水揺らぐ夜 sui you ya 6
「すまん。嘘だ。誰も死なない。だからそこから上がれ。そのままじゃあんたが死ぬぞ」
波の中に、どんどん化野の血が流れていくのが、ギンコには見えている。死ねばいい、とは思えなかった。彼を憎いとも思えなかった。酷いことをされたが、それでも放っておきたいとは思わない。
「ほら、あんたの手を引くから、あんたは俺の木箱を拾ってくれ。手当ての道具も入ってる。少しは水に濡れたろうが、油紙に包んであるから使えるもんもあるだろうよ」
手を差し伸べてやると、化野も黙って手を伸ばした。右の手をギンコに預け、左の手でしっかりと木箱の肩紐を捕まえて、よろめきながら岩の上に上がってくる。
寒いせいか、それとも出血のせいなのか、化野はその場でがくりと力を失い、岩の上に膝を付く。彼の手や足から流れた血が、あっと言う間に岩を染め、砂に染みこむ。
ギンコはまだ、満足に力の入らない手で、それでも何とか木箱を引き寄せ、開けにくい引出を幾つか開けて、中から色々なものを取り出した。少し湿ってはいるが、薬の瓶も一塊の布も無事だったから、その布を裂いて消毒液に浸し、化野の傍らに寄って手当てを…。
「…本当に、だ…誰も死なないのか?」
化野は項垂れたままで、唐突にそう言った。それから打たれたようにギンコの目を見つめ、彼はさらに激しく問うた。
「毒だと、言っただろう…ッ。人は死ななくても魚は死ぬのか?! 海は死ぬのか…?」
「…死なない。本当に稀な確率だが、紫水碧が毒を吐かなかったからだ。碧い色をあんたも見たろう。あれがもしも紫だったら、海に入ったあんただって、もう生きちゃいない。あんたが何ともないなら、海にも里人にも害はないんだ。本当だ」
言い終えると、真っ青だった化野の顔に、ほんの僅か、血の気が戻ってきた。彼は両手でその顔を被い、指の間からまた涙を滴らせ、それからやっとギンコを見る。
視線がギンコの顔を見て、その白い髪で乾いている血を見て、手当てしてくれている手を見た。視線はギンコの瞳へと戻り、ギンコはその眼差しから視線を外して、布を裂いて作った紐で、片足ずつ、化野の膝上をしっかりと縛る。
「血が止まるまでこうしてろ。手は…こうして、覆った方がいいな」
両手とも、布でぐるぐると巻かれ、そうされながら化野はぽつりと言った。
「なんで…」
「なんで助けるってか? さあなぁ、したいようにしてるだけだ。お、奥に流木があるな。乾いた枯れ草もある。火を焚くか」
岩壁に手を置いて、覚束ない足取りで、ギンコは洞窟の中を歩く。随分前に流れ着いたのだろう、乾いた小さな木っ端や、枯れたまま映えている草を集め、慣れた様子でそれらを岩の上に積み上げる。
「ランプの油、焚き火するのに少し貰うよ」
「…あ、あぁ…」
そこまでしてから、ギンコは自分の恰好を思い出したらしい、こんな場合だというのに、少しばかり頬を染めて、急いで服を拾いにいき、化野に背中を向けてズボンに脚を通す。シャツは着ないで持ってきて、無言で化野へと差し出した。
「濡れたのは脱いで、そっちの岩の上に広げて。乾かして体裁だけでも整えなきゃ、里へ出て行けないだろ。その間、これ羽織っときゃいい」
言われるまま、布で巻かれた両手で苦心して着物を脱いで、岩の上に広げて…。振り向くと、すぐ傍でもう焚き火が炎を上げていた。火の勢いは強過ぎるほどで、これならすぐに着物も乾くだろう。
その焚き火を挟んで、化野の向い側にギンコは座り、やっと自分の怪我の手当てをし始める。足の裏の切り傷、そして手の甲の擦り傷を消毒して、靴の代わりに両足共に布を巻き、最後に頭の怪我を気にするが、髪で乾いた血は、そう簡単には取れそうに無い。
適当な手当てが済むと、今度は木箱の中身を平たい岩の上に広げ出した。一つずつ引出を開け、紙包みやら瓶やら木の箱やらを、手にとって確かめながら、あるものは割りと火の傍に、あるものは少し離して、またあるものは岩の陰の方へ。
そうしながら、ギンコはまるで自分の荷物に言うような様子で、不意にぽつりと言うのだ。
「あんたは随分と、普段のおこないがいいようだ」
自分に向けた嫌味なのかと、そんなことを思う余裕は、まだ化野にはない。ギンコが少し、微笑んでいるように見えるのは、幾らなんでも錯覚なのだろう。
「…紫水碧が水に溶けて碧い色になったのなんざ、何十もある記録のうちの一つきりだ。井戸に混じって小さな里が一つ滅んだり、湖沼の生物が死に絶えたり…。そういう記録ばかり読んできたから、無毒になる例があること自体、正直忘れてた」
今は早朝だ。
良く良く耳を澄ませば、何処からか人の声が聞こえる気がする。猟師町の朝は早いから、多分、漁に出て、もう戻ってきた男衆の声なのだろう。この里の、そんな日常の光景を思い浮かべ、ギンコは本当に、小さく微笑んでいた。
「あんたも俺も、運はいいらしい…」
少し弱まった火の中に、ギンコは木の枝を放り込む。橙色の炎が揺れて、ギンコの白い髪が、不思議な色に染まって見えるのだ。化野は呆けたように、その美しい光景を見て、無意識のうちに何度も繰り返し詫びていた。
「すまん…。すまん……。済まなか…った…」
「………」
「す…まん…っ…」
それを黙って耳にしながら、ギンコは長い枝で、悪戯らに火の中をつついている。放っておけば、いつまでも続いていそうな化野の声を、耳の後ろなど掻きながら。
「本当に、す…ま…」
「…まだ生乾きだろうが、そろそろ着られるかねぇ」
「え…?」
「あんたの着物だよ。医家先生」
*** *** ***
それもまた運がいいと言うべきなのか。それともどちらかの日頃のおこないがいいのか。二人が洞窟を出て、よろよろと道を行き、坂を登って化野の家へ入るまでの間、彼らは里人の一人とも出会わなかった。
「この季節のこの時分は、日陰になる向こうの崖下で、里人総出で獲れた魚だの海草だのをより分けてるから…」
聞かれもしないのにそう言ったのは、沈黙があまりに居心地悪かったからだ。化野はギンコに肩を貸され、それでも足を引きずって歩いている。それだけ両足の怪我が酷いのだ。
化野の着物は生乾きだし、ギンコは髪に血の跡を付けて、その上、下駄も草履も靴も履かない、布を巻いただけの足で歩いている。
「もうちょっとだぞ、頑張れ」
「…大丈夫だ」
励まされて返事はするものの、こんな居心地の悪い思いは、そうはない。化野は元々下を向いているのに、そう言われてますます項垂れた。
続
うーんと。なんか、特に変化ないっていうか、見所無いっていうか。詰まんない内容でスイマセン。こんななんで、近いうち、何か読み応えのある短編書くか??
うぐぐ。反省点はこの連載が終わった時に、きっとまとめて…。その時まで反省してたこと、覚えてなかったらどうしよう。んがー、不真面目でスイマセン。どうもまだスランプっているらしい。
でもセンセに手当てしてあげてるギンコさんは、彼らしくて好きだよ。腹黒エロ?のように見えて、実はイイ人なんだ、なんていう、とんでもない性格にされた先生が、この頃気の毒になってきましたよ。とほほ。
読んでくださっているかた、本当にありがとうございます。
07/11/14
