記 憶 の 標 … 後
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「ちょっとは休んだらどうだね」
その医者は、もう何度目かになる言葉を、呆れた声で言った。
ここは化野の里から、山を一つ、谷を一つ越えた先の村。フキノトウ取りのばあさん達が、山中で倒れているギンコを見つけて、なんとかここに運び込んだのだという。
話に寄れば、ギンコはもう丸二日も目を覚まさないという。怪我もなく、何か病を患っているわけでもない。頭を打ったようすもないのに。化野はギンコの身が心配で心配で、呼びつけられてここまでやってきて、それからずっと彼を見詰めている。
「…だからさ、あんた、休んだら? この行き倒れも最初はちっと心配だったけど、さっき吸飲みから白湯も飲んだようだし、眠りながらでも口をきいてるしな。もう大丈夫だって言ってるだろうが」
「呼んでもらって、恩にきる」
「いや、そうじゃなくてさ…あんた…」
医者は苦笑して、それから呆れた様子で肩をすくめ、往診に出る用意をし始めた。
「この行き倒れはアダシノアダシノアダシノって、そればっかりうわ言を言うし、あんたはあんたで、知らせを聞いて飛んできてからずっとその有様。もう、そんな心配することはな…」
「ギ、ギンコ…っ!」
医者の言葉を遮るように、化野は声を上げて、ギンコの方へ身を乗り出した。髪に触れていた手をいきなり捕まれて、ぐい、と引き寄せられたのだ。倒れこみそうになって何とか踏みとどまり、化野はギンコの顔を見つめた。
意識を取り戻したのかと思ったが、まだ彼は固く目を閉じていて、それだというのに、器用に化野の手の指と、自分の指とを交互に組み合わせて離そうとしない。
「はぁ…。ま、俺は往診に行かして貰うかな。怪我もないヤツの傍に、医者が二人並んでたってしょうがない」
その医者はぶつぶつ文句を言いながら、医療道具の鞄を持って、外套を羽織って外へ出かけていった。その背中が消えるのを待って、化野はそっとギンコの顔に、自由な方の手を伸ばす。
温かな頬を撫で、涙の後の残る肌を撫でながら、何故目を覚ましてくれないのか、と、胸の痛む思いを化野は繰り返している。
「…か……」
小さな擦れた声が、その時、何かを呟いた。耳を寄せて聞けば、悲しそうな声でもう一度、確かに「かあさん…」と。そして次にはもっとはっきり「化野」と呟く。
「俺ならさっきからずっとここにいるぞ、ギンコ。呼んだんなら、寝てないで、目を開けてちゃんと俺を見ろ…」
自分の手を握る彼の手の甲を、そっと労わるように撫でてやり、化野はギンコの見ている夢を思った。ギンコの母親のことなど、聞いたことは無いから、もう死んでいるのだろうと思っている。
ならば、意識のないギンコを連れていく為に、夢の岸で母親がギンコを呼んでいるのかもしれないじゃないか…。
冗談じゃないぞ。そんなことはさせない。させるものか。例えギンコの母親だろうと。ギンコが母にどんなに会いたかろうと、そんなのは知ったことじゃない。許さない。
俺からこいつを奪っていくなんて。
ギンコに片手を取られたまま、その枕元にもう一方の手をついて、化野は逆さまから彼の顔を見下ろした。そのまま顔を寄せて、間近で見つめれば、瞼が微かに動いていて、確かに小さな反応がある。
今度は片手を振り解き、彼を抱き起こして胸に抱いた。硬く握られた手の中に、萎れた野草を見つけて、その指を解こうとした瞬間、あまりに呆気なくギンコの瞳が開く。
「あ…ギンコっ、あぁ…! よかった、ギンコ…っ」
化野はギンコを折れるほど抱き締めて、何度も名前を呼ぶ。名前を呼ばれながら、呆然と天井を見上げ、彼は最初にぽつりと尋ねた。
「化野、俺は、何か…言ってなかったか?」
「…え……いや」
母親を呼んでいたと、教えた方がよかったか…。一瞬そう思ったが、何故か言葉が出てこなくて、化野は言葉を濁してしまった。ギンコはゆっくりと辺りを見回し、それから化野の顔に視線を戻し、酷く疲れたような声で呟く。
「化野…」
「…うん?」
返事をすると、少し間を置いてもう一度、今度は震える声が、か細く名前を呼ぶのだ。
「あ、あだしの…?」
「どうした、ちゃんといるぞ。お前が呼んだからこうして来たんだ」
見ている前で、ギンコは急に視線を空に彷徨わせた。何かを探すようなその眼差しが、酷く不安そうに見えて、いつもの彼とは違って見える。渇いた唇が動いて、ほろりと言葉が零れた。
「懐かしい…誰かの夢を見てた…」
誰かに手を引かれて、ここまで連れてきてもらった。綻びた胸の穴から零れて、流されていった記憶や思いは、今はちゃんと全部、胸にある。だから失ったものは何もない筈なのに、心の奥に、見えない場所がいくつもいくつも。
「懐かしかったのに、もう…」
思い出せない。見えなくて、だから酷く遠い…。
その事が悲しい。
一言だけを告げて黙り込んだ彼の、その片手の指を、今度こそちゃんと、一つずつ解かせて、萎れた花を化野は手にとって見た。
ユキノシタ…。
白く小さな二枚だけの花弁だけを開いて、そんな可憐な姿をしていながら、岩の隙間や木の割れ目から、力強く生えてきて咲く華だ。
化野の手に移ったそれをギンコはじっと、静かな目で見つめて、何か言いたげな顔をするのだが、それを返せとも、捨てるなとも、何も言わなかった。化野もまた、何も聞かずに、それを二つ折りにした半紙に包んで、丁寧に懐に入れる。
「お前」
夢の中で、母親に会ったんだろう。そう、化野は言いかけて黙り込み、その代わりに、乱暴な仕草でギンコの頭を掻き抱いた。
「馬鹿か」
くしゃりと笑って、笑い顔なのに、何処か泣いたような顔で。
「あんな場所通って…お前、わざわざ俺の里を避けてったんだろう。無茶するな。一日でも、たった半日でも半時足らずでもいいから、顔くらい見せろ。気をつけて行けよ、くらい言わせろ」
会ってすぐ離れる辛さなんか、ずっと会えない辛さに比べたら、何ほどもないのに、無意味な回り道なんぞしやがって。
何も言わず、ギンコはこくりと頷いて、さっきの花が納められた化野の胸元を、手のひらでそっと撫でた。
「化野」
「…ん?」
「……あだしの」
「なんだ、さっきから」
名前を呼べる。そうして返事がすぐに返る。その事が、こんなにも幸せで。やっとギンコはうっすらと笑った。大切な記憶を、二度と失くさないように、見失わないように、忘れないように、本当は胸に鍵でも掛けてしまいたい。
目覚めたら忘れてしまう、
そんな夢の岸辺に、優しい声がする。
大丈夫だよ、大丈夫、ちゃんとここにいるよ…
白い可憐な野草に重ね見た、遠く懐かしく優しい面影は、彼の心の奥底に今も眠っている…。
終
えーと、書きたいテーマは決ってたんですけど、なんか、難しいテーマだったようですよ。しかもキーワードを四つクリアしなきゃならない課題で。
課題? なんやねん、学校か? いや、そうでなく。笑。
実は以前、Jさんところでキリ番踏んでキーワード出してリクエストしたら、「同じキーワードでそちらでも書かなぁ〜い?」と言われたんで、つい「いいよ」と。そして自分が彼女に出した、四つのキーワードで、自分も苦しんでいたという…。
キーワードは「春、山、花、懐かしい、というセリフ」というモノでした。酷いリクエストだな。ひでーひでー。欲張りすぎだ。そして自分も苦しんだという…。←二回言いましたよ?!
その上、彼女が書くのを待ってないで、先に書いてアップしちまう、という。ひでーひでー。…ゴメン。笑。
ここに書いているコメントはギャグだけど、明日、日記は真面目に書くよ。それではまあ、アップしますねっ♪
07/04/07