さくり さくり さくり
さくり さくり さくり …
ギンコはゆっくりと雪の道を踏み締めていた。よくもまあ、こんなにも、と、黙ったままで彼は思っていた。たった一晩で積もった筈の雪は、彼が進むほどに段々と深くなる。
道、など、もう何処にも無い。
いつもなら手の届かない筈のもみじの枝にも手が届く。うっかりすると頭を打ちそうに、頭上の枝々が迫っている。白い息を吐きながら、一歩一歩と先へ進む彼自身、どこへ向かうのか決めていない。ただただ、雪が深いほう、深いほうへと見定めては、どんどん山の深くへと踏み入った。
あー… 遭難、したりしてな…。
口の中で呟いて、それから苦笑して、冗談じゃねぇよ、と付け加える。木箱を背から下ろして、蟲煙草を取り出し、それへと紅色の火を灯す。ふわり、と煙が漂い始めたその時に、ギンコの踏み出す片足が、膝まで雪に埋もれたままで、ずるり、と滑った。
体が斜めに傾いで、あ、と思う間もなく、十数歩分も斜面を滑り落ちてしまう。蟲煙草を持っていた片手は、雪の中に埋まってしまっていた。
「……そうかい、この煙が嫌だってか」
やっぱ、蟲、かな。自然と口元に笑みが浮かぶ。だけれどすぐにその口元を引き締める。いやいや、化野の里になんかあるかもしんねぇのに、面白そうだと笑ってちゃ、駄目だろうよ。雪の埋もれた片手を持ち上げると、煙草はどこかに消えていた。
…わかったよ、嫌、というなら、灯けねぇさ。
用心のため、咥えとくくらいならいいだろ?
なぁ、俺をお前の懐へ入れてくれ。
お前のことが、知りたくて来たのだ…。
後ろを見て、木箱がひっくり返ったりせずに、うまい按配に木の幹の下に引っかかっているのを、ギンコは確認して、一つ、頷く。
半ばへたり込んだ格好で、ゆっくりとあたりを見渡せば、さっきまでの風景の白とは、周りの色が変じている。音なぞはかえって、周囲に吸い取られてしまうように静かなのに、ぴぃん、と澄んだ鈴の音でもしそうだと、ギンコは思っていた。
白、銀色。どちらとも違う。氷の色が、いつの間にかギンコを覆い尽していたのだった。
「…すげ……」
ギンコは呟いて、自らの埋もれた深い重い雪を掻いて、少しずつ、少しずつ、さらに先へと進んだ。ところどころ、細い針のような、酷くこまかいツララのようなものが、地面からも、あたりの真白な木々の肌からも生えていて、気付けば指から血が滲んでいる。
「ってぇ…。ひでぇな、招いてくれてんだろ、少しは手加減してくれ」
ぽたり、と滴る血の赤は、この白銀の大地にはあざやか過ぎて、自身の血の色なのに、眩暈がしそうだ。
懐から革の手袋を出して、怪我をしていない方にだけはめる。その片方の手を木の幹や地面について、もうこれ以上怪我をしないように、既に傷ついてしまった片手を守るようにしながら、ギンコはさらに進んでいった。
暫し歩いてから、ふと彼は思う。
そういや、ちっとも血が止まらねぇな。こんなの、あいつに見られたら何言われるか。
ぽたり、ぽたりと、紅い雫が数歩ごとに落ちて、まるでわざと道しるべでも付けているかのようだ。振り向いて、その紅い跡を遠くまで見通して、次に正面を向いたとき、彼の視野を何かが過ぎった。
「あ…? 今、何か…」
何か長細く小さく、そして、赤い、もの。それは素早くギンコの周りを回り、左右に凄い勢いで蛇行して、それから一瞬、止まったかと思うと、まるで本当の蛇のように、鎌首を持ち上げてギンコを見たのだ。
見た、というのは可笑しいかもしれない。何しろ「それ」は、細長く裂いた襤褸切れのようなものをくっつけた、ただ動きだけが少し蛇に似ているだけの、奇妙なものだったからだ。
「おい、よひき蛇、じゃねぇのか? お前、なんで一匹でうろちょろしてんだ? 他の三匹は? 仲間はどうした?」
久しぶりの友人にでも出会ったように、ギンコはそう言った。季節を問わず、ひと気の無い山奥なんかで、ギンコはよくこの蟲と会う。襤褸切れをくっつけた紐のような蟲が、いつも一緒にくっついたり絡まったりしている姿が、どこか滑稽で微笑ましくて、好きな蟲の一つだ。
この蟲は、一匹で行動しているなんてことはまずない、と、言うより、四つで一匹のようなものだから、絶対に近くに他の三匹もいるはずなのだ。ギンコがきょろきょろとあたりを見回している間に、ぎょっとするほど近くに、その紐状の蟲は近付いてきた。

もしかすると、血で赤く染まったギンコの指を、仲間と思ったのかもしれない。
「俺の指は、お前のお仲間じゃねぇよ。…なんだ、寂しいのか?」
ぽろり、と零れた言葉に苦笑いしつつ、ギンコはさらにもう一言を言った。
「そうかい? いいさ、一緒に仲間を探してやるよ。もしかしたらこの現象に、お前も関係あるかもしれないしな」
こんな、自分の声すら消えてしまいそうに静かな場所に一人で、心細いのか、それとも自分の方こそ寂しいのか、さっきから独り言ばかりだと気付いた。
「ち、だから言ったろ。こっちは『寒さ』に弱くなっちゃ、命取りなんだ、勘弁してくれよな」
ま、いいさ、今はどうせ誰も聞いてやしない。言葉遊びの代わりのように、たまには思うこと思うこと、ほろほろと零して歩いてやろうか。
馴れ馴れしいお前のことを、その仕草を、伸ばされてくる手を、俺はほんとは嫌いじゃない。素っ気無いからと言って、不機嫌なわけじゃないし、実のところ、楽しみにしているくらいだよ。
こんな俺の髪に触れたり、指に触れたり、ことあるごとに絡んできたりするなんて、いつもいつも蟲ばかりだったから、お前をいったいどうしてやればいいのか、毎度迷って困っているだけだ。
おかしな奴だよ、お前は。こんな俺に、しまいにゃあ、あんなことまでなぁ。とんだ珍しもの好きだな。
でも、嫌じゃないけどな、どうしたもんだろう…これから。
「なぁ、化野…」
零れたのは結局、名を添えて呟く呼びかけだけだった。くす、と笑うギンコの唇から、白い白い息が零れる。血を流したままの彼の片腕には、一人になって寂しげな「よひき蛇」の一匹が巻きついていた。
続
気付けば前にこの話の一話目を書いてから、もう三週間も経っていた! うーわー、気付きませんでした。そのせいか、当初の予定から、どんっどんっどんっっっっと、離れていく気がするけど…。気のせいだと思っておきます。
うーん、気のせい気のせい…。うううーん、気のせいー。ああ、作中のギンコは遭難しませんが、惑い星は自分の書いている作品の中で、遭難しそうですー。お助けぇ〜。
さってと、今回も挿絵が入りました。美しい麗しい可愛い〜っ。嬉し楽しでノベル書きさせていただきまして、影様ありがとうございますっ。では、また次回、頑張りますよー。
10/04/28
