水揺らぐ夜  sui you ya   5





 振り向いて見た化野と、必死に届かない手を伸ばすギンコの目の前で、木箱はゆっくりと波に傾き、砂の上に引きずられていく。横に倒れた木箱から、引出の一つが滑り出て、そこから硝子瓶が転げるのが見えた。

 まるで吸い寄せられるように、その瓶は波へと浮かび、突き出た岩へと流れより…。

「拾ってくれ! 早く!」
「な、一体なに」
「いい…からっ、早く拾えッ」

 一度は岩にぶつからずに済んだ。それでもまだ、瓶は波間に揺れている。岩にぶつかって弾ける波飛沫の白が、割れた瓶の欠片に見えて、ギンコは動かない筈の体で這い、無理にでも立ち上がり…。そうしてすぐによろめいて、傍らの岩壁に身を打ち付ける。

「…う…ッ」

 波にさらわれた木箱と瓶と、立ち上がったギンコとを交互に見つめていた化野の目に、赤い色が見えた。ギンコの白い髪が、真っ赤な血の色に染まっていた。その体を支えようと、無意識に差し伸べた化野の腕の中で、ギンコは叫んだ。

「拾ってくれッ! み、水に混じれば猛毒だ!」

 その声と同時に、硝子の割れる音がした。

 夜の中で、真っ黒く揺れ続ける波。その波の上に、ゆっくり広がっていく青い色。ホタルのように、青白く発光して、その色は少しずつ広がっていくのだ。ギンコは怯えた顔で目を見開き、次の一瞬には失神してしまった。


*** *** ***


「し…死ぬのか…みんな。俺の…俺のせいで」

 荒い息をつきながら、化野は羽織りに海の水をすくっているのだ。青く光る水は、波の揺らぎに合わせて四方へ散り、彼が掬い取ろうとするのなぞ、何の役にも立っていない。

「助けられないのか…? 魚が全部死んで、それを喰った鳥も死んで、さ、里の者も…」

 化野の顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。ランプの火はとうに消えていたが、時刻はすでに明け方の頃、淡い光が空を覆っている。化野は羽織に水をすくう。けれども何時間続けても、青い水は無くならない。毒が海に広がって行くのは、もうどうしようもなかった。

「この里は、ほ…滅ぶのか? 俺のせいか…? 俺が。何もかも、俺が、わる…かっ…」

 磯に沿うようなこの里にとって、海は命なのだ。魚も、貝も、海藻類もすべてが駄目になったら、もう里は死んでいくしかない。

 それらを食べたケモノは死ぬだろう。あぁ、もう漁は始まっただろうか、もしかしたら、ここから離れた場所で採れた魚を食っても、人は死ぬだろうか。もう誰か死んだかもしれない。この里唯一の医家が、海を殺し、里人を殺し、この里をまで殺すのだ。

 それも、自分の欲を満たすためだけに、旅人を落としいれた、そのせいで。

 化野の指先は赤かった。十本の指の先は、全部裂けて血を流し、その傷は潮にまみれていたが、痛みなど感じてはいなかった。それよりも心が、慟哭に裂け、血の色の涙を流している。

 とうとう、化野は波の中に座り込んだ。ギンコの木箱が水に浮かんで、ゆらりゆらりと揺れながら、化野の背中にコツリとぶつかった。


 *** *** ***

 
 ギンコは夢を見ていた。

 化野が、化野の家の縁側に座っている夢だった。彼は項垂れて、泣いているように見えた。見れば庭の草は生い茂り、その大半は枯れて茶色く萎れている。そこから見える隣家には、人の気配すら無く、閉じた雨戸が壊れて外れていた。

『どうしたんだ、化野』

 ギンコはそう言った。その声が彼に届かないようだったので、もう一度言った。助けたいと、そう思っていた。

『どうしたんだ、化野』

 化野が顔を上げた。その目がギンコを映すと、化野は怯えたような顔をして何かを言った。その声は小さすぎて、ギンコの耳には届かなかったが『すまない…』と、そう言ったように思えた。

 すまない? 何が? お前は俺の持ってきたものを、快く買ってくれただろう。何を謝るのか判らない。それどころか茶と食い物を出してくれ、眠ってしまった俺に、あったかい布団まで掛けてくれた。何を謝ることがある?

『あだしの…。あだしの…』

 あんたがそんな顔をしていると、俺も辛いんだ。

「あだしの」

 ギンコが目を開けると、最初に岩が見えた。その次に酷い頭の痛みに気付いた。四肢が何故か動かし辛かったが、それでも何とか身を起こし、そうして見えたのは化野の姿だった。

 化野は荒い波の中に腰まで浸かって、潮水の中に羽織を浸けている。そして波をすくっては、それを岩場へと運び、水をそこへ零し、また波の中へ入っていく。足元は尖った岩ばかりで、その手も足も傷だらけで血まみれだ。

 声を掛けようとした瞬間、ギンコの足に何かがこつりとぶつかった。その、割れた硝子瓶を見て、その瓶に少し残っている液体を見て、ギンコは一瞬ぎくりとし、その次の瞬間、深い安堵に息をつく。

 青い色。

 いや、その青は「碧」だ。見間違えようとも「紫」じゃない。
「紫水碧」は、水に触れると猛毒になるのだが、それには時期があるらしい。季節か温度か、その蟲の生きた年月か、それはまだ分かっていないが。

 ただ、一つだけはっきりと判っている。紫水碧が水に触れて紫になれば毒。碧になれば、無毒のまま数時間で水と同化し、欠片も害はないという。

 そうだ。確かにこの色は「碧」だ。ギンコは無毒を知らせる「碧」を見て、心のどこかで安堵しながら気を失ったのだ。それも思い出した。ただ、その事を化野に告げることまで出来ずに意識を手放した。

 ギンコはもう一度、化野の姿を見て、そうしてそれから自分の体を見下ろした。裸だ。怪我は右手の甲と、両足の裏に幾つか。頭から流れた血は見えないが、手をやれば、どうやら出血は止まっている。それでも痛みはまだ酷い。

 自分が何をされたかも、勿論全部、覚えている。

 そしてギンコは化野を見て、彼の怪我の酷さに、思わず顔を歪めた。両足は膝から下が血まみれ。両手も、手のひらから指先まで真っ赤。そのズタズタの傷を潮で洗うように、化野は今は、波の中に呆然と立ち尽くしている。

 声が微かに聞こえた。
 俺のせいで、みんな死ぬ…と、そう呟いていた。

「あだしの」

 ギンコはそう呼んだ。聞こえないようなのでもう一度呼んだ。

「化野、大丈夫だ。誰も死なない」
「死ぬんだ。俺のせいだ」
「…そうだな、あんたのせいか」

 そう言うと、化野はギンコの方を見て、ぼろぼろと涙を流した。子供のような泣き顔だと、そう思った。


                                     続













 変な話ですよね、このノベル。まぁ、勘弁して下さい。よろしくお願いしますね。それにしてもギンコさん、寛容過ぎか? 彼は元々、自分が酷い目に会うことに関して、非常に寛容だと思うんですよ。命に関わることでも、大して怒らないんですものねぇ。

 先生も、どうやら物凄い怖い思いをしたようですし、読んでくださっている貴方も、どうか彼を許してやって下さい。許せる? 許せない? えっ、保留? じゃあ先生にはこれから功徳を積んで貰わなきゃあ。笑。

 そんなこんなで、五話目のお届け。皆様、ありがとうございまっす。


07/11/4