才のないせいだ。ごめんなさい。
せめて、書付の蛍火の説明文の意味を、今日のブログに書いておくつもりです。あとでね。ではでは、お読みくださりありがとうございましたー。
10/07/26