銀 氷 翡 翠   3

「こらこら、こら、待て」

 言いながら、どこかで聞いた言葉だと思った。それはさておき、よひき蛇の一匹は、一番後ろの細くて長い尻尾を、ギンコの腕に巻きつけたまま、するすると雪の上を進んでいく。

 ぐん、と身を伸ばしたその体は、ギンコが両腕を伸ばしたよりもさらに長く、細くて頼りなさそうなわりに、案外と力があった。

「ちょ…、おい。うわっ…!」

 ずる、とまた雪の深みの中で足が滑る。顔からもろに雪へと突っ込んで、頭から首まで雪まみれになり、ギンコはさっきから音を上げていた。気付けば随分と体が冷えている。全身に付いた雪が、彼自身の体温で溶けて服を濡らし、そのせいでずっと寒いのだ。

「どこだよ、お前の仲間は、まだ遠いのか…?」

 まずい、と内心ギンコは思っていた。こんな小さな山、と侮っていたが、いつからか自分の居場所が判らなくなっている。こんな雪の中で、霧が出ているはずも無いのに、見渡しても見えるのは白と銀色ばかりで、枝々の向こうの空すら見えない。

 そもそも、こんなに歩いているのだから、そろそろ山の向こう側に抜けてもいいころだ。

 もしや、自分はとうに異界に飲まれて…。

「ちょっと待て、止まれ!」

 言葉が通じるわけではないのに、ギンコは声に出していった。言うと同時に足を踏ん張って、引かれる方へと行くまいとする。だが、

「止ま…。う、わぁ…っ」

 いきなり、がくん、と地面が沈んだ。やばい、と思う一瞬もない。白いものが舞い上がって、自分を覆ったように見えたが、本当はそうではなく、彼の体が雪の中に滑り落ちたのだ。

 一瞬目を閉じて、そのあと恐る恐る瞼を開けた時、見えたのは、きらきらと瞬きながら降り頻る、雪に似たもの。けれど雪ではないもの。細かい、無数の、氷の欠片。

「こ、りゃあ…」

 ギンコは盛り上がった雪の上に、丁度座らされたような格好で着地していた。尻も足も、どこも痛くはない。余程うまく落ちたらしくて、それを素直に安堵しながら、彼の眼差しは抜け目なくあたりを確かめる。

 洞窟か? ここは。

 彼の落ちてきた穴を除けば、右に細く洞が続いて見え、逆の方には、広く大きい空間が。ギンコはゆっくりと立ち上がり、真っ白く体を覆った雪と、氷の欠片らしきものを払い落としてから、もう一度落ち着いて周りを見た。

 やはりここは、小さな洞窟であるらしい。ただし、壁も天井も床も、すべてがすべて氷で出来た、雪山でもあり得ないような、不思議な空間なのだ。どこから来るのか判らない、半分透き通った氷の欠片が、白い天井の方から、ちらちらと降っている。

「蟲か…?」

 そう言って、黒い手袋をした手を差し出して受け止めるが、よくよく観察する前に、それはすぐに消えていく。

「ちくしょう、こんな脆いんじゃ、調べられねぇ…」

 調べられなくともこれだけは判る。化野の里を襲ったあの一夜雪は、間違いなくこの洞窟からこぼれ出たものだ。なおさら調べなきゃならないのに、自分の体温や息の熱が邪魔をして、調べられないとは。

 ち、と舌打ちしてから、ギンコははた、と気付いた。よひき蛇はどこに行ったのだろう。さっきの雪に埋もれてしまったのだろうか。それとも。

「おい、蛇。仲間は居たのか?」

 崩れそうな足元に手袋の片手をついて、ギンコはそろそろと前へ進む。半ば這うようにして少しずつ移動し、洞窟の出口方向と思われる道を行けば、その向こうに出口が見えた。

「…っ、じょ、冗談じゃねぇ…ッ!」

 目に映ったものに、ギンコは叫んだ。赤いぼろを纏った、長い長い体の蟲たちが、四匹、再び出会えたことを喜び合うように、身をくねらせ、絡まっては解け、絡まっては解け…。そうしながら、その蟲たちは、ギンコの探していた出口を、今まさに氷の壁で閉じようとしていたのだ。

 ギンコは立ち上がった。海辺の砂よりもタチの悪い地面で、一歩踏み出すごとに転びそうになったが、へこたれてなどいられなかった。彼の後ろでは何か、不思議な色をしたものが、滾々と湧き出て満ちていく気配がしたけれど、振り向く余裕もない。

「わりぃ…っ、恨まねぇで、くれよ…ッ…」

 手を伸ばし、ギンコは蛇の一匹を掴んだ。伸ばした手が素手の方だったのは偶然だ。赤い血がまた、ぱたぱたと零れ、その血の熱さのせいで、閉じかけた氷の壁が少しほつれた。

 ぶつ、と何かが断ち切れる音がして、ギンコは顔を顰めて目を閉じた。何かが凄い速さで渦を巻いている。目を閉じたままで、ギンコはそれを感じていた。ああ、蛇だ。渦を巻きながら、三匹の蛇たちが何かを小さく取りまとめている。

 何を? それは判らない。判らないまま、ギンコは手を伸ばし、それらを掴まえて懐へと突っ込んだ。その一瞬で、心臓が止まりそうだった。

 あまりの冷気と…、凍気とで。






 どさ。

 何か、重たい荷物か何かを、地面に下ろすような音が聞こえた。化野はその時も、ギンコを思いながら、ろくに見てもいない日誌を捲っていたのだ。その音にもすぐ気付いて、彼は文机に手をついて立ち上がり、音のした方へ歩いた。

 縁側の方だ。雨戸は殆ど閉じてあったが、一枚の半分だけ開けてある。戻ってきたギンコが身を斜にすれば、丁度通れるだけのその透き間から、化野は首だけ出して外を見た。

 音のしたあたりを見て、悪夢だろうか、と彼は思ったのだ。声もなく、ただ雨戸が外れてしまいそうな勢いで外へと飛び出し、化野はギンコの体に触れた。うずくまるような格好で、彼へは背中を向けていたが、夜の闇の中でも髪の色が目立った。

 銀の色。その銀の色は、化野の大好きな色だ。今宵はまたその色が美しい。まるで氷の欠片の色のように、あんまり綺麗で

 …怖いほど。

 ひいやりと冷たいその体に、その髪に頬に、触れて化野は名を呼んだ。

「…ギンコ…ッ! 目ぇ開けろ、ギンコぉっ」

 




 あだ   しの       あだしの      あだしの

 誰かが名を呼んでいた。目を開けたが、化野は、これは夢だろう、と、そう思った。家に居た筈なのに、まるで自分が真っ白な「かまくら」の中に居るように見えたからだ。

 こら、あだしの、ねてるばあいじゃ、ねぇんだよ。

 ぼんやりと白く霞む視野に見えるのは、白い世界の中の白い男。だけれど一点だけ、綺麗な綺麗な翡翠の色が見えて、化野はやっと目を開けた。

「ギンコ…? ギンコか? あぁ、すまん…お前の言うとおり、すべきだったんだな……」

 化野の視野が涙で歪んだ。

「俺が戻らないよう祈れ」と、言ったお前の言葉で、俺はつい怒ってしまった。人の気も知らんで…と。お前はつれない男だ、と。だが、こんな…こんなふうに戻るんなら、息災で、どこか遠くを旅していてくれと、心を込めて祈るべきだったのだ。

「ギンコ…無事なのか…、お前…」

 呼びかけても、ギンコの姿は少し遠い。しかもその顔が見えるのは、随分と高い場所で、彼はぽっかりと雪の壁に開いた穴からこちらを覗いていた。

「呆けてる場合じゃねぇんだって…! 起きろ、化野っ」

 きらきら、きらきらと、綺麗なものがギンコの周りで光っている。綺麗だなぁ、と、思っていたその頭に、ごつん、と何かがぶつかった。いて、と呟いた化野に、ギンコは大声で叫んだ。

「氷づけになりてぇのか、化野ッ。俺はそんなお前はごめんだぞ!」




















 むむ、む、むむむ難しいお話です。よひき蛇よ、お前らはそんなことする蟲だったのか。そして氷柱露って名前の別の蟲もいるはずなんですけど、それをちゃんと出す余地があるかどうか。むむむぅ。

 それからね、綺麗なイラストがあるのに、それに見合うだけの綺麗なものが書けなーーーーーーーいっ。と、心の叫びを上げてます。むむむぅぅ。しかし、うまく行ってもいかなくても、次回は挿絵が入れられると思いますっ。

 皆様、それをお楽しみにぃぃ♪ 私もそれが楽しみで楽しみで書いておりましたよーっv

 ところで、今、気付いたんですけど、あたしったら、しょっちゅうギンコを化野先生宅の外で、倒れさせているよねぇ。アハハ。



10/05/08