華 蜻 蛉 hanakagerou 1
今年の冬は、雪が深い。夕方から降り続いている雪を、明け方までそのままにしておけば、朝が来た時、積もった雪のせいで戸が開かなくなってしまう。
長く引きずるような、細い風の音を聞きながら、化野は名残惜しげに火の傍を離れた。竹ぼうき用意して、木戸に手を掛けたその時、懐かしい声が聞こえてきたのに、化野はそれを錯覚だと思ったのだ。
こりゃ駄目だ。どうやら耳までおかしくなっちったみたいだな。いくらあいつに会いたいからって…。
だが、それは幻聴でも夢でも無かった。戸を叩く音と交互に、化野の名を呼ぶ声がする。か細い声が、酷く弱々しく聞こえてきて、手にしていた竹ぼうきを放り出し、化野は扉を大きく開いた。
「…ギ、ギンコ…っ」
寄り掛かってきた体を、全身で抱きとめると、化野の肩にも足元にも、白い雪の塊が零れる。頭に被っていた布が、殆ど凍りつくようになっていた雪と共にばさりと床に落ちて、青ざめたギンコの顔があらわになった。
「い、いったい…お前、なんで…っ」
何が聞きたいか判らずに化野が問うと、ギンコは彼に抱きとめられたまま、済まなそうに呟く。
「…また転がり込んじまって、悪ぃな、先生」
「別に咎めてなんかない。いいから火にあたれ。いや、その前に手足を…体を見せてくれ。どこか凍傷になりかかってないか?」
もしも凍傷にでもなりかけていたら、すぐに温めるのはまずい。急けばかえって手足を失うかもしれないのだ。
入り口からすぐのタタキに座らせて、化野はギンコの着衣に手を伸ばした。するとギンコは何故か怯えたような顔をして、彼の差し出した手を押し戻す。
「いや。凍傷とか、そういうのは大丈夫だ。怪我もしてない。寒いのと、多少餓えてるのと…、それから…その…。まあ、そんなとこだ」
本当に大丈夫なのかと顔を覗き込み、微妙に目を逸らされて、化野は幾分、ギンコの体から身を離した。会えて嬉しいばっかりに、初めて出会った頃の経緯を失念していたのだ。
強引に行為に及びかけて、酷く嫌がられた、その時のギンコの顔が、記憶の中から手繰り寄せられてきた。
触れられて躊躇する彼の顔が、化野の態度を慎重にさせる。抱き締めて離したくない気持ちよりも、嫌われたく無い思いの方が強くて、彼はギンコをそのまま座らせて、まずは囲炉裏に薪を足した。
「…一人でこっちに上がれるか、手を…貸してもいいが」
「ああ。平気、とは言い難いな。肩、貸してくれ」
ギンコは座ったままで、もどかしげに上着を脱いで、溶けた雪でぐっしょり重いそれを、玄関の隅にそのまま放り出す。本当は全部脱いで、着替えてから上がった方がいいと、化野もギンコも判っていたが、どちらもそうとは言い出さない。
化野はギンコに肩を貸して、囲炉裏の傍に座らせ、それから大急ぎで着替えと、毛布を抱えてきた。
「粥かなんか、食うもんを作ってくるから、その間にそれ全部脱いじまえ。毛布を被るか、俺の着物を着るか…どっちでもいいが、とにかく、お前、着てるものみんな濡れて」
「化野」
矢継ぎ早に言い続ける化野を、ギンコは彼の名前一つ呼んで遮った。目の前で燃える火を、その翡翠色の瞳に映し、途切れがちなその言葉が、炊事場に立とうとした化野を引き止める。
「食うもんも、着替えも…有り難いんだが、それより先に…聞いて、くれるか」
「……着替えるのよりも先にか? 体に良くないぞ」
「頼む…」
化野はもう何も言わず、囲炉裏の傍に自分も腰を落とす。軽く項垂れて、火を見るふりをしながら、彼は斜め前にいるギンコの姿を、眼差しだけで抱いた。
腕に抱きたい。手を伸ばして触れたい。けれどそれは叶わないから、ただ、こっそりと見つめて縋る、もう半年ぶりの、愛しいものの姿に…。
そんなことは知らず、ギンコは口を開く。
「正直、言い難い話だ。来るたびに厄介ばかりだと、お前には厭われそうだが、蟲が…いる…」
この世の何処にでも、蟲はいるのだと彼は言っていた。それを告げた相手に、今更、そんなことを言うギンコ。だから化野には、その意味が、すんなり了解できる。
前もそうだったからだ。脚を怪我して行き倒れ、疲れ切って義眼を外した左目を、蟲の宿り家に貸したまま、彼は化野の家に転がり込んだ。だからまた、ギンコは体の何処かに蟲を潜めているのだろう。
囲炉裏の中で火が揺れるのを、化野は視界の端にぼんやりと意識する。それと同時に、以前の事を思い出していた。
化野はこの家で、友人として医者として、彼を一ヶ月ばかり世話したが、その間の事は恐らく、生涯忘れられない記憶だ。もしも記憶を失うことがあっても、それだけは忘れたくないと、そんなふうにも思う。
「ああ。…それで…?」
軽く笑みさえ浮かべたまま、あまりにも静かに聞き返され、ギンコの方が幾らか面食らったようだった。彼は目を見開き、それから微かに苦笑して、それから酷く小さな声で、曖昧なことを言う。
「いるんだ。…俺の体の中に。その…」
言葉を切って逡巡して、それでもはっきりとは言えない、ギンコのその顔。火が照りかえっているだけではなく、真実、うっすらと染まった彼の白い首筋。
「…そこ…に」
「? …そこ?」
聞き返されて、ギンコはますます首筋を染めた。化野から顔を逸らして、胡坐をかいていた片膝を立て、その片足を、ぐい…と自分の体の方へ引き寄せる。
その場所を隠すような動作に、何となく察しは付くが、まさかと思って、化野は重ねて聞いた。
「そこ、…って?」
「…言わないと、判らないのか、本当に」
怒ったように言い返され、その後、軽く唇を噛む顔が、酷く色っぽく見えて、化野は言葉を無くす。判っていた事だが、ギンコの前では彼は、医者であるだけではいられないのだ。
「そういう患者は診られないか」
怒ったままの感情を、何処かに小さく残したまま、ギンコはそう言った。医者として頼っているんだぞ、と、そう言いたげな言葉だったから、化野は思わず、囲炉裏の傍を立った。
薪はまだ台所の奥に山ほどあるのに、外にしかないと言わんばかりの態度で、彼は雪の吹雪く外へと、いったん出て行くのだった。
続
「序」から、凄く間が空いてしまいましたが、やっとやっとの華蜻蛉「1」がアップできました。まるで狙っていたように、季節は冬に突入! いや、惑い星は北海道在住でしてね。外は雪が積もっているですよ。寒い寒い。
それなのに、雪の写真がなくて、壁紙にメチャメチャ不満!
壁紙の話はさておき、ギンコさんってば、なんか…可愛くないですか? 恥ずかしい言葉を言えずに首筋を染めたりして、化野先生の性欲が、ますますあおられちゃうんで、やめといた方がいいぞ!
ってか、次の「2」では、きっと『治療』シーンを書くと思うので、鼻血出そうに楽しみです。マジで書きながら鼻血垂らすかもしれないので、鼻ティッシュで執筆しようかしら…。
そんなことしてたら、見た目アホですね。でも惑い星は中身もアホですけども。
このストーリーに関する馬鹿な日記アンケートを、このあと今日の日記に書いときます。華蜻蛉「2」を書く、一週間〜十日の間だけのアンケートですので、投票してくれる方はお忘れなくねっ。よろしくです。
06/12/06
