銀花降る… 1
ひと季節に一度、来れるか来れないかの、懐かしい家の庭に足を踏み入れると、そう、酷く懐かしい声が聞こえてきた。
「薬、熱が下がるまでは、飯のあとに必ずこれを飲め。それからこっちのやつは床に入る前にな」
開け放たれた縁側から中を覗くと、七、八人もの里人が、化野の回りを取り囲むように座って、彼の話を聞いている。
「何、ただの風邪だから、それほど心配するようなもんじゃないが、それでも夏風邪は長引くというし、薬はちゃんと忘れず飲むんだぞ。子供らのはこっち、薬包にしるしをつけたから」
ギンコは邪魔をしないように、庭の隅の石に腰を下ろし、木箱を土の上に置いて、化野の声を聞いている。話によると、どうやら流行り風邪で、里のものの半分もが、その風邪をひいたらしい。
それじゃあ、里に一人の医家は、さぞや忙しいだろうと思うが、目の前にその通りに忙しい化野の姿があるのだ。ギンコはそっと溜息を付いた。木箱の抽斗の一つを開けて、蟲煙草を取り出して火を灯す。
ゆらりと漂う煙が、効かないと判っている。蟲を、どうやら連れてきてしまったらしいのだ。どんな蟲かは判らない。ただ、確かに気配だけがしているのを、ここに着く寸前に気付いて、道を変えねばならないものを、それがどうしても出来ずに、来てしまった。
だって、ひと目くらい、会いたいじゃないか。
もう一度溜息をついて、ギンコは庭の外へ視線をやる。また二人、夫婦物らしい里人が、連れ立って坂を上ってきて、垣根の向こうから化野に声を掛ける。
「せんせ、忙しそうだなぁ。悪いけど俺らにも薬を出してくれ。どうせみんな同じ風邪だろ。診なくていいから薬だけ」
「あぁ、駄目だ駄目だ。ちゃんと一人ずつ診るから。そっちに座って待っててく…。ギ、ギンコ…ッ」
見つかってしまった。そりゃそうだ、とギンコは苦笑する。庭の隅の石に腰掛けていただけで、隠れていたわけでもなんでもない。片手を軽く上げて見せて、彼がひょいと里人らの方へ視線をやれば、化野もまた哀しげに苦笑して、そのまままた医家の顔に戻る。
せめて上がっててくれ、と片手の身振りで合図されて、こちらを見ていないと判っているのに、ギンコは首を横に振って、そのまま石に腰掛けていた。
ここにいるのが一番いい。声が聞けるし姿が見える。ひと季節ぶりの懐かしい姿を、なるべく長く眺めて、目に焼き付けるようにしたかった。蟲に付かれていると判っている以上、ギンコはここに、のんびり泊まっていられないのだ。
「あぁ、このぶんだと、薬、全然足りないぞ、こりゃぁ。余計に具合の悪いものを優先するから、まず診せて。着物の胸を開けて、熱はありそうか?」
心持ち、化野の声は早口になる。早く全部の患者を診て、薬を渡してしまって、ギンコと言葉を交わしたい。そうして早く二人になって、離れていた距離と時間とを、忘れてしまうほど触れたい。そう思う。
その後も次々里人は訪れたが、それも一時は、途絶えて化野は焦ったようにギンコの傍に寄ってきた。
「すまんな、ギンコ。よりによってお前が来る日に、こんな忙しいなんて。でも風邪の治療と投薬だけだから、例え里人全員診ることになったって、何日もかかりゃしないから」
きょろきょろとあたりを見回して、誰もいないのを確かめると、化野は、ちゅ、と軽くギンコの唇を吸った。それを黙って受け止めるギンコを、訝しげな顔で眺めて、彼はその理由を尋ねたそうにしている。
「実は、蟲をつれてきちまってるみたいでな。それも気配がするだけで、どんな蟲か判らんのさ」
「何…?」
「だから、今日は泊まっていくわけには」
「そ、それは無いだろう、ギンコ。お前、何ヶ月ぶりだと…」
また、垣根の向こうから化野を呼ぶ声がする。今度は子供を二人連れた母親らしい。二人分の幼い泣き声と、おろおろとした女の声。
「せんせい、早く診て下さい。この子ら、昨夜から熱が高くて。下の子は少しお腹も…」
「…あぁ、今、診る。腹を壊してるってか。吐いたりは?」
急いで家の中に戻る化野。泣きじゃくる子供を二人見て。念のため、と母親の方も診て。若い女を診るのだから、と、縁側の障子が閉められてしまい、ギンコに届く化野の声も遠くなり、姿も見えなくなってしまう。
俺だって。
と、ギンコは思った。哀しげに項垂れ、噛んでいた唇を解いて、声に出さずに唇の動きだけで。
俺だって、やっと会えたお前の傍に、何日かでも居たいさ。またこの里を立ち去った後は、少なくとも次の季節が来るまで、お前に会えないと決まってるんだから。
母子が帰る頃には、また次の風邪引きの里人。漁師らが四人も連れ立って、喉が痛いだの、寒気がするだの。再び開けられた障子、庭と家の中とで離れていて、それでもギンコは化野の声を、貪るように聞き、横目で姿を見つめ続ける。
化野もまた、治療の合間合間に一瞬ずつでも、強く切なげにギンコを見た。
けれど、そこから先、途切れずに次々と里人が訪れて、やっとまた途切れたと思ったら、気を遣った隣家のものが、化野の晩の食事を作って持ってきて、それを置いて去るまで、ギンコと二人にはなれない。
「じゃあね、せんせ。ギンコさんと二人で食べるには少ないかもしれないけど。明日の朝は、多めに作って持ってくるから、我慢して」
「いや、俺は明日の朝は」
「あぁ! いつもすまんな。そうしてくれ」
明日の朝まで居ずに発つのだと、ギンコの言おうとした言葉を遮って、化野は隣の家のものを見送った。
「化野、今回は本当に」
「…一晩くらい、いいだろう。まだ話もしてない、触れてもいないのに」
「さっき、触れはしただろ、お前」
「あんなもの…!」
怒った声でそう言って、化野はギンコを抱き寄せた。縁側に押し倒され掛けたが、強い力で抗い、ギンコはその抱擁から逃げ出す。震える声が零れた。
「なぁ…困らせないでくれよ。もしも、この里やお前を、危険にさらすような蟲だったら、俺は自分を許せなくなる」
ギンコの言うのが判るから、化野は唇を噛んで彼を見た。少し離れて、片手だけをギンコへ伸ばし、その銀の髪をさらりと撫で、切なげに少し笑って言った。
「じゃあ、もう発つのか? それとも、あと、一時間くらならい居られるのか?」
「…そのくらいなら」
「判った。お前に見せたいものがあるから、それだけ見ていってくれ」
そうして化野は筆を持ってきて、紙に何かを書いている。書き終えて、小石を押さえにして縁側に置いたのは、まだ来るかもしれない患者への置手紙だ。
「…おい。出掛けるのか? まだ風邪の患者がくるかもしれんだろう」
「蔵だ。患者がもし来ても、大声で呼べば聞こえる」
言い置いて、蔵の方へと歩き出す化野。見れば確かに置手紙には『蔵に居る。すぐに戻るが、急ぐなら呼んでくれ』と、そうあった。ギンコは化野の背中を見て、言葉に出来ない慕わしさを、自分でももう我慢できずに、彼についていく。
何を見せたいのか判らないが、そんなものより…と思っている自分に、彼は気付かない振りをしているのだった。
続
しばらくぶりですねー。蟲師連載ノベル。これは、例の…といっても、きっとだれも覚えてないかもかも、だけど、ずーっと前に投票で、五つのキーワードを選んで貰って書こう!と言ったノベルなのです。
「蔵の二階」
「散る花」
「小雨」
『それがなにより怖くてな』
『目が離せないぞ』
この五つなのですが、只今まだ「蔵」という言葉が出たのみですよー。どーなる次回っ。笑。少しでも楽しみにしていただければ嬉しいです。
08/09/12