銀 氷 翡 翠   5

「急ぐんだ、先生、そんな大仰なのはいらねぇよ」
「いいや駄目だ。ちゃんと履き替えてくれ。今、お前のも出す。すぐだから待てるだろう。あぁ、それにな…『先生』言うなよ。ちゃんと化野って呼べ」

 化野はギンコを連れて蔵へと入り、奥の郡からいろんなものを取り出していた。綿入れ、手袋、襟巻き、藁靴までも。気が急いているギンコが、化野を化野と呼ばずに「先生」と言うと、眉をしかめて嫌そうに振り返る。

「そういう声で、お前が俺を『先生』と呼ぶのは、要らぬ気を遣っている時だけだ。いつものように『化野』と呼ぶことさえ、悪いと思って止まない時に、お前は毎度、そんな言い方になるんだ」
「…そう…か…」
「そうだとも。お前という男は、案外判り易いぞ。ほれ、お前の分の藁靴。滑りにくくていいんだ、これが」

 にっ、と笑いながら、化野はギンコの胸へそれを押し付けた。化野は綿入れをしっかりと着直し、手袋をして襟巻き頭に被る。万端整ったあと、いきなり手を伸ばしてギンコを掴まえ、その唇を塞いだ。

 あんまり突然だったから、かわすことも嫌がることも出来ずに目を丸くしたギンコが、一瞬後には勢いよく化野の頭を殴る。

「いてぇ…っ」
「何すんだ、いきなりッ」
「何って…お互い体が冷えちまってるから、ちぃと温まろうかと思ったんだよ。殴ることないだろう、口付けくらいで」
「と、時と場合を…っ」

 見れば化野は殴られた頭を、いつまでも痛そうに撫でている。

「ひでぇな、たんこぶになった」
「そりゃ俺がやったんじゃない。お前が台所で寝てる時、天井から生えてきたデカい氷柱がぶつかったんだ、ごつん、ときたのを覚えてないのか?」
 
 あー、あれか、などと呑気な声を出しながら、化野は郡の奥から小さなランプを取り出した。

「これは使わんかな、明るくもないが、そう暗くもないし」
「いや、持って行く。多分、使うことになる。これから行くのは、お前の家の中の『洞窟』だ」
「ど、洞窟…? はは、探検、だな、まるで」

 いくぞ、と低い声でギンコは言った、蔵から一歩外へ出ると、化野の家は殆ど凍りに覆われて見える。雪に降り込められた里には、何の音も無い、いつも聞こえるはずの波音すら聞こえないのだ。

 人一人の姿もない。二人以外の誰の声もしない。里人はどうなっているのだろう。不安で胸が凍えそうになる。だが、それでも化野は幾分強張った顔に、なんとか笑顔を貼り付けていた。

「なぁ。お前と洞窟探検だなんて、わくわくする」
「無理に笑わなくていいぞ、化野」
「…いや。いつもどっしり構えて、周りを安心させとくのも医家の仕事でな。それに、わくわくしてるってのは、嘘じゃないよ、ギンコ」
「ならそのまま、少しでいいから笑っててくれ。俺はちょっとばかり…」

 言い掛けた言葉を半端にして、ギンコは先へと歩いた。手袋をしたままのギンコの左手の怪我が気になったが、化野はもう何も言わなかった。握り締めたギンコのこぶしが、小さく震えているのが見えていた。

 そうして二人は、ついさっき広げた台所の「窓」へと戻る。ほんの僅かだが、さっきより穴が広がっていた。氷で出来た壁を、互いに支えあいながらよじ登り、なんとか中へ入っていく。

 さっきここから脱出したときは、慌てていたので殆ど何も見えていなかったが、改めて眺めて、化野は言葉を失っていた。白と銀色だけで作られた、分厚い壁の奥に、いつも見慣れたものが見える。

 茶箪笥、薬棚、襖に障子に雨戸、文机と、その周りの書物、薬硯、壷やらなんやら、とにかくすべて見慣れたものたちばかりだ。

「…氷付けだ」
「お前がああならなくて良かった」
「そ、そうだな」
「お前、俺の体を抱きかかえて縁側まで運んで寝かせただろう。その時にこの懐に掴まえていた蟲が、家の中へと逃げたんだ」
「蟲が…?」

 そうだ。俺はギンコを抱えて縁側へ寝かせ、とにかく部屋をもっと暖かくしようと、竈の残り火を取りに行ったんだ。湯を沸かして、ギンコに飲ませたいと思ったし。

 そうしたら見る間に視野が真っ白く覆われて、そこから先は何も判らなくなった。気を失ったんだろうが、ギンコに起こして貰わなきゃ、氷付けのあそこらへんの物みたいに、俺も。

「何ぼうっとしてんだ。奥に行くぞ。あっちに気配がする。…ここはもう蟲に支配されかけた空間だから、お前にも見えるかもしれん」

 ギンコは奥へと入っていき、もう何処が何処やら判らなくなった、狭い洞をくぐって行く。置いていかれては守ることもできん、と、化野は目に意思を込めて付いて行った。

 奥へ行くほど狭くなり、薄暗くなっていき、それでも構わず進んでいくギンコとの距離が少し大きくなる。

「ギン…っ」

 呼び止めようと伸ばした手が、ギンコの手に掴まえられる。化野の手に移るギンコの手の温もりが、いつもよりも少し熱いのは、怪我をしているからだと判った。

「あとで…。全部ちゃんと終わったあとでいいから、手当てさせろよ、ギンコ」
「ああ、そうだな、頼む」

 背中を向けたままのギンコの声が、少し震えていたが、その理由は判らなかった。



   * ** *** ** *



 お前たちのことが、俺は好きだったのにな。
 
 ギンコはそう思っていた。化野が「探検」の準備をしている間も、彼の手を引いて歩いている時も。胸がしくしくと、小さな傷を抱えている時みたいに痛んで、誰かに自分を責めて欲しかったのに、生憎、傍にいるのは、困るくらい彼に優しい男ひとりだけだ。

 さんびき蛇じゃあ、語呂も悪ぃし。よひきで一つのお前たちは、きっと消えてしまうんだろう。この世の名残のこの場所も、お前らの好きにさせてやれねぇよ。

 すまんな、すまん。

 俺はこの、後ろについて歩いている男が好きなんだ。だからこの男を守りたいし、この男の住む里が、なくなっちまうのは嫌なんだよ。

 命を守る男の手を、こうして引いてる俺の左手は、ほんのついさっき、一つの命を断ち切った手だ。

「ギンコ」
「ん?」
「…泣いてんのか?」
「………」

 短い通路のその先に、屈まなければ入れないような、小さな穴があいている。周囲はやっぱり氷の壁で、その壁を透かしても零れる。その小さな穴からも、きらきらと、しっとりと、不思議な碧色が零れている。

 その光を見ながら、暫し立ち止まったあとに、化野はそう言ったのだ。
 
 泣いてなんかねぇよ、と言葉で言う代わりに、化野の手を握っていた手を離し、ギンコは小さくかぶりを振った。彼は透き通った地面に膝をついて屈み、化野もそれを真似て体を小さく縮こまらせる。何かにお辞儀をするような格好で、跪いて頭を下げ、二人はそこへと静かに入っていく。

 そこには、言葉に出来ないような美しい泉が、滾々と碧の水を湧きだたせていたのだった。












 今日、こんなに書くんなら、昨日、寸足らずの短いのをアップした意味は? えーと…。まぁ、気にしない気にしない。うまく行くと次回でラストです! 昨日は影様の三枚目の絵を飾らせて頂きまして、次回では四枚目の、一番美しい絵を飾らせて頂くつもりですー。

 なんとか挿絵四枚とも、うまく表現できそうだと思うのでっ。ますますラストまでの心意気が「むんむん」とー。あ? 表現おかしい? 

 じゃ、「むらむら」とー。

 とにかく楽しく書いてまっすー。影様にはもちろん、読んでくださる皆様にも、感謝でございますっ。ではまた、次に書く蟲話でお会いしまショーーーーーーーー!



10/06/05