水揺らぐ夜  sui you ya   2




 いい匂いがする。温かな食べ物の匂い。その幸せな匂いを、無意識に胸に吸い込んで、ギンコは微かに身じろいだ。軽く頭を動かすと、目を閉じた顔が、柔らかな感触の中に埋もれて、これまた酷く気持ちがいい。

「…あぁ、起きたのか、遅くなったが、もうすぐ夕餉の支度が整う。腹が減っているんだろう…?」

 穏やかな声でそう言われ、ギンコはうっすらと目を開けた。だるい体で寝返りを打ち、畳に両腕を付いて身を起こすと、背に掛けられた布団がずれた。寝入ってしまった体を包むように、この医家が布団を掛けてくれていたらしい。

「あ…」
「よく寝てたなぁ。さぞ疲れてたんだろう。物音にも全然目を覚まさなかったしな」

 会ったばかりの他人の家で、こんなにも正体なく寝入ってしまった自分を、ギンコは半ば呆れ、半ばこの医者に悪いと思った。その上、夕餉の準備もすっかり済んでいて、どう礼を言っていいのか迷う。それとも詫びるのが先だろうか。

「えぇ…と、その」
「詫びならいらんぞ。医家にきて風邪を引いたと言いふらされりゃ、体裁が悪いのはこっちだからな」

 などと笑って言いながら、化野はギンコの前に湯飲みを置く。冷ました白湯の、その隣に薬方が一つ置かれる。

「俺がさっき気付くまで、寒そうに丸まって寝てたから、もう風邪を引きかけているかもしれん。ひいてなくとも予防も大事だ。それを飲んどけ、一番軽い風邪の薬だから」
「…あぁ、じゃ、遠慮なく」

 あんまりにもよくされて、逆にギンコは居心地が悪い。今も木箱にある器と布に、どんな価値があるかも判らないまま、それを金と引き換えて貰おうとしている自分が、酷い悪人に思えてしまいそうだ。

 薬を飲んで、白湯で喉に流し込み、それからギンコは勧められるままに、囲炉裏の傍で夕餉を食する。斜め前に座っている化野は、ギンコと同じものを鍋から器によそって食べ、始終ギンコに話しかけては、朗らかな微笑を浮かべていた。

「口に合ったかい。この通り男ひとりだもんだから、大したもんは作れないしな。美味いと言って勧められるのは、夕にも飲ませた茶くらいのもんだ。ずうっと南の方から取り寄せた、珍しい茶葉を使っているんだが」
「茶まで珍品だとは…。いや、美味かったよ」

 世辞ではなく、本気で思ってそういうと、化野は嬉しそうに膝を立て、奥へと行って、すぐに戻ってくる。

「もう一杯どうだ? 俺は本当に珍しいものが好きでね。飲み物、食べ物は勿論。器でも布地でも、植物でも動物でも、なんでも珍しいものなら手に入れたいと思っちまう」

 春先の新芽を思わせるような、幾分茶色がかった翠色の茶が、たっぷり湯飲みに注がれる。湯飲みの上で急須を傾けながら、化野はゆっくりと言い続けている。

「ここに来たのは、誰かに俺のことを聞いたからなんだろう? 教えてくれたその相手は、俺をどう言ってた? 随分変わり者だと言ってたろ?」

 化野は一度言葉を切って沈黙してから、急須の蓋を取る。自分の顔の傍まで近づけて、目を細めて匂いを嗅ぎ、床にそれを置いてから、カチリと再び蓋をする。 

「そうか、そんなに美味かったってか。茶に混ぜても味は変わらないのは助かるが」
「何…の話だ…」
「お前が飲んだ茶の話だよ」

 どきり、と、嫌な感じに心臓が跳ね上がった。注がれたばかりの茶は、すでに半分は飲んでしまっている。

 最初から、美味い茶だと思って飲んだ。最初の一杯も、今、貰った二杯目も。畳で寝入れば、温かな布団に包んでくれて、こんなに美味い夕餉も馳走してくれて、何かあるなどと思いたくはないのに。

「もう一杯、どうだ?」

 今やもう、はっきりと、陰りのある笑みを浮かべて、化野は急須に新しい湯を注ぐ。ギンコの方へと膝で寄って、急須を湯のみの上で傾け、彼はちらりとギンコを見た。

 ギンコは膨れ上がった恐怖にわななき、片膝を立てて立ち上がる。ガシャ…、と音を立てて湯のみが転げた。湯飲みは飯の茶碗にぶつかって、注がれたばかりの茶が、湯気を立てて畳に吸い込まれていく。

「あぁ、勿体無いな。折角の珍しい茶が」

 のんびりとした口調で、化野はそう言った。すぐに彼の前から逃げるつもりが、実際はちゃんと立ち上がれてもいなくて、酢の物の入っていた小鉢まで転げる。からになっている椀にぶつかり、小鉢は鈍い音を立てた。

 まろびかけながらもギンコは自分の木箱を引き寄せる。それを片方の肩に背負いながら、彼は裸足で縁側から庭へ出た。

 壁に、障子に、縁側の柱に、庭に立つ木に…と伝って行かねば歩けない。そんな自分の現状に、とうとうギンコは化野を疑った。おびえた目を向けながら、信じられないものを見るように、彼の姿を目に映す。

 化野が特に惚れ込んだ、その翡翠の色の瞳に。

「ま、まさか、あんた…。今の茶に何か…」
「いやいや、その茶は茶だよ。言った通りの南の国の茶だ。でも、何か混ぜたかと聞くつもりなら、それはさっき、お前が疑いもせずに飲んだ風邪薬が、それだ」

 化野笑って、やっと自分も立ち上がる。外に出るのに寒くないよう、ちゃんと羽織を来て、ゆっくりと草履を履いて、化野はギンコの方へと歩いてくる。

「最初の茶になら、眠り薬を入れた。旅の疲れが取れたろう?」

 穏やかな顔をして、化野はギンコに打ち明ける。まさか、最初から罠だったのか。泊まっていけと言ったのも、夕餉に誘ってくれたのも、最初から全部、彼を捕らえる為の…。
 
「お前の体に、その眠り薬がどれくらい効くか試して、あらためて風邪薬の代わりに違う薬を飲ませたんだ。手足がちゃんと動かないだろう。それ、効き過ぎると、あんまり体によくなくてな」

 言われなくとも、そんな事は判っていた。ギンコは庭の木にすがりついて、やっと立っているに過ぎない。

 逃げた兎を追うように、化野ゆっくりと歩を進めてくる。広げた両腕が恐ろしく、見据えてくる視線が恐ろしかった。悪い夢じゃないのか、と、ギンコは無益にそう思った。

「逃げたきゃぁ、そうすればいい。でも、無理をするなよ。足も腕も、ふるえが止まらないだろう? 無理に動けば、それだけ早く動けなくなる。なぁに、ただ一晩、手足が痺れるだけだ。量を間違えなけりゃ、大した危険な薬じゃないよ」


 *** *** ***


 正気の沙汰じゃぁ、ない。

 ギンコは心の奥で、繰り返してそう思った。変わり者だろうが、珍品好きだろうが、あついは医家なんだろう。それを風邪の薬だなどと偽って、四肢の自由を奪う薬物を、客に飲ませるなんて。

 脚がうまく動かない。腕にも指にも力が入らず、木の枝や幹に掴まって歩こうとしても、すぐに膝から力が抜けた。それでもギンコは、歩くのをやめるわけにはいかなかった。追われていると判っていて、恐怖が胸に突き刺さり、息すらうまくつけなくなった。

…珍品好きの、医家先生。
     欲しいのは俺なのか。一体なんで…。

 座り込みそうになりながら、なんとか少しずつでも前に進むと、背中の木箱の中で、硝子の瓶がごとごとと音を立てた。その中身を思って、ギンコは唇を噛む。

 あれの蓋は、ちゃんとしまっているだろうか。

 今は立ち止まっている余裕はない。ああ、けれども、大丈夫だろうか。万が一、蓋が開いて中身が零れたら…。自分には被害を食い止める能力などなくて、悔やむだけでは済まない事態になってしまう。

 この場に座って木箱を開けて、瓶の蓋がちゃんと閉じているのを確かめたいと、ギンコは焦る心の片隅で、何度も繰り返し思っているのだった。


                                     続









 瓶の中身。なんでしょうね? あ、ワタヒコじゃないですよー。それと同じような瓶には入っていますが、まったく別のものです。

 つまりは惑い星のオリジナル蟲です。どんな蟲が入っているのか、それが零れたらどうなるというのか、楽しみにしてみましょう! え、みましょう?って…。うーんと、その、ね・まだ全然決めてないから、これからボチボチ考えます。

 では、もうそろそろ眠気がきた惑い星は、一休みしたら、このノベルをアップいたします。

 そうそう、突然ですが、タイトル変えました「水揺虫」じゃ、なんか三葉虫みたいだし。笑。響きが綺麗な方がいいかなあって。そんなコロコロ、タイトル変えんなよって? スイマセン。汗。

 それではまた、更新の時に会いましょう。またはブログで、チャットで、どっかで会いましょう〜!



07/10/09