紅 は こ び ・ 1




 あん時ゃ緑の濃いもみじの、その幾枚もの葉が、水面に綺麗に姿を映していたっけか。綺麗な水に手ぇ伸ばすみたいに、もみじの枝は垂れ下がっていて、葉の一枚は風が吹くたびに、水面に触れて波紋を作ってた。

 それから随分と日が流れ、場所も移った別の水辺で、秋色をしたもみじの葉を見たからとて、思い出せるはずもなかったのだ。最初に見た緑のもみじ葉に、蟲の気配を感じたことなど、もうギンコは忘れていた。

 それはある山野の、名も知らぬ水辺のこと…。




「なんか、風邪でもひいたかねぇ」

 ギンコがそう言ったのは、化野の家にきていつものように歓迎され、温かい夕餉をたっぷりと馳走になったあとの事だった。たった今、熱い味噌汁を飲み終え、上等の酒まで振舞われて、体が火照るのなら当たり前だが、どうしてかギンコの体はふるりと震える。

「風邪…っ、いかんな、それは」

 医家の化野は途端に眉をしかめ、つまみに伸ばしかけていた手を畳へついて、すぐに立ち上がって部屋を出て行く。

「いや、そうかも、と思っただけだ、別に。おい、化野、どこへ…」

 草履を引っ掛け、なんの躊躇いもなく、化野は外へと出て行く。ギンコが引き止める間もなかった。外からはすぐに焚き木を積み上げる音が聞こえてきて、仕方なくそのまま待っていると、化野は左右の袖と袖へ手を突っ込んで、ギンコの前へと戻ってくる。

「少し待ってろよ、今、風呂を炊いている。入ろうと思って、お前が来る前に一度炊いていたから程なくだ。あぁ、羽織でも出そうか。薬は…と」
「おいおい、大袈裟な。ちょいと寒気がするだけだ。まぁ、風呂は有り難く貰おかな」
「ちゃんと温まって、すぐに布団へ入ればいい。そのぅ…今夜は、我慢するから」
「……ほんとかよ」

 ギンコは思わずくすりと笑う。そう言って、本当に手出しを控えた試しのないこの男のことを、ギンコはそれこそ体で知っている。一瞬寒さを感じただけの事だし、もしもそれで化野が、やっぱり我慢できずに手を出してきたとしても、彼の困ることではないが。

 今は丁度季節の変わり目で、確かに風邪も引きやすい。野宿なんぞで弱るひ弱な体ではない筈だけれど、疲れも多少は溜まっていた。

「あー、そうだ。残念な報告なんだがな」
「ん、なんだ」
「今回は土産がない」
「なんだ、別に俺は土産なんか…。お前が…。いやぁ、そりゃ、がっかりだな。楽しみにしてたんだぞ」

 お前がこうして来てくれりゃあいい。
 それが何より嬉しい土産だ。

 言いかけた言葉を飲み込んだのは、大抵はなにかしら持ってきてくれるギンコへの気遣いか。それともその気遣い自体に、心から喜びを感じるのも本当だからだろうか。

「蟲絡みの品や、蟲の係わる珍奇な話の、代わりにゃならんと思うが、つい昨日通った川でこれを拾った」
 
 そう言って木箱の抽斗を開け、二つ折りの紙を取り出しながらギンコは言う。

「もみじ、なんだがな」
「もみじ?」
「あぁ、こんなの何処も珍しくないが。まぁ、まだ紅葉にはどう考えても早いから、不思議っちゃあ不思議だとは思わんか? こんなに真っ赤に…」

 ギンコの言葉が途切れた。かさりと広げた紙の内側には、紅いもみじどころか、今の季節には何処にでもあるような緑の葉の一枚、茎一本すらも無い。

「あ? 可笑しいな。どっかへ落ちたか?」

 紙が入っていた抽斗をもう一度ギンコは開き、顔を寄せて中を見ている。ついで別の引き出しも開け、糸で綴じられた冊子の間までぱらぱらと捲ってみるが、一向、紅色の葉は見つからないのだ。

「あ〜、すまん、落として来たらしい。本気で土産の一つもないな」
「だから、別にいいよ。それより風呂がそろそろ沸いただろう。入って来い。布団は敷いとくから、よく温まってな」

 かちゃかちゃと皿を重ね、徳利や猪口を集めながら、化野は朗かに言う。手に取ろうとした猪口に、ひと啜りの酒が残っていると気付くと、零さないようにギンコへ差し出して飲むように勧めた。

 くい、と酒を飲む口元を、ついついじっと見つめてしまい、慌てて目を逸らす様子を、ギンコも気付いていて何も言わない。その時、一瞬触れたギンコの手が、少しばかり冷たく感じたのだが、気のせいだと思ったか、化野は気に止めなかった。

「肩まで浸かれよ、肩まで!」

 子供へ言うようにそう言って、ギンコの背中を見送り、化野はふと思ったのだ。ガキ扱いかよ、とギンコは言わない。その言葉は「親が幼い子供に、よく言うもの」なのだと、知る術がきっと彼には無かったのだ。

 そんなふうに時々、化野は妙なことを感じ取ってしまう。問うても多くを語らないギンコの子供の頃が、どんなに普通の子供と違うのか…と。大きくなるまで、親に育てられた訳じゃない。一つところに安心して暮していたわけでも、きっと無いのだろう、と。

 また懐手して外へと出て行き、化野は黙って風呂の焚き木を均した。炊き過ぎて熱い湯にならぬよう。逆に炎が足りなくて、ギンコが寒い思いをせぬように。

 旅の途中で拾ったもみじも、そりゃあ出来れば見たかったさ。お前が俺にと思って携えてきたのなら、他のどんな行商人が、どんなに苦労して持ってきた珍奇な品よりも、ずっとずっと嬉しくて、ずっとずっと大切だよ。

 どうしても土産のひとつを、と思うなら、日々の旅暮らしの中で見た夕日の色やら、波の頭の白く泡立つさま、空高くを飛んでゆく渡り鳥を見上げたことをでも、枕を並べながら話してくれりゃあいい。

 傍らで横になったお前が、うとうとと眠りに着くまで、その声を聞かせてくれたら、俺はこれ以上ないほど幸せなんだよ…ギンコ…。

「湯加減、どうだ? ギンコ、熱いか温いか、遠慮などせず言ってくれ」
「………」
「ギンコ? 聞こえてるのか?」 

 待てど返事が返らないので、化野は裾からげを解いて立ち上がり、ついでに伸びをして窓から中を覗いた。たすきは掛けたまま格好で、高い位置にある窓に手を掛けても、あまりちゃんと中が見えなかったが、なんとかぎりぎり、ギンコの頭の辺りが見える。

 白い頭のてっぺんの、可愛いつむじを見た途端、慌てて化野は家の中へと駆け戻った。見えたつむじは、かくり、と揺れて、ぎりぎり見えていたその頭が、化野の視野より下へとずり落ちたのだった。

「ギンコ…っ……と…」

 声を大きくして風呂場へ踏み入って、化野は思わず声を止める。ギンコは眠っていた。今にも湯の中へ水没しそうになりながら。

「ったく…。ほんとに…。ガキかよ、お前…」

 ギンコの体を湯から引き上げるのは大変だった。自分までびしょ濡れになり、屈んだ膝の上に抱きかかえるようにしながら、木桶のうえに畳んで置いてあった布を広げる。そうする間も、ギンコは安心し切ったように眠っていて、彼の頬の方へと頭を寄り掛からせてくるのだ。

「でけぇガキだなぁ、おい」

 布で包んで髪を拭いてやりながら、化野は知らずの間に微笑んでいた。

「俺は父親、いやいや、母親代わりか? なぁ、ギンコよ」

 それだけ疲れてるんだろうなあ、と、そう呟く声は優しさに満ち、それこそ幼子を胸に抱く母親のように、あたたかな響きに満ちているのだった。


















「風呂でお休みギンコさん」なシーンを含む話を書きたいと、ずっと前から思っていました。やっとですーーーーーーーーーっ。お待たせさんだぜ、自分ッ。笑。それだけだと簡単に書けてしまうので、昨日詳しく考えた、創作蟲も登場です。

 どれくらいの長さか判りませんが、とにかく連載ですよー。どうぞ応援してやってください。予定は未定ですが、そんなにドス暗い話にはしないつもりですゆえーっ。お読みくださりありがとうございます。それでは、またーーーっ。



09/05/10