聞こえないように…  前




 夏の間だけ、この峠には小さな茶屋が店を開く。茶屋と言っても、風避けの壁三枚に屋根を付けて、木の長椅子を二つ並べただけのもので、夕暮れ前のこの時間には、茶を出してくれるものも帰ってしまっている。

 その茶屋とも言い憎い場所で、ギンコは二人の女の姿を見た。一人はまだ若い女。もう一人はその女を気遣っているふうな、白髪の女。

 年老いた女が言った。

「縁が無かったんだよ、もう忘れておしまいよ」

 若い女が言う。

「だって、あの人には決った人なんかいないって聞いてたから、あたし…」

 若い女は赤い目をして、その目に涙を滲ませている。聞いていてはいけない話だと思った。この先を聞いてはいけないと。けれど、ギンコは竹筒から水を一口飲んで、立ち上がれないでいる。

「あの人の傍にいられるんだったら、里を移って、漁師の仕事をしたっていいって思ってた。勿論、お医者の仕事だって、手伝って…」
「もう、判ったから…。あんたならもっといい人が見つかるから、ね? さ、帰ろう。ほら、旅のお人も困ってお出でだよ…」

 年老いた女はちらりとギンコを見て、すまなそうに軽く頭を下げた。ギンコは無表情に頭を下げ返して、旅に疲れた腰を上げる。

 この峠を下りて、少し歩けば化野の住む里だから、さっきまでは勝手に足が前に進んだのに、今はその足が重い。

 聞くんじゃなかった、そう思った。女達がくるのを見た途端に、すぐに腰を上げて歩き出せばよかった。そうしていれば、今、こんな気持ちで項垂れていなくともよかったのに。

 夏だと言うのに、薄暮れの白い空気が、酷く冷たい気がした。


*** *** ***


「よく来たな、ギンコ」

 化野はいつも通りにギンコを迎えてくれ、家に彼を招き入れると同時に外へ出て、隣家から魚だのなんだのを貰ってきてくれる。器用なその手で魚を煮て、作り置きの漬物に、根菜の汁、温めなおした飯を出してくれた。

「どうした…?」

 ぽつり、と、化野が聞いたのは、飯もあらかた食い終り、空になった器を重ね合わせた後のこと。

「…何か、あったのか? 嫌なら言わなくていいが」
「何もないよ。別にいつも通りだ」

 ごちそうさん、と軽く笑んで、ギンコは木箱の中から土産を出す。、今回、蟲絡みのものはなかったので、持ってきたのは、ちょっと綺麗なだけの鉱物。特別珍しくもないから、売り付けるつもりもなくて、それをころりと化野の前に転がした。

「お、綺麗だな。どっかの高山の火山岩の欠片ってとこか。んん…地層の縮図を見るようだ。…タダでいいのか? これ」

 化野がランプを引き寄せてそれを眺めると、彼の手の中で、それは少しの光を放って見えた。沖に、波が生まれているような美しい曲線が、その石の中に刻まれている。

 黒、灰色、灰青、蒼、翠。

 その翠の色をじっと見つめて、化野は、ふ、と、ギンコの顔を見た。綺麗な翠の色は、酷くギンコの瞳の色と似ていて、きっとそれを見れば、いつも傍にいないギンコを思って、切なくなってしまうだろう。

「……ギンコ…」

 卓の上にその石を置いて、化野はギンコへと手を伸ばした。髪に手が届いた途端、ギンコは怯えたように目を見開き、わずかに身を遠ざけた。

「ギンコ…?」

 ギンコはいつも、化野が抱こうとすると、いくらかは嫌がるそぶりを見せるから、常ならば強引に引き寄せたかもしれない。けれどもその時の彼は、常の彼ではなく、抱かれること、求められることに恐怖しているようだった。

「まあ、疲れてるだろうし、なぁ…」

 曖昧にそう言って、身を離した化野の耳に、か細く、ギンコの声が届く。

「…海に、行きてぇ」
「海? もう夜だぞ。それでもか」
「…一人で行く」

 視線を逸らした横顔に、化野の怒ったような眼差しが注がれて。

「馬鹿言うな、お前。急患でも往診でもないのに、何で来たばっかりのお前と、離れていなきゃならないんだ。待て。支度する」

 その言葉が、あまりに真っ直ぐで、化野から自分への、一つの想いを告げていて、ギンコは黙って、薄っすらと頬を染めた。

 ああ、つまりはそうなのだ。峠で会ったあの女の涙は、俺のせいの涙だということか…。

  
 見合いしたのか? 化野。
 なに、偶然聞いちまってな。
 なんで断った。
 お前も、そろそろ身を固めてもいい頃だろうが。

 
 そんな軽口を叩けない自分が、どんなに彼を独り占めしたがっているか、ギンコは自分でよく判っている。水の流れを彷徨い続ける木の葉のくせに、岸辺の優しい土に焦がれて、あんまり我が侭が過ぎるだろう。

 項垂れているギンコの方に、化野は着物の一枚を掛け、羽織るようにと気遣った。

 そうして二人連れ立って、夜の海辺の砂浜を歩く。ギンコの足の下で崩れる砂が、立ち止まるな、立ち止まるなと、彼を次の旅に追い立てるようだった。

 気付けば化野の手が差し出されていて、ギンコは戸惑いながらも、その手に自分の手を伸ばす。

「先生…? そこにいるのは先生かね。おや、ギンコさんも」

 声を掛けられて振り向いて見れば、船守りの家の男が、解けかけた船のもやいを杭に結び直しているところだった。男は日に焼けた顔でくしゃりと笑って、薄闇の向こうから化野に言うのだ。

「そういや、さっき聞いたけどさ、隣の里から来た嫁候補。先生、その場で断ったんだって? いい話だと思ってたのに、どうしてだい? 別に…他に好きな女がいるわけじゃないだろ?」
「あ、その話は…」

 今はしてくれるな、と、言いたいが、どう言えばいいものか。ギンコに聞かせたくなくて、化野は曖昧に言葉を濁し、その次にギンコの様子に気付いた。

 ギンコは化野からも男からも離れて、波打ち際まで行き、寄せてくる波に難儀している。まるで幼い子供のように、寄せる波に後ずさり、返す波を追って進みながら、どこか遠い眼差しで沖を見ていた。

 言葉もなく、化野はそんなギンコを眺めて、それから一つ息を付いて言ったのだ。

「好いてる女はいないよ。でも、だからって、好いてもいない女と添おうと思わないだけだ」

 化野はもう一つ息を吸い込んで、幾らか声を大きくして言った。ギンコにも聞こえるように、波音に負けないような声で言いながら、彼は酷く穏やかに笑んでいる。

「この先、いつか…俺が誰かを好きだと思うことがあったら、その相手がもしも、俺の傍にいられない人間でもね。つまり行商とかしててすぐにどっかに行っちまう相手でも、俺は心でそいつと添うよ」

 聞いた男は呆れたような顔をして、変わりもんだね、と化野を笑った。それから妙な冗談を思い付いたとでも言いたげに、ギンコの方を眺め見る。

「そうだよねぇ。先生は今だって、ギンコさんのこと待ってるもんなぁ。好きな女が万が一蟲師でも、今とおんなじに待って過ごせるって訳か。俺にゃあとても出来ないこったよ」

 男はそのまま、また笑い声を立てながら言ってしまったが、化野はそちらの方などもう見もせずに、波に足を洗われているギンコへと近付いた。

 ギンコはますます子供のように、両足とも靴を脱いで片手に持って、闇に白いその足を、繰り返す波に濡らしているのだ。


                                          続











 先生やっぱり、もてるんだね…。前後編、同時アップなので、ここでは多くを語りません。では、また後で。にこ。






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