なんて美しい光景だろう。化野は口を閉じるのも忘れて見入っている。ギンコは入った入り口のすぐ前で、膝をついたままに黙り込んでいた。視線がそろりと洞の中を巡り、三匹になってしまった「よひき蛇」を探すのだが、どこにもその姿は見えない。
ほんの微かに蟲の気配があるけれど、それが彼らの気配なのかがわからなかった。
「あんまり寄るな、化野。どんなものかも判らないんだぞ」
そう言って、ランプに火を入れて翳し、一方の手で化野を捕まえながら見ていると、そのままでも美しかった「色」が、それ以上に、もっともっと美しくなる。光が滲み出してきたのだ。ランプの小さな灯りに呼び覚まされるように、水が? 氷が? 何が光っているのか判らない淡い光が、それ自体が生き物のように、空中に漂っていた。
そして碧い水と、金色の空気が交じり合うようにして、二人のいる空間が、ゆっくりと翡翠の色に染められていく。

「あぁ…! なんて…なんて美しいんだ…。まるでこの世のものじゃないみたいだ」
「…多分、そうなんだろうよ」
ぽつり、と言ってギンコは目を細める。目の前の光景が、その美しい色が、蟲によるものだとわかっているが、それにしては気配が薄い。だからこれは現実のものではないのだ。
「幻、だというのか? こんなにはっきり見えているのに。手を伸ばせば触れられそうなのに!?」
「…っ、馬鹿、よせ…ッ!」
化野は手を伸ばした。目の前の翡翠の色の水に、手袋をしたままの指をつけた。波紋が広がって、その水の輪があっと言う間に大きく広がって、泉の縁まで綺麗に届いた。だが、その輪はそこでとどまらず、翡翠の色を映した氷の壁までもを揺らしたのだ。
そうしてこの小さな世界は、ただそれだけの「揺れ」のために、脆く、あまりにも脆く…壊れる…。
「ギンコ…、こ…これは…」
「…終わるんだ。蟲たちがずっと長いこと、輪の中にとどめていた、美しい記憶が」
「ぁ…ぁ…あぁ…」
氷で出来た壁は、一瞬で水に変わり、細かい飛沫に変わり、霧へと変じて零れ落ちた。そこに映っていた色彩も消え、命あるもののように見えた翡翠色の泉の水も、ただの透き通った水になって消えていってしまう。
「……すまんな、馬鹿呼ばわりして」
ぽつり、とギンコは言った。
「そもそもこれを壊すために、こんななりまでして洞窟探検してたのにな」
我にかえれば、二人がいるのは随分と狭い化野宅の風呂場だった。ついさっきまでの氷の壁も床も天井も、元の通りの木の壁や床や天井に戻っている。立ち上がって小窓から外へ見れば、季節はもう当たり前に春で、冬真っ盛りな格好の二人の体には、うっすらと汗が。
「夢を見てた…のか…?」
「まぁ、そんなようなもんだ。蟲の見ている蟲の夢だ」
よひき蛇たちが守っていたのは、銀氷、と言う名の蟲の住処。いや、それそのものではなくて、ただの記憶。あの碧の色と金色と、それらが混じった翡翠色の煌きを、彼らは恐らく、ずっとずっと気の遠くなるほどの長い年月、守り続けていたのだろうと思う。
よひきで互いを繋いで輪になって、その中に空間を作り出して…。彼らは冬という銀色と白の季節までを、記憶の中にとどめていたのだろうか。
ギンコの足元で、ランプが、からり、と音を立てて倒れた。
「なぁ…ギンコ」
縁側で、足を前に投げ出して、ぼんやりと春景色を眺めながら、化野は静かに聞いた。
「蟲にも…何かを愛でる心が、あるんだな…」
「さあな。あるかもしれんし、無いのかもしれん。人が見て美しいと思うものを、蟲が同じように、無くしたくないとか、とどめたいと思うなんて、もし本当なら…仕事が益々、やりにくくなるなぁ」
くす、と化野は小さく笑った。本当にはどうなのか知るよしもないが、そうでなくともギンコは、心があるかどうか判らない蟲たちに、いつも非情にはし切れていないのだ。
目の前の小道を、里の子等が楽しげに笑って駆けていく。あれほどの雪が一晩で消えてなくなっていたのに、里のものらは殆ど騒ぎもせずに、日常へと戻っていた。
ある意味、本当に強かなのは、何の毒も害も無いような、働き者の里人らなのかもしれない。生きていくために、するべき事を正しく繰り返し、滅多なことでは余所見はしないし、脇道に逸れることがあってもすぐに戻ってゆく。
「俺には、出来んなぁ。知っての通り、珍しいことやら特別なことが大好きだ。…そうでなきゃ、お前の友じゃいられんしな」
「…友……」
「友じゃ不服か? 別のにしようか、恋人とか」
「…呼び名なんか……どうだって」
そう言いながら、ギンコの視線はすぐにも逸らされる。その片手は真っ白な包帯でぐるぐると巻かれ、小さな結び目が、ちょん、と手の甲の上にあった。
「それ、治るまでいろよ? 俺もまだ、そいつらを愛でていたいしな」
ギンコの座った横には、薄い白い布で包まれた何かが置いてある。布地からはみ出ているのは、銅の色をした針金の持ち手。化野にせがまれて布を解いてみれば、中身はあのランプだ。
ランプの中には、くるくると、ゆっくりと回る小さな蟲たちがいる。小さな小さな、蛇のような姿をして、滑稽な動きで、くるくる、くるくると、三匹は回っていた。そして、よくよく見れば、回っているその輪の中に、確かにもう一匹の、同じ形のものが居る。
そのランプを形作る、優しい楕円の硝子には、あの美しい翡翠の色が、ほんのり淡く留められているのだった。
「綺麗な色だなぁ。お前のその目と同じ色だ」
化野の言葉に、ギンコはうっすら、首筋を染めていた。
終
影さま、やっとラストを迎えることが出来ましたー。色々とヘタレな部分ばかりではありますが、頂いた四枚の絵を辿りつつ、一つの物語が書けましたことを、素直に喜んでおこうと思ってます! まだまだがんばならキャーってとこは、一時おいといて…ですね。
悩むのもまた、楽しさのひとつでございましたので、またこういうのに、チャレンジさせていただけたらなーと思います。
イマイチ、タイトルにあってないお話ですけど、楽しんでくださった方が、ひとりでもおりますようにーーーーっと祈りつつ、次に書くお話へと、頭を飛ばす惑い星でありました。ぺこりー。
10/06/13