蛍 火 の 籠 2
人ノ チカラ 持ッテシテ 故ヲ揃エント欲スルナラバ
ヒトツ 天ニモ地ニモ 闇照ラス トモシ火退ケオリ
ヒトツ 古キニ 蛍ノ住ミシ 水辺ニテ ソノ身捧ゲ
ヒトツ 水ヘ供ウルハ 曇リテ無キ 白キ花
酔イ痴ンガゴト 稀ナル ホタル火
明ケノ刻マデ 飛ビ交イテ
三タビ 古キヘ 帰リユクゴトシ
永久ニ 眠ラン
説明書きは見開きを超えて、その次へ捲る先へも続き、そう締めくくられていた。ギンコはそれを何度も読み、すっかり覚えむ程になってしまってから、やっと書付を片付けて歩き出したのだが、頭の中はその言葉ですべて埋め尽くされている。
それはまるで、この通りにやってみろ、とでも言わんばかりの箇条書きだ。でも、曖昧なところは酷く曖昧で…。
どうしたもんか、と、ギンコは思っていた。
「天にも地にも灯火退け」ってのは、月の無い夜に、あかりも灯すな、ってことだろう。けど、その次の「古きに蛍の住みし水辺にて」というとこが、多分、昔は蛍がいたけど、今はいない水辺? 「その身捧げ」だとか、入水して死ねとでも言う気かい。……まさかな。
「供えうるは、曇り無き白き花」。これはまぁ、真っ白な花を水に放せ、ということか。
示された環境の示された場所で、体をその水で濡らして、白い花を供えろ…って、その程度なら、やってみたい。それも、是非とも。もう死に絶えて、二度とは見られん蟲を、それだけのことで見られるというのなら、多少の苦労や危険は構わねぇ。
問題は、その、昔は蛍がいたけど、今はいない水辺ってヤツだ。
手ごわいな、と頭を掻いたギンコと、その時擦れ違った老爺がいた。殆ど禿げてしまった髪は真っ白く、背中は少し曲がっているものの、慣れた様子で歩く足元がしっかりしている。
土地のもんだな、とギンコは思い、とりあえず情報収集を試みた。
「聞きたいんだが、ここらで昔、ほたる…」
「あぁ? 蛍?」
ギンコは開けた口を閉じるのを忘れた。顔を上げて振り向いたその老爺が、肩に担いでいるもの…。朽ちかけた、それは道標だろうか。長い年月、雨ざらしにされ、ところどころ苔やカビに侵食されたその木札には …「コノ先、ホタル池」 …と。
「爺さんっ、そりゃどこのことなんだッ」
「…何の話だね、若いの」
そうして教えられたのは意外な話だった。
今さっき、まさにギンコが歩いて超えてきた谷の底には、昔は澄んだ水の湛えられた大池があったというのだ。だけれど今は、その池に流れ込む小川から里の畑へと水を引いているため、その場所には、もう…。
それではその池は無いのかと、半ば落胆しながら聞くと、老爺は何かを噛み締めるように言った。
「在るといえばある、無いといえばない、のぉ」
「…謎掛けかよ」
「そんな無意味はせん。畑に水を引いとるは昼間だけでの。そろそろ水門を閉じにゆく。そうすりゃ池のあった場所には、わずかばかりの水がたまって、昔とは比べるべくもないが、小さな小さな池が出来る。…蛍火池は、無くなってはおらん」
そうして老爺は道標を肩へ担ぎなおし、ゆっくり、ゆっくりと坂を登っていった。ギンコはその背中を、見えなくなるまでずっと見送っている。
昼間は川を塞き止められ、水の絶えてしまう池。夜の間には川から水が流れ込み、再び現れる池。それはまさに、蛍の住み着けるはずの無い池だ。蛍池という名がありながら…。
そういえば、三日前は雨が降った。ここの山と谷は、大きな山脈に属しているのだ。山脈に降った雨は土に滲み込み、やがては川に流れ込み、数日掛けてこの山裾の谷までも下ってくるだろう。それなら、もしや今夜あたりは。
もう、夕暮れだ。うっそうと茂った木々の葉の隙間から、ほんの僅か零れてくる日差しが夕時の色に染まっている。ギンコは背中の木箱を背負いなおすと、たった今歩いてきた道を戻っていく。
だんだんと暗くなっても灯りはつけない。幸いと言っていいのか、夕日が落ち切ってしまう前に厚い雲が立ち込めて、空には星一つ見えなかった。条件の二つ目はそれで叶う。あとは白い花だ。
やるべきことは必ずしもはっきり判ってはいないが、ここまで揃ったのなら、やってみんわけにはいかん、というものだろう。あたりを見回し、白い花を探しているギンコの目に、道の脇から枝を伸ばす、ヤマボウシの花が映った。
白い花だっ、と、喜んで手を伸ばし、ひとつ、ふたつと摘んで胸ポケットへと入れた。花を潰してしまわないように気を遣いながらさらに進むと、さっき数時間前に通った時は聞こえなかった音が聞こえてくる。
水の音だ。川のせせらぎが聞こえる。しかも、ちょろちょろという頼りない音ではなく、はっきり水の飛沫く音まで混じった、確かな川の流れる音色。と、すれば、蛍池はこの先だろうか。
彼にしては珍しく、焦ったようについ走り出してしまう。水を奪われた池が、確かな池へと生き返るさまが見たかった。その場所に、既に死に絶えた蟲が蘇って、美しい姿を見せてくれるというのなら、尚更のこと。木の根には何度も躓いた。木箱の中身がゴトゴトと文句を言っていたが、それを気にしつつも足は緩められない。
ふと、化野の顔が思い浮かぶ。
もしかして今の俺は、蟲の話を聞いてはうきうきと目を輝かせるあいつと、おんなじような目をしているかもしれんな。もしも今夜、蛍火という美しい蟲が見られたなら、こんないい土産話はない。待っててくれよ、と思いながら無意識にギンコの口元が笑う。
そうしてギンコは、枝を何度も掻き分けたその先に、探し求めていた池を見つけたのだった。
* ** *** ** *
寒い、とギンコは思っていた。程よく風の通る縁側で、化野はうちわの手を止めて、心地よさげに目を細めているのに、それでもギンコの体は震えている。
少しばかり日が傾いていた。夕暮れの色はまだ見えないが、ギンコにはもう時間が無い。
「美味かったよ、魚」
「おぅ、それは良かった。でも夕餉のころにゃまた腹が減るだろう。どら、そろそろ飯を…」
「化野、さっきも言いかけてたんだが、俺は今日はもう。夕暮れになる前に出ねぇと」
そうか、と聞き分け良さそうに言った癖、化野はひょい、と手を伸ばしてギンコの額に触れようとした。反射的に腕で遮って、触れられんようにギンコは身を後ろへと下げる。
「なんだ、急に」
「いや、顔色が悪いかな、と思ってな。熱を見させろよ。…どら」
「…っ、いいッ。ね、熱なんか、ない」
違和感のあるほど激しい声が出た。化野は少し目を見開いたけれど、それ自体を咎めたりはせず、何かあったのかと重ねて聞くこともせず、額に触れるかわりに、自分を遮っているギンコの腕に触れた。
腕は、別に熱くも冷たくも無い。顔色がいつも以上に白いのは、気のせいではないと思うのに。
「あだしの…」
ギンコが小さく、化野の名を呼んだ。項垂れて、吹く風に白い髪を揺らした。膝にのせられたその手が、指が、ぎゅ、と力を込めている。唇を震わせて、彼は言った。
「し…しねぇか…?」
「ギンコ」
「泊まってけねぇから、するんなら…今しか」
数秒、答えずにいたら、ギンコは情けなさそうに苦笑って、自分から誘った言葉を翻そうとした。
「あ、悪ぃ。勝手が過ぎるよな。まだ往診とかあるんだろ。ならやっぱ、もう行くわ。美味い魚も喰ったし…。あとで俺の分も青左に礼を言っ」
言葉が切れた。握られた手首が痛む。後ろ頭の髪を掴まれて、強引な口吸いにさえも痛みがある。
「んぅ…っ、ふ」
「……」
「あ、あだし…ッ」
「……うるさい」
「障子、くらい、閉め…」
ギンコの手首を握っている手に、ぎゅ、と強い力が篭る。
「今離したら、お前は逃げる」
「何言ってんだ。お、俺から誘ったんだぞ。だ、だから…っ。あ…」
激しく首筋に吸い付いて、赤く色をつけたその肌に舌を這わせてから、化野はやっと立ち上がった。背を向けたのは一瞬で、ギンコの方を向きながら後ろ手に激しく障子を閉める。ばしん…っ、と言う音は、離れた隣家まで聞こえだろう。
影になった化野の顔に、どんな表情が浮かんでいるのか、ギンコには見えなかった。
続
数日前のギンコと、今の化野とギンコのシーンとが、いったりきたりしてます。すいません、判りにくくないですか? 本来、私、こういうの苦手なんですけどねぇ。頑張りますけども。
あと、一話の終わりのとこと、このニ話の最初のとこの文とか、カタカナ混じりで雰囲気出したかったけど、これも読みにくそう…。
途中で出たちょい役のお爺さんは、短い登場ながら味が出ていると嬉しいです。別にまた出るわけでもないけどね。多分、自身の幼い頃には滾々と水が流れ込む立派な蛍池だったのでしょう。そして田畑ために犠牲になってしまった池を、今も守っているのだと思います。
このお爺さんがいなくなったら、この池はもう夜の間だって水をためないと思うのね誰もそんな面倒なことしないさ。
そしてお爺さんは生きている間、水の無い昼間は「ホタル池」の道標を外し、水のある夜だけはまた、道標を立てにいくのです。夜間なんて誰も通らない山道だとしても。
このお話には、失われた過去の儚さと貴さを滲ませたいと思うので、象徴的な存在になってくれるといいな、と思うのでしたよ。
ジカイはエチシーンかーーーーーーっ。コうゴキタイ。
10/07/18