銀花降る… 3
ギンコはその夜、急ぎ足で山を一つ越えた。枝々の隙間から見える半月が、速い雲の流れで隠れては、また姿を見せる。空気が冷たく湿っていて、雨を予感させ、尚更脚を速めれば、夜半過ぎには山間の小さな宿に辿り着けた。
先払いの金をぎりぎり払えて、薄い布団で丸くなると、似ても似つかぬというのに、布団は化野の家のそれに思え、うっすら見える天井の木目までが、馴染んだ形に見えてくるのだ。肌には、化野の指先と息遣いの感触。
未練がましいことだ、と、ギンコが己を苦笑して寝返りを打つと、傍らに置いた木箱が視野に入り…。
「……蟲…」
ぽつりと呟いた声。ギンコは薄闇の中に飛び起きた。蟲は…? あの、自分が化野の里に入った時には、確かにはっきりと感じた蟲の気配。それが今はどこにも、欠片ほども無く。
離れたのか…? どこで? いったいどこに落としてきた…。
まさか、化野の里のどこかに…。
ギンコは木箱と上着を引っ掴むと、すぐに宿を飛び出した。歩いてきたばかりの道を、一心不乱に駆け戻る。あの里からここへ来る途中に蟲が離れたのかもしれなかったが、それでもギンコは半ば確信していたのだ。
俺は、蟲を化野のところに落としてきたんだ。
あの時、蟲の…蟲の声を聞いた。
「ハナレズ」
「イラレルモノニ」
「ナレバ」
と、人の声とも思えぬ声が、確かにあの時、囁いた。
どうして気付かなかったんだ、確かに聞こえていたのに…っ。
*** *** ***
「せんせぇーっ。早くにすまねぇけど、貰った薬、どっかにやっちまってさぁ。漁に出る前に飲みてぇから、悪ぃが、も一回貰えねぇかなぁ」
化野の家の外で、若い漁師が一人、叫んでいる。確かに早朝だが、この里のものは漁師が多くて、そろそろ誰でも起きている時間だから、声の大きさに遠慮がない。
「せんせぇってば、寝てんのかいっ? 上がらしてもらうよーっ」
雨戸を開け、縁側から中へ上がりこんだ男は、奥の間への襖を開いて声をなくした。薬おろしの道具と薬皿の傍に、体を丸めた恰好で、崩れたように倒れている化野の姿を、彼は見たのだ。
「せ、せんせい…ッ。た、大変だっ、たいへんだぁ…っ」
そうして里は、騒ぎになる。近隣の家々は、皆、化野を心配してそこへ集まり、どうしていいか判らずに、それでも布団を敷き、楽なように体を伸ばさせて、彼をそこへ横たえる。
体は温かかったが、少しずつ、少しずつ肌が冷えていくのを、触れたものの大半が気付いたが、恐ろしくてそれを口に出せるものはいなかった。
「い、医者…。医者を」
「この里にゃ、先生以外に医家なんぞいねぇよ…」
「…隣里に呼びにいったって、行って戻るまで半日も掛からぁ」
「じゃあ、どうするってんだい…っ」
「だって、も、もう」
「誰か…」
しっかりとした低い、それでもしわがれた声が言った。里一番の年嵩の老人だ。
「誰か、あの蟲師さんを。ギンコを追い掛けていって、呼び戻すんじゃ」
「あぁ、そうだ、昨日の夜、里を向こうに抜けて出て行ったよ。きっと今なら、山ん中の宿に泊まってんじゃないか?」
「俺が行く…!」
化野の意識がないのを、最初に見つけた男が言った。青左という、若い漁師で、化野とは勿論、ギンコとも少し親しくしていたから。青左は走りやすい草鞋に履き替え、すぐに里を駆け抜け、ギンコの姿が行ったという山道へと入っていく。
そうして一刻も走っただろうか、向こうから白い頭の、見違えようもない姿が、同じように走ってくるのが見えたのだ。
「ギ、ギンコ…っ」
「青左か!? もしや里に何かっ?」
「説明は走りながらする…っ」
若い青左はまだ走り出したばかり、ギンコと後ろになり、前になりしながら走りつつ、それでも切れ切れに説明した。
「薬を貰いにいったら、せんせい、倒れてたんだよ」
「……あぁ…」
「その、言い難いんだけど、温かかった体が、少しずつ冷たく、なっていってて。もしかしたら、もう」
「…死なせない。大丈夫だ」
「そ、そうかい?! そんなら、あんたを呼びに走って、正しかったんだ。よかったっ!」
だいじょうぶだ。だいじょうぶだ。きっと助ける。きっと。
根拠の薄いその言葉を、脳裏では何度も繰り返し、ギンコは『銀灯花』という蟲の記録を、懸命に思い浮かべている。
そうしてやっと、ギンコと青左が化野の家に戻った時、彼の寝かされた布団の周りには、十数人もの里人が集まり、みんなして黙ったまま、心配そうに化野を見つめていた。庭先に一人、ぽつん、と石に腰掛けていた老人が、顔を上げてギンコを見る。
「蟲、とやらのせいなんじゃろう、蟲師さんよ」
「…恐らくは」
「そんなら、あんたに任せて大丈夫じゃの? まだ里には、風邪の治っておらんものもおるで」
「…二人にしてもらえるか、俺と、化野だけに」
ギンコがそう言うと、老人は意外にしっかりと立ち上がり、集まっている里人らに言った。
「聞こえたろう、お前さんら。蟲師さんはこれから大事な仕事をなさる。お前さんらもこのお人と、薬を擦りながら倒れた先生に笑われんよう、ちゃあんと自分らの仕事に戻らんかい。…青左、お前もじゃ」
里人らは渋々、化野の様子を気にしつつ、家から出て、坂を下っていく。最後に残った老人は、皺深い顔をくしゃりとさせて、ほんの微かに笑ったようだ。
「わしもあんたに任せて仕事に戻る。遊んどる曾孫の傍にいてやるちゅう、大事な仕事があるでなぁ」
そうしてギンコは化野の傍に、たった一人で残された。畳の床に膝で這い、傍で顔を覗き込み、そっと頬に触れたが、ひいやりとした冷たさに、彼はびくり、と手を引っ込める。
「あだしの…。お前、そこにいるのか?」
聞いた言葉に返事は無い。もう一度頬を撫で、黒の髪をくしゃりと掻き回し、口づけでもするように、ギンコは化野の唇に唇を寄せた。すると、ふわり花の香りがする。ほんの僅かだが、ギンコはしっかりとその匂いを嗅ぎ、翠の瞳を揺らがせた。
「やはり『銀灯花』…か…」
ゆっくりと彼が振り向いた視野に、花がある。さっきまでここに集まっていた誰もが、きっと見上げもしなかった花だ。立ち上がったギンコが、その花の下へ行くと、沢山の花を付けた枝が、ざわざわと揺れた。揺れるたびに、まるで光る雪のように、花弁がはらはらと散っている。
さらさら、さらさらと、新しく音が聞こえ出した。小雨が降り出したのだ。冷たい雨になぶられる花々は、それまでよりも一層多くの花弁を散らせていく。ギンコをそれらを見上げ、花弁を濡らしてから滴り落ちる水滴を、幾つか顔に受けた。
「あぁ、やっぱりそこか。お前、そこにいるんだな、化野」
ん… こ…
微かに、化野の声が聞こえた気がした。ギンコの髪に、花弁が二つ舞い落ちてきている。
そ…ば …に ぎ…
新たに、四枚の花弁が、ギンコの頬や肩に下りてきた。
「…ったく、お前…。蟲に簡単に付け込まれちまって…。そんなんじゃ、俺はお前が心配で、一時だって…目が離せないぞ」
それもこれも、俺のせいだけどな。怯えた目をして、それでもギンコは薄く笑った。半ば目を閉じたように笑う、その瞼の上に、また一枚の花弁が落ちる。もう一枚は、差し出した手のひらの上に。
…す… き…
小雨が、風を伴いながら、少し強くなった。
続
五つのキーワード使用ノベル。
「蔵の二階」
「散る花」
「小雨」
『それがなにより怖くてな』
『目が離せないぞ』
使ってないのはあと一個ですっ。淡々とした進み方ですが、内容はけっこう「ひぃぃ」って感じで、どうやって助けるのかが大事です。ところで里の爺さんが出てきてますが、この人、単に私が気に入ってるだけで、そんな大事な役どころではありません。
そして青左もまた、前にも何度か出ているオリキャラでしてね。ただ気に入ってるんで出しました。すいません、どーも。
08/10/08
