寝入ったのはほんの数時間だろうと思う。台所の方では、水の音やら包丁の音、鍋を火に掛ける音などが聞こえているから、まだ化野はこちらには戻って来ない。
潜り込んでいた布団から、そろりと顔だけを出し、ギンコは手の中の小瓶を眺めた。赤子の小さな爪のように、白く透き通った翅が二枚、瓶の中に閉じ込められている。
本来なら、華蜻蛉の翅は、淡い黄色の筈なのに、これは白く透けるような色。その理由がすぐに判って、ギンコは、かぁっと頬を染めた。この白い色は、あそこから溢れ出た彼自身の液の色だ。
普通の華蜻蛉が、タンポポの花の色に染まって薄黄色なのを思えば、ギンコのそこを温床に育ったこの一匹が、真っ白な翅なのも頷けるというもの。
火照った顔を、もう一度布団に埋めていたら、いつのまにか傍に来ていた化野が、ギンコに声を掛ける。
「朝餉はまだだが、湯をたっぷりわかしておいた。立てるようなら使っちゃどうだ。…ん、と、多分、使った方がいいと思うぞ」
そういえば、この家には広い風呂がちゃんとある。医者の家だから、無ければいけないものなのだろうが、前に来た時にも使わせて貰ったのを覚えている。
引っ掛かりのある言い回しをされて、不思議に思いながらもギンコはその言葉に甘えようと思った。だが、とてもじゃないが、化野の顔をまともに見られず、項垂れてひょろひょろと立ち上がる。
化野は彼を支えてやろうとはしないが、それでも心配そうに傍らで見ていて、身を起こしたギンコに着物を掛けてやり、襖や戸を次々に開けてくれた。
「一人じゃ無理なら、声を張り上げて呼べよ? 医家の風呂で溺れたりされちゃ、俺も体裁が悪いしな」
うん、だとか、ああ、だとか、小さな声で返事をして、ギンコは風呂場に入って行く。化野はすぐに朝餉の準備を再開し、すぐにそれも終わって、することがなくなってしまった。
ギンコはちゃんと湯を使えているだろうか。疲れた体で熱い湯に浸かり過ぎて、立てなくなったりしてやしないだろうか。
ふと見ると、卓の上には小さな瓶。華蜻蛉の翅とやらを入れた瓶だと判るが、化野の目にはただのカラの瓶だ。それでもその傍にいき、卓の上に肘を付いて覗き込み、ふぅ…と疲れた息を付く。
……この体、お前にやるよ…。
今更だが、凄い事を言われたものだと思う。どう見ても、何一つ知らない体をしていて、男を相手に、そんなことを言い出すとは。けれどそれが、本当に言った通りの意味だとは、思いたくとも思えない。
やるよ…って。そりゃ、永久にって事なのか。来るたび抱いていいってことか。ずっとはいられないとか言ってたようだが、まさか、もう来ないつもりで体を差し出したんじゃあるまいな。
別に、あの体が、俺のもんだなんて思わない。ただ、もう二度と手も触れられないって、それはないだろう。こんな事があったからって、二度と来ないなんて言わないだろう、ギンコ。
考えれば考えるほど、そのままをギンコに問い質したくて、化野はじりじりとしてくる。その時、ガタリと奥で音がして、聞くなり飛び上がるようにして、彼は風呂場へと走りこんだ。
「大丈夫か! ギンコっ」
「あ、いや、桶につまづいただけだ」
見れば、ギンコは着物を着かけていて、その裾を片脚で踏んでよろけている。差し出した手で、体を支えてやると、ギンコは酷くぎくしゃくした態度で、無理に化野の手を押しのけた。
「いや、いい…。病人て訳じゃないし、自分で立てる。それよか、その…すまん、うっかり湯の栓、抜いちまって…」
「ああ、別に…そんなのはいいよ」
化野は空っぽの浴槽をちらりと見て、曖昧に笑む。
別にお前の体の奥から零れ出た、白い俺の液が湯に浮いてるのを見たって、そんなこと、気にしやしないけどな。
などとは、無論言わずに済ませて、化野は後ろへ下がって、ギンコに通り道を開けてやった。
そうでもしなければ、おそらく、ギンコは風呂場から出てくることも出来ない。必要以上に、自分に近寄りたがらないギンコの態度に、化野はすぐに気付いて、内心では淡く嘆息している。
やっぱりもう、触れたくないか。そりゃまぁ、いくら初めての相手だって、男の俺に、本気で体をくれたってことはない、よなぁ…。期待する方が、どうかしてるってもんだったよな。
「食べたら、すぐに経つつもり…だから。唐突に邪魔して、難儀な『治療』頼んで、悪かったな」
食卓に付きながら、箸に手を触れて言う言葉にも、化野は悲しく頷かねばならない。ここに長居したくない気持ちは、嫌というほど判る。はずみであんなことを言ったが、長居してまた押し倒されては敵わんだろうし。
「ああ…そうか。ゆっくりしてって貰いたいが、そうもいかんのだろうな。残念だよ。体が本調子に戻るまでは、旅急がずにのんびり行けよ、ギンコ。それでお前、ここにはまた…来てくれるのか?」
もう二度と来ないと言われるかと、内心では酷く怯えて言った言葉だったなんて、お前は判らないだろうな。嘘でもいいから、また来ると言ってくれたら、俺も、夕べの甘やかな時間は、幻だった…くらいに思っとくよ。
見つめる前で、食べ物もろくに口に運ばず、ギンコは長く沈黙した。それから、ふ…と顔を上げて、化野の顔をじっと見つめ、彼は一言ずつ区切るように言ったのだ。
「今は、春の盛りが来る前に、いかなきゃならん場所があるから。次には、少し…ゆっくりいさせて貰うつもりだ。もし、お前が…嫌でなければ」
「嫌なわけがあるか…っ」
いきなり大声を出した化野に、ギンコは目を見開いて驚いて、それから照れたように薄く笑った。そのかすかな笑みを見て、化野は強く思ったのだ。
夕べ、気持ちが伝わり合えたように思ったのは、もしかしたら、ほんのちょっとは事実だったのかもしれない。いや、気のせいかもなのしれないが、望みの欠片くらいは、どっかに転がってる筈だ。
そうでなければ、お前、そんな顔して笑ったりしないだろう。そうだろう、ギンコ…。
続
ここらへんの二人の心境って、なんか難しいというか、書きたい想いが、二人ともの心の中で、ひしめきあっているっていうか…とにかく、どう書いても満足できないよ!といった感があります。
それはまあ、私がヘタヘタなせいもありますよね。しくしく。書き足りないっていうか…こうじゃないのに!とか思うのも、きっと大好きだからなので、自分で自分を大目に見ておきます。
次回は本当にラストなので、先生とギンコさんの別れのシーンと、あと、華蜻蛉のことをちょっぴりね。終わる終わる言って、中々終わらない、華蜻蛉、間に色々と書いたせいもあるけど、書いてる期間が長すぎだろう!
皆さん、ありがとうございます。次回もまた、どうか読んでくださいね。ぺこり。
07/05/16

華 蜻 蛉 hanakagerou 14