聞こえないように…  後




「聞こえたか…? 今の」
「んん? いや、里の立ち入った話かと思ったから、聞かないようにしてたんだが。何だ?」
「…聞こえなかったんならいいんだ」

 そう言って、化野のは少しの間、疑うようにギンコを見ていた。ギンコは項垂れて、白い髪で顔を隠して、そのうっすらと笑んでいる口元しか化野に見せてはくれない。

「風が出てきたな。帰るぞ、ギンコ。なんだお前、デカいなりして子供みたいに。波遊びがしたいんなら、昼間のうちにしとけ。貝やなんかで足を切っちまうぞ」
「足が濡れちまったから、渇くまで靴がはけない。先に帰ってくれ」
「…馬鹿か。ほんっとに、子供みたいに」
「ぅわ…っ」

 化野は、目の前に立っているギンコにいきなり抱き付いて、棒のように固まった体を持ち上げて岩場へと運んだ。そうして丸岩に腰を下ろさせ、ギンコ自身に羽織らせた着物の裾で、彼の足を丁寧に拭う。

「ほらっ、これでいいだろう。靴はけ」
「悪いねぇ、世話ばっか掛けて」
「まったくだ。だが、もう待てんから、そう思えよ」

 立ち上がり際、化野は彼の唇を盗んだ。ちゅっ、と音を立てて吸ったきり、すぐに背中を向けてギンコの手を引っ張る。波の上には、登り始めた金灰色の月が、長く光を伸ばしていた。


*** *** ***


手を引かれたままで家に戻り、手を引いたままで、化野は奥の間の襖を開ける。開けるとそこには、既に布団が敷かれていて、ギンコは思わず言ってしまった。

「いや…準備が良過ぎるだろう、化野先生」

 海へと出かける前に自分を待たせて、何をしていたかと思ったら、布団を敷いて、傍らにランプまで置いてある。

「疲れたお前の体を、板の間に寝かすのは可哀相だからと、気遣ったつもりだが?」
「そ、そりゃどう…。ん、ふ…ッ」

 あっと言う間に、唇を奪われた。呼吸すらうまく出来なくなるような、深い濃厚な口吸いだった。気付けばもう布団の上で、ギンコは着物を剥がれ、ズボンの前を開けられ、シャツを上にたくし上げられてしまっている。

「ぅん…ん、苦し…。ま、待っ…」
「待てん…と言ったぞ」
「ぁあ…は…ッ」

 唇に自由が戻ると、今度は胸に愛撫が下りる。片方を吸われ、もう一方を乱暴に摘んで捻られて、細い喘ぎをあげながら、ギンコは身を震わせているしかなかった。

 心底から、抱かれるのを嫌がった事など無い。常に相手は化野で、それならば何処にも拒む理由はないから、羞恥と気兼ねに抗うことがあっても、その所作はすぐに溶けて消える。

 全身、すべてを、指で唇で舌で愛され、そうして求められる幸福感が、傍にいない間の淋しさを、あっと言う間に満たしてしまう。なのに、その満ち溢れた心の何処かから、流れ零れていくように、またきりもなくギンコは淋しくなるのだ。

 もっともっと、もっと。求めてくれ、欲しがってくれ。言葉にならない激しい心を、その愛撫の一つ一つに込めて、声の無い声で叫ぶように抱いてくれ。

 言葉で言われるのは怖いから、声の代わりのその愛撫で、俺だけを欲しいのだと、叫び続けてくれればいい。この体が化野のものなのだと、どこかしこにも、刻むように抱いてくれ。

 そうしたら、俺もきっとほんの少しは、許して貰える気がするから。

 化野、お前を俺一人のものにしたいと、そんな願いを持つことに、許しが貰える気がするから。


 *** *** ***


 朝の光で、ギンコは目を覚ました。軽く身じろぐと、足の下にざらりとした感触がある。夕べ、砂の上を素足で歩いたギンコが、布団の中まで持ち込んだ砂粒。

 その砂を幾粒か付けた化野の手のひらで、ももを撫でられて悲鳴を上げたのを思い出す。いつも以上に激しかったのは、やはり、見合いの事があったからだろうか。

 海辺で、本当は聞こえていたあの言葉は、まるで化野が彼に心を告げたようだったのに、聞いていなかった、などとギンコは誤魔化した。

 そっと顔を向けて化野を見たが、彼はぐっすり眠っている。その薄く開いた唇を見ると、その口がした様々なことが、一つずつ肌に蘇って、こうして寄り添っているのも恥ずかしいくらいだ。

「…あだしの」

 名前を呼んだ。ほんの少しも反応はない。手を伸ばして頬に触れた。髪を撫で、耳を撫でたが、化野は眠ったままだ。

 だから身を起こし、ギンコは彼の体に覆い被さるようにして、そっと化野の体を抱いたのだ。いつもは抱かれるばかり、包まれる側になってばかりだから、一方的に抱き締めるのが恥ずかしくて頬が火照る。

「ずっと、俺を…」

 ぽつりと言った。
 言おうとしている自分に驚きながら、柔らかく強く化野の体を抱いて。

「俺が来るのを、待っててくれるのか? この里で、誰とも添わずに、俺とだけ心を添わせていてくれると、そう言ったのか…?」

 もしもこの言葉が聞かれていたら? ギンコはそう思って、身を震わせた。我が侭な望みだと判っているから、聞かれるのが怖い。否定されるのは勿論、心込めて頷き返されるのも怖い。

「俺は、とうに…そうだよ、化野」

 こんなにも真剣な想いなのに、再び離れて過ごしていれば、まるで、その言葉も抱擁も微笑みも愛撫も、すべてが幻のようで。切なくて悲しくて。だからいっそ、言葉など要らないと思うこともある。

 なのに傍にいれば、言葉も何もかも、すべてが欲しくなってしまう、貪欲で我が侭な心。

 切ない言葉を言い終えて、もう一度化野の顔を見たが、彼はやっぱり眠っていた。その横に再び身を述べて、ギンコももう一度眠りに付いた。

 それから、小半時もたっただろうか。化野は仰向けのままで、うっすらと瞳を開く。細心の注意をはらって、静かに顔を横へ向け、化野はギンコの寝顔を見た。

 眠っているギンコに、化野は言うのだ。溢れるほどの愛しさを込め、抱き締めたい思いを、ありったけの理性で押し殺して。

「…いつか、起きてる時に言ってくれ」

 


 ギンコの静かな音息と共に、遠い波音が聞こえた。
 卓の上に置かれたままの、ギンコからの土産。
 その石が、音を聞かせているようにも思えた。


 波のように揺れ動いても、変わらずにある二人の間の心。ただ互いを想い、愛し続け、このまま変わらずに、いつかこんなふうに石になるほど、ずっと想い合えれば…。

 想い合うその不変が幸福なのだと頬笑んで、化野はギンコの寝顔を見つめているのだった。



                                      終











 また、随分と先の話を書いてしまったような気がします。そして二人はまだ、切なさや哀しみや孤独感や、不安に捕らわれたままでいるのだと、判ってしまいました。

 でも確かに、強い絆を感じる、とは思いませんか。辛いけれど大丈夫だと、心のどこかでは安心しているような、そんな強さを感じませんか? 安心しているのに、なんで不安なの?って? それは愛故なのよ。

 さてっっ、このノベルは茉莉様へ捧げさせて頂きたいのです。こっそりひっそり陰の方で、沢山の素晴らしい作品を、私に下さって、いつも惑い星にパワーを下さる茉莉様っ。

 心よりの感謝を込めて! イマイチ、頂いたお題に添ってない気がしないでもありませんが、お許しくださいね〜。クスンクスン。どうぞ、お持ち帰りくださいませ〜。


07/05/06