記 憶 の 標  … 前






ウロのあける穴はウロ穴

ウロ穴を巡る地下水に混じり
闇を流れているのはウロノツユ

ウロノツユは誰かの無くした記憶を集め
ただそれを何処かへと流してゆく

ウロのあける穴はウロ穴
闇を流れているのは記憶を乗せた

…ウロノツユ



暖かくはないが、寒くもない。そんな日差しが注いでいる。山道の隅の方にはまだ解けずに残っている雪もあるが、やっと春、と言ったところか。

折り重なる木々の向こうの、遥か遠くには青く輝く海と、その傍らに沿うような里が見えて、ギンコは唐突に今まで歩いてきた道を逸れ、枯れた草を踏み分けた。

 今はあの里に寄りたくない。あまり時間が無いのに、寄ればただ辛いだけの事。用があるのは、ここからさらに二つ山を越えた先の村で、あの里を通らずに行くとなれば、道の無い道を行くしかなかった。

そうして歩きにくい枯れ草の中を行き、かなり歩いてから、ギンコは一休みしようと、突き出た丸い岩の壁に寄りかかる。

 と、木箱を置こうとして、項垂れた彼のつむじを丁度打つように、一滴のしたたり…。いくらか驚いて見上げると、頭上の小枝が、それぞれ枝先の新芽に水の雫をためているのが見えた。

 空は晴れているから雨ではない。陽光にきらきらと光って、美しいその雫を、ギンコは何気なく見上げ、さらに落ちてきた水滴を、今度は額で受ける。

 ふと、何かが引っかかった。その水滴は、雪解け水にしてはぬるい。岩を這う湧き水が何処からかこの枝に滴っているのだろうが、それにしても、何かが気になる。

 蟲、だろうか。そうギンコは思った。ただの雫に見えて、命を持つものかも知れず、それならば小さな雫でも、こうして無防備に浴びているのはまずい。下ろしていた木箱を手にその場を動こうとした彼は、突然何かを思い出す。

 脳裏に、誰かの姿が浮かんだのだ。そうして、何処にでもあるような山里の風景と、粗末な藁葺きの屋根の家と…。でも、それが誰なのか、何処なのかが思い出せない。

 誰だったろうと思ううち、さらにまた別の顔が浮かんで、その次にまた小さな川べりの風景と、その傍らで遊ぶ幼子が思い浮かぶ。

 誰だ? 思い出せない。
 それに何故、今、こんなふうに思い出す…?

 そう思ったのは、一息か二息の間だったろうか。ギンコは急に青ざめて、弾かれたようにもう一度頭上を見上げた。陽光に光りながら、次々落ちてくる雫。雫を落とす新芽の枝。その枝を生やす木。

 そうして目の前の枝と日差しを透かして、さらにその木の幹のずっと先を見上げて、彼は一層青ざめる。その太い幹には、よく見れば細かな蟲の集まる蟲瘤があるのだ。

「…い、いかん…ありゃ、ウ…ウロ穴…だ……」

 気付いた時にはもう遅く、ギンコはその場に崩れるように膝をついた。丁度折り悪く風が吹き付けて、揺れた枝から無数の水滴が落ちる。浴びた水滴と同じ数だけ、ギンコの中には誰かの記憶が流れ込んだ。

 知らない情景、知らない人の姿、誰かの痛み、幸せ、憤り、安らぎ…。そうして誰かの死の瞬間の、行き場の無い無念…。果てもなく流れ込んだ無数の記憶が、ギンコの中の記憶を掻き乱し、押しのけ、その場所から押し流してしまおうとする。

 倒れたままでギンコは足掻いて、目を見開いて何かを見た。流れ込む知らない記憶ではなく、その場にある何かを見つめて、縋るように片手をそれに伸ばした。

 このままじゃ押し流されてしまう。果ての無いウロ穴に彷徨ったものたち…。ギンコの見知らぬものたち…。膨大な彼らの記憶に、ギンコの記憶が飲まれて掻き消されていく。 

 今いる現世に縋るような気持ちで、ギンコは手に触れたものを、必死に見つめながらも、意識を失ってしまったのだった…。




*** *** ***
 
 
 月が昇ってくる。真っ白く、平たい紙っぺらのような月が。それが見る間に沈んで、沈んだというのに、あたりは白い明かりに満ちる。

 果てもなく、目の前を、幾つも知らない景色が走っては消えるのだ。山里、海沿い、洞の中、萱葺きの家、裕福そうな家、倒壊しかけて傾いた家、人のいないあばら家。

 そして知らない人々が、彼を見つめて話しかけ、怪訝な顔をし、穏やかに笑い、肩を掴んで揺さぶり、そうして悲しげに咽び泣いていた。

 誰かが自分を呼ぶ。でも、どれも自分の名前じゃない。だからと言って、自分の名前が、もう口に上せようとも判らない。そうしてまた月、それが沈むと白い光。

 繰り返し、繰り返し…。ぐるぐると回る情景と人々に、その人々の声に、
彼は散々に記憶を掻き乱される。自分のものか、誰かのものか判らない記憶におぼれて、自分すら判らないままで。



 そんな長い時間の中、穏やかなのによく聞こえる声で、何処かで誰かが言った。その誰かは黒い影でしかなく、どれほど彼が目を凝らしても姿は見えないのだ。

    …何でもいい、すぐ思いつく名を付ければいい…

 同じ声が、冷たく彼を突き放す。 

    ……出てっとくれ、長居はお断りだよ。

 でも、行くところなんかない。何処に行けばいいのか判らない。記憶もないのに、名前もないのに、どうしたらいいのか。そもそもこの声が、本当に自分に向けられたものなのかも判らない。

 無性に怖くて、涙が零れて頬を伝い、彼は何も無い闇の中に蹲る。体を丸め、片手で胸元を握り締めるようにして震えた。歪んだ小さな視野に、ふと白いものを見て、彼はただそれを見つめる。

 胸で握ったのとは逆の手の中に、それは握り取られていた。

 白い花だ。すっくりと伸びた不思議な濃い色の茎に、幾つもの小さな花を咲かせて、それぞれ二枚だけの真っ白な花弁が、降る雪のように、弱弱しくも凛々しくも見えるような…。

 見つめていると、誰かを…思い出せそうだった。こんなふうに一見弱弱しくて、でも芯は強い人だったのだ。目立つ姿ではないけれど、時折はっとするように美しくて、辛い日々でもいつもやんわりと笑んでいて。



    …また何か、見えるのかい…?

 再び、声が聞こえた。これがその人の声だと判った。そうしてそれが自分に向けた言葉だと判る。何故だろう。この声は、酷く懐かしい…。

    
    …ああ、お前、こんなところまで戻ってきてしまって…

      大丈夫、怖くないよ。手を貸してごらん
        お前の行きたいところに、連れて行ってあげるから…


 何処へ? 誰なのか判らないままで、彼は手を差し伸べた。触れた手は暖かくて優しかった。そしてギンコは手を引かれながら、何も無い白い場所に伸びた、一本だけの道を歩いた。

「…誰なんだ…? 誰だか思い出せないのに、俺はあんたが……」


 あんたのことが…無性に…懐かしいよ…。


 熱い涙を飲むような、そんな心地がして、気付けば目の前に旅装束を着た女の後姿。女は背中を見せたまま、彼の手を引いていた。ギンコはいつの間にか幼い子供になって、一度だけ、その相手を呼んだのだった。

「     」

 けれど…
 呼んだその声は、ギンコ自身には聞こえなかった。
 女の声だけが、優しく柔らかく、彼を包んだ。


 …大丈夫。大丈夫だよ。

 さっき零れたお前の記憶は、全部一つに繋がっているよ。
 だから、一番大事なことを一つだけ覚えとけば、
 ちゃんと全部胸ん中へ戻るからね。

 その一番しっぽの方に、昔むかし、落とした記憶も、
 きっとくっついているよ。たとえずうっと、思い出せなくとも

 だから…心を強く持つんだよ…。

 ……ヨキ…


                                        続








 ちょっと…難産、だったかなぁ。私って、書きたいものをいつまでも心の奥に抱っこしてると、駄目みたいですねぇ。笑。ともあれ、このノベルは実は友人と…ごにょごにょ。ま、その話は後編の後のコメントに書きまーす。

 本日も前後、同時アップ。少しばかり重い話です。ごめんよ。


07/04/07