疲れ切ったギンコの様子を気遣いながら、化野はゆっくりと彼の傍を離れた。隣の部屋へ行き、もう一組の布団を運んでくると、囲炉裏を挟んだ向こうに、それを敷こうとし…。

 そうやって背中を向けていたら、不意にガタリと音がして、急いで振り向いた視線の先で、ギンコは着物一枚を体に巻きつけ、壁に縋って立っている。

 彼の足元で、木箱が横倒しになって、ガラスの瓶が数個、床に転がっていた。

「な、何してるんだ、まだ休んでないと…っ」

 思わず大声を出した化野に、一瞬向けられるギンコの目。その眼差しはすぐに逸らされて、ギンコはガクガクと震える体を屈めながら、転がった瓶に手を伸ばしている。

 敷き掛けた布団をそのままにして、化野はギンコの傍に飛んでいく。床に膝を付き、両腕で彼を抱いて支え、それからガラス瓶を一個ずつ拾って、ギンコの手の届くところに並べてやった。

「ギンコ…。何がしたい? 何でも手伝うからそう言ってくれ」
「いや、自分で出来る…。お前にこの上、手間なんか」

 ガラス瓶に伸ばした手は、指の一本一本がガクガク震えているのに、それでもギンコはそんな強がりを言う。

 一人ではまともに立つことも出来ない癖に、化野の体をやんわりと押しのけ、なんの取っ掛かりもない壁に腕を置いた。だが、やはり立ってすぐに膝の力が抜けて、化野の体に縋る羽目になる。

「意地を張るのも、大概にするもんだぞ」

 壁などに頼れないように、化野は無理にギンコの体を自分に向かせた。彼の両腕を自分の肩と背中に回させ、まるで意地悪でもするように、そのまま強引に壁から離れ、怒った声で言い聞かせる。

「一人で出来もしないことをしたがって、派手に転ばれでもしたら、手当ての手間が増えて、かえって迷惑だって言ってんだ。もう一度聞くぞ。お前、何がしたい? どう手伝えばいいんだ。ん?」

 まるで抱き合うような恰好のまま、それでもほんの一瞬、ギンコは抗った。でも、抗えば抗うほど強く捕まえられて、やがてギンコは大人しくなる。そうして彼は、ぽつりと言うのだ。

「羽化しちまった華蜻蛉を…拾ってこの瓶に、入れたい」
「…って、どっかに飛んでるってことか?」

 見えないと判っていても、ついつい化野は天井の辺りを見上げて探す。そんな化野を見て、ギンコはさらに呟いた。

「いや、もう…生きてはないんだ。元々…あいつらは、羽化したらほんの数秒で死んじまう蟲だから」

 視線を逸らしたギンコの、酷く済まなそうな顔。化野は一瞬、呆けたようにまじまじとギンコを眺め、彼の言った言葉を脳裏で繰り返した。

 どういうことだ。
 羽化して飛び立った蟲はもう死んだ。
 でも…それならその蟲はそれで天寿を全うした、ってことか?
 なら、ちゃんと助けられたってことになるのか?

 思わずそのままギンコに質問すると、ギンコは化野の反応を心配しながら、それでもこっくりと頷いて見せる。

「…なんだ。それなら、よかったな、ギンコ。良かったんだろう?」

 戸惑いの消えない顔に、小さく笑みまで浮かべてそう言ってくれる化野を、その時、ギンコは穴の空くほどじっと見て、そうして何故か、酷く切ない気持ちになった。

 それは言葉で表わせない想い。いや、表せたとしても、はっきり自覚してはいけないと、ギンコが思ってしまうような気持ちだった。胸の奥に何かが引っ掛かって、それがもやもやと絡まってしまうようで…。

「…え…っ? どうしたんだ…っ?」

 不意に縋りつかれて、今度は化野が狼狽する。ただでも密着している体が、間に隙間のないほど、ぴったりとくっ付いて、ギンコの心臓の鼓動も、呼吸するたびの緩やかな動きも、すべて伝わって…。

 寄せられた頬が首筋に触れ、彼の熱い息が耳元にかかってきて、その途端、化野はさらに慌て出す。

「あ、ちょっ…。ギ、ギンコ…。は、離…っ…」
「あだしの…?」
「す、すまん、ちょっと、その、一回、は、離れてもい…」

 上擦った声で化野は言って、無理にギンコの体を引き剥がそうとした。けれど、急げばギンコを転ばせてしまうと判っていて、どうしてもその動きは緩慢になって…それで途中で、彼は諦めた。

「ギンコ」
「……?」
「…判るだろう。その…こんなくっ付いてりゃ、さ。同じ男なんだし」

 言われなければ、気付かなかったかも知れないのに。

 きっと、化野の中に、言ってしまいたい想いもあったに違いない。言われた瞬間に気付いて、ギンコも少なからず動揺する。

「何が…? あ…」

 気付いたものの、動けずに、さしたる嫌悪も浮かばず。
 それはそうだ。何しろ、出会った最初から、散々そんな醜態をさらし続けたのは、寧ろギンコの方で。

 化野は赤く染めた顔で、頬が触れるほど間近からギンコを見つめて、それでもやっと聞こえる声でこう言った。

「お前、俺に感謝してるか…? 少しはしてるよな?」

 それが今、こんな時に言う言葉かどうかはさておき、ギンコはこんなにまでしてくれた化野に、溢れるほどの感謝をしている。でも、感謝してるとはっきり言いにくくて、そりゃあ…などと、彼は言葉を濁す。

「そんならさ」
 
 そうして化野はギンコの耳元で、甘く囁くような声で言った。

「唇、くらい、ちょっと…好きにさしてくれるか…?」

 もう化野は、そこまで言ってしまったら、ギンコの返答などロクに欲しがってはいない。いいとも悪いとも、まだ言われていないのに、勝手にその先を言う。

 切なげな、そして心底、自分に困ったような目をして、彼は過剰に言葉を並べ立て…。

「いやその、ちょっと、でいいんだ。目ぇつぶって、二つ三つ数えるくらいの間で。堪えられないくらい嫌だってんなら、途中で押しのけようが突き飛ばそうが構わねぇし。なんならその後、散々、足蹴にされたって、怒りゃしないぞ、俺は。…いや、寧ろ、程ほどで止めてくれ。自分じゃ止まらない気もしててな。だから、その、ギンコ…」

「感謝…、してるよ、化野」

 そして、構わない、と、言ってやる言葉の代わりに、ギンコはそっと、その翡翠色の目を閉じていた。


                              
                                    続










 一気書き、してしまいました! 気分は化野先生で! でも、書き上げてみれば、ありりりり? もっとしっとりとした雰囲気になるはずのシーンが、どうも可愛くてなりません。

 そんなんでいいのか?! お二人さんっっ。…別にいいのかー。笑。

 この後、どうなるのかは…まあ、次に書かれるときまで、よしなに想像してみていて下さいな。惑い星、先生の心境で書いていたら疲れた。ドキドキバクバクで。アハハハハ。

 ところでギンコさん、心のどっかで自分の気持ちを自覚した? しましたよね? うーん、間違いなく、したよね〜? にこにこ。可愛い二人に万歳!←何なんだ。汗。


07/03/10





華 蜻 蛉  hanakagerou 10