火 の 籠     1






 化野は縁側の障子を全部開け放って、軒のびいどろの風鈴が、ちりり、ちりり、と鳴らす音を聞いている。ただ聞いているだけではなくて、日誌か何かつけているらしい手を、たびたび止めてその風鈴を見上げていた。

 適当な長さの乾いた髪を、風鈴に吹いているのと同じ風に揺らしている。ぱらぱらと捲れてしまいそうな日誌の紙を、あまり日焼けしていない白い手が抑えている。その姿が、外からもよく見えるのだ。

 透き通った硝子に、うっすらと白を溶かして混ぜたような、柔らかな色のその風鈴には、あざやかな緑の色のもみじの葉が一枚、綺麗に描かれてあった。


 あぁ、ああいうのが好きだろうな、お前らしいよ。

 そういえば、前にどこだかで通りすがった、潰れかけの骨董屋の店先に、まだ春にもなったばかりなのに、あんな感じの風鈴がひとつ、埃かぶって置かれていた。

 買って持ってくりゃよかったか。
 それとも、似たようなののもう一つなんか、
 あってもいらないかな。
 いくらお前でも。

 ちりり ちり 風鈴がまた音を鳴らす。化野の髪が揺れる。その書き物の手元で、小さな紙の切れ端が、風に飛ばされて畳の上を滑った。別にそれほど驚いたふうもなく、顔を上げて手を伸ばして、化野はその紙切れを、指に捕まえて…。

 ふ、と、化野が垣根の方を見た。気付かれたかとギンコは目を見開き、彼の視線が、丁度良く音鳴らした風鈴へと移るのを見て、息を吐く。

 駄目なんだ。もしも、今…。


「あれぇ…っ? ギンコさん、来てたのかい」

 その時、唐突に後ろから声を掛けられて、ギンコの表情が固くなる。手に小ぶりのざるを持って、そこに小魚を山と積み上げた青左が、得意そうに自分自身を褒めた。

「見なよ、化野せんせ。俺ってこう見えて勘がいいんだよな。先生一人にこんなに沢山は、いらないだろって言われたんだけど、やっぱりこのくらいあってよかっただろ。ギンコさんも先生も、たんと食ってくんなっ」

「ああ、青左。ほんと助かる。みんなにも礼言っといてくれ。さ、渡したら仕事に戻れよ。お前はここにきちゃあ磯に戻らないって、前に言われたぞ」

 ちぇ、なんだよ、と唇を尖らせて、それでも磯働きの青左は、ギンコの背中を嬉しそうに叩き、すぐに坂を駆け下りていく。青左はギンコが初めてこの里に来た頃、気安い様子で彼に馴染んでくれた、気のいい男なのだ。

「ギンコ」

 名を呼ばれてギンコは化野を振り向いた。けれど足は中々前に出なくて、いつもは軽く跨ぎ越す低い垣根が、邪魔なのだとでもいうように、ギンコは小さく俯いている。

「よく来てくれたな。久しぶりだ。…? なんだ、どうした? どこか具合が悪いか? 怪我か? それとも…また、蟲のことで、何か」
「いやまぁ、そ…じゃねえよ。ただな、確かに次の蟲払いの依頼は受けてるから、折角来たが、俺は」
「まぁ、上がれ。茶を入れるし、その魚も、折角、青左が持ってきてくれたんだから、食わさず旅へ戻らせるわけには、どうしてもいかんな。少しくらいはいいんだろう? そうでなくばお前はここには来るまい」

 垣根越しに魚のざるを渡すとき、ギンコの手が化野の手に少し触れた。化野は一瞬何かを感じたが、ざるから滴る水が気になって、すぐにそのことは忘れた。

 そうでなくとも今、化野の心の中は、やっと着てくれたギンコへの慕わしさでいっぱいだった。そうして彼の頭の中は、どうにかしてほんの一晩とか、できれば二晩くらい、ギンコをここへ留めることは出来ないだろうかと、それを考えるのに忙しい。

「お、そうだ、七輪で炙るとしよう。手伝ってくれ。ギンコ、蔵にあるんだ」

 化野は言って、嬉しそうにしながらギンコを連れて蔵へと向かうのだった。



* ** *** ** *



 そう、ひと月前のあの日は、何故だか随分蒸し暑い日だった。前の日も蒸し暑くて、気持ち良さそうな川へ歩き付いたギンコは、そこでつい、服のまま軽く水を胸へかけたのだった。

 胸には蟲煙草が入れてあって、それが全部濡れてしまい、仕方なく一番近くのあの店に行った。そこの店主はいつも眉唾なものばかり客に勧めるから、妙なものは絶対に買わないと決めていても、ギンコは煩わしくて嫌なのだ。

「いいとこへ来なすったねぇ、これこれ、値打ちもんなんだよ。こういうのは珍しいんだ」
「あんたのとこには、止むを得ねぇでうっかり来るたび、いつも『値打ちもん』が一つはあるもんな」

 嫌味をいったが、こういう手合いにそういう言葉は意味をなさない。

「そりゃいつも御贔屓にっ。それでこれなんだがね、見るだけ見てってよ。珍しいのは、ほんとうだから」

 じゃあ「値打ちもん」てのは嘘なのか、などと、もう無駄だからギンコは言わない。手渡されたのは、妙に古臭い一冊の書物だった。書物といっても、端を何箇所か糸で括っただけの、見るからに素人手によるただの書付だ。

「これが何だよ」
「いいから捲ってみなさいって、あんた、驚くからさ」

 嫌々ながら、ぱらり、と一枚紙を捲る。最初は目次らしく、並んでいるのは…。これは? ああ、蟲の名か。

 
 空吹

 苔童子

 常雪蟲

 ナナシキ

 ニセカズラ

 八間炉

 ほたる火

 巻貝の鳥


「なぁなぁ、興味がわいただろう。聞いたことの無い蟲の名もあるし、色々と詳しく説明も書いてある…。このナナシキっていうのとか」
「あー。そりゃ虹蛇の別称だ。巻貝の鳥は、どうせヤドカリドリのことだろうし、ほたる火は陰火をそう呼ぶ例もある。他はどれもよく知られた蟲ばっかりだな」
「え? …い…いや、そのぅ。…ちぇ、あんたぁ若いくせに物知りだから儲けになりゃあしない。で、今日は何切らしたんだい。蟲煙草を湿気らせた? どうせうっかりすんなら、うちでうっかり紛い物に引っかかってくれりゃいいのにさぁ」

 ふとどきな事をつぶやきながら、店主は奥へ入っていった。ギンコは肩をすくめながら、時間つぶしに書物をさらに捲った。

 ナナシキ、ニセカズラ、八間炉…。やっぱりさっきの見立て通りだ。こんなもん、言い値で買ってたら大損しちまう。だが、ギンコの手が次を捲って急に止まった。

 ほたる火、と書いてあるその説明が、陰火とは違っていたのだ。そしてギンコの知っているどの蟲のそれとも違っている。案外長く書いてあるその文面を、食い入るように読み耽っていたら、店主が戻ってきて蟲煙草の束を目の前に置いた。

「ほれ。せめて少し多めに買ってってくれんかね。また湿気らせるかもしれんし、なぁ?」
「…いや、煙草は言った数でいい。けど、この書付、安けりゃまぁ、貰ってってもいいぜ。暇つぶしにでも読むさ」
「おー、毎度ありぃ。ほんというとさ、だぁれも引っかかんねぇから、捨てようかと思ってたとこだ。お馴染みさんだし、こんだけでいいよ」

 示された値段は、捨てる予定のものにしては高かったが、ギンコはしぶしぶを装いながらも、ちょいとだけ値切ってそれを手に入れた。そして、後でゆっくりと読んだその内容は、酷く珍しい、そしてとても興味を引くものだったのだ。

 書物のその蟲の項には、最初にまずこうある。



    『蛍火』

    既ニ 種ノ滅ビシ 古キ時代ノ 蟲ニシテ

    マレニ故 揃フ時

    ソノ姿 闇色ニ紛レ飛ブヲ 見ユル



 ギンコは次を捲った。胸がざわざわと騒ぐ。彼は本当に、酷く興味を惹かれていたのだった。
























 イマイチ進展してなくてすみません。少し慎重に書いております。ちゃんと書きたいことが書けるのかなんだか心配で。あ、紹介しておきますが、作中に出てきた「青左」という里の若い衆は、私の作ったオリジナルさんでして、すみません。

 ちょっと気に入っているので、時々出てくるんですけどもね。他の話でいたな、そういえば、とか思い出してくださる方がもし居たら、とっっっっっっっっても嬉しいです。ふふふ。
 
 えっと…この話は、やや不穏な話ですが、死んだりしませんので、心配して下さることがあっても、どうか深刻にならないで、安心して読んでやってください。大丈夫です。はい。

 あ、それと羅列してある蟲の名前の中には、あの新蟲企画の蟲もあったり。…いえ何でもありません。すまんな、つい。

 それではでは。また来週ー(←本当か?)



10/07/10