結局、ギンコはその日の昼前に、旅に発つことになった。
食べるものは精一杯食べさせ、日持ちする乾物やら旅に必要そうな薬を持たせ、まだ春まで少しあるから、首やら頭をおおえるような、温かい襟巻きを渡してやり。
こまごまと、思い付く限りのことをしてから、化野は縁側でギンコを見送る。
「ほんとに、気を付けて行けよ」
「ああ、ありがとな」
顔も向けずに礼を言う姿が、なんだかつれなく思えて、化野は少し思い切った事を言った。
「なぁ、覚えとけよ。お前に何かあったら、俺が悲しむぞ」
なのに、ギンコはいっそう余所を向いて、最後まで化野の方を見なかった。顔を上げて、もう一度でも彼の姿を映せば、視線を逸らせなくなってしまいそうで、怖くて仕方ないのだなどと化野には判らない。
「…覚えとくよ」
小さな声で、ギンコは言った。そうしてそのまま、彼は歩き出した。最初に出会い、離れた時と同じ別れ方をしたのは、そうすればまた会えそうだと、心のどこかで思ったからだった。
縁側に立ち、ギンコの姿が遠ざかるのを、化野は見ている。ギンコの進む向こうには、明るい日差しに光る雪の景色と、銀色の海。もう二、三日吹雪いててくれりゃあ、それだけギンコを引き止められたのに、そうはうまくいかないものだ。
次に来た時は、絶対にあいつに言いたい事がある。来た瞬間に言うのではなく、ついさっきのように、またギンコが旅に発つ時に言ってやる。
また来い。
次はいつ来る?
待ってるぞ。
我ながら、大したことのない決意だと思うが、それが何故か、酷く勇気のいる事なのだ。化野は縁側に腰を下ろし、そのまま仰向けに寝転がって、冬にしては綺麗に青い空を、じっと見上げた。
待ってるぞ。
俺が待ってるのは、いつでも
お前だけだからな。
そこまで言えるのはいつの日だろう。それは遠い先のこと。だからギンコ、気を付けて行けよ。お前に何かあったら、俺はもう二度と立ち直れやしないんだから。
ギンコの後姿が見えなくなって、随分と長い時間が経っても、化野はそのままそこで空を見ていた。太陽がゆっくりと天を横切り、傾いて下りていくその様を眺めながら、時の流れの緩慢さを思った。
会いたいと願う、日々の切なさを…。
*** *** ***
それから二ヶ月。
ギンコはポケットに手を入れた恰好で、緩い斜面の只中に立っていた。彼の足元から、周囲一面、真っ白い綿毛をつけたタンポポが、強い風に揺られている。
ポケットに入れていた手を出すと、その片手には小さな小瓶。華蜻蛉の半透明に白い翅が、二枚だけ入った例の瓶だ。
と…一際強い風が吹く。まるで合図でもあったかのように、白い綿毛は茎を離れ、風に乗って一気に飛び立った。数え切れないほどの、薄金色の華蜻蛉と共に。
白と金が混ざり合うような、その見事な光景を、ギンコは黙って眺めている。
あの日、彼の体から飛び立った一匹がそうだったように、小さくて美しいその羽虫は、三つ呼吸をするほどの間に、次々と翅を散らして死んでしまう。そのあまりの儚さに、ギンコはそっと目を細めた。
こんなにも短い命なのに、お前達は、それでも生を満足して、そうして散っていくんだな…。
華蜻蛉達が消えて、綿毛もすべて視界から消えた後、ギンコは宙空を、ふ…と見上げ、ゆっくりと歩き出す。その視線の先には、散らなかった、たった一匹の華蜻蛉。
数え切れないほど飛んだ華蜻蛉の中で、この、たった一匹だけが残って、次に生まれる卵を産み落とすのだ。その為に、この一匹は春まで特別な場所で眠りに付く。その為に作られた、柔らかで温かい寝床。
ギンコは目の前で、ゆらゆらと飛ぶその姿を追いかけながら、緩い斜面を降りていき、その先に見える一本の樹の根元を覗き込んだ。華蜻蛉もまた、頼りなげに羽ばたきながらも、真っ直ぐにそこに近付いてくる。
幾本も、地面から盛り上がった太い根の間に、不思議なものがあった。手の平に乗るほどの大きさの、薄金色の丸い塊。ギンコはそれに近寄って、湿った土に片膝をついて屈み込む。
よく目を凝らして見れば、その丸い塊は、死んでいった華蜻蛉達の翅が、寄り集まって出来ているのだった。
彼の見ている前で、死なずに残ったその一匹は、丸い塊に吸い寄せられるように近付いて、身をもがかせるようにして中に入っていく。
すぐ傍でそれを見つめ、見届けてから、ギンコは瓶の中から手のひらへ、あの二枚の翅をぽろりと零し、そっとそれを指で摘んで、埋め込むようにしてやった。
「…お前、ここに来たかったんだろう」
死んでからになっちまったが、それでも、許してくれよ、と、ギンコは淋しげに微笑む。
生きとし生けるものは皆、きっと一つは帰りたい場所を持っている。今まで、過去のない彼には、それが何処にあるかもわからなかった。
透けるように淡く青い空を、ギンコはゆったりと振り仰ぐ。この同じ空の下に、あいつがいる。そう思う事がささやかな慰めであり、彼の心を安らげる不思議な約束。
お前に何かあったら、俺が悲しむ…。そう言った彼の声が、その場だけの幻でも、それが耳に、心に残っている限り、いつでも温もりが彼の胸を温めた。
春の空は柔らかく青い。その色は、同じ優しさで化野の上にも光を注いでいるだろうか。注いでいればいい。平穏で安穏な日々を過ごしていてくれればいい。
「なぁ…お前は、妙なとこに大事な卵、産み付けたりすんなよ」
ギンコは、もう一度、華蜻蛉の眠る場所へと視線を戻し、軽く苦笑してそう呟くのだった。
終
ラストですっ。やっと書きあがりました。どんだけ時間掛かってるんだよ、自分っ。と思わず突っ込んでしまいましたが…。ここまで読んできてくださった皆様、心より感謝いたします。
次の連載も考えておりますので、またお付き合い頂ければと思っています。
それにしてもアレですよ。ラストの華蜻蛉が飛び立ったりとかするところ。一匹だけ残ったやつが、同胞の翅で出来た寝床に入っていくところ。描写が難しかったですっ。
あぁ、要するに玉砕しましたね。綺麗に締めたかったですけど、力不足でした。ゴメン。次回も頑張りますっ。今度こそ、綺麗に締めるぞぅ〜。なんて、今から次のラストの心配は早いって。
ともあれ、皆様、ありがとうございました〜。
07/05/26
華 蜻 蛉 hanakagerou 15