誘い叶う  … イザナイカナウ ・ 8 …




 言い終えて、化野はそっと息を詰める。自分の鼓動の音すら邪魔に思えるくらい、彼は静かに、静かにしている。

 そうして遠くの波音に紛れ、木々のさざめきの下から、やっと聞こえてきたのは、微かなギンコの声だった。声、というより息遣い。息遣い、というより、それは小さな嗚咽。

 胸がずきりと痛んで、化野は何かに縛られたように、そこで身動きが出来なくなってしまう。人というのは本当に、臆病で不器用で、どうしても今、しなければならないことがある時にこそ、こうしてどうにもならなくなるものなのだ。

 それでも、化野はやっと一言だけを言う。

「ギンコ…? 話、聞いててくれたんだな。良かった。もう…これきりかと思ったから」

 化野から少しだけ離れた茂みの中で、太い木の幹に半身を寄り掛からせ、ギンコはひっそりと化野の姿を見ている。ギンコからは化野の背中が見えるけれど、その姿も今は揺れて歪んで見えた。

 返事の返らない言葉を、化野はまだ淡々と続けている。星の無い空に、何かを探すように、木々の向こうの空を見上げ、心を込めて、彼は言い続けた。

「なぁ、このまま行っちまうのか? もう…ここへは来ないのか?」
「…ふ、ぅ…ぅ…」

 その時微かな声が、再び化野の耳に聞こえた。ゆっくりと振り向き、彼は少し離れた木々の影に、ギンコの白い姿を見る。ギンコは幼い子供のように蹲って、木の幹に頭を寄せて、化野の方を向いていた。

「…ギンコ……」

 頬に白く流れているのが涙だと気付いたが、化野は何も言わずに、茂みを手で掻きわけ、ゆっくり、ゆっくりとギンコに近付く。そうして三歩分だけ離れた場所で、化野は彼の隣に腰を下ろした。

 見れば化野は裸足で、闇に白い足首に草か何かで切った傷があって、少し血が滲んでいる。そして枯葉を踏んでいるギンコの足も、同じように裸足だった。木箱も持っていない。

「…あぁ、お前、このまま行っちまう気だったわけじゃ、無いのか? それにしても、裸足で。いや、俺もだが、俺はその…必死だったから」
「必死…? なんで…」

 やっとギンコの声が聞けて、化野は酷く安堵する。跳ね返るように問い掛けられて、微妙な顔で苦笑をし、化野は遠まわしにだが、正直な気持ちを呟いて聞かせた。

「…そりゃ、判るだろう。判らないのか?

 俺はこれでも、おふざけや冗談で、男を抱いたりなんぞする気はないからな。お前ときたら、知り合ってから一年近いのに、会えたのはやっと三度目だろうが。
 毎日家から坂道を眺めては、ただあても無くお前を待ってるのが、どんな気分か、想像くらいしてみてくれ。なんて…そういうのも身勝手だよな。すまん。

 でも、それにしたって、自分が物扱いされてるなんて思わなくてもいいだろう。なんでそんな、哀しいことを…」

酷い疑いを掛けられたというのに、優しい…優しい化野の言葉。きっとそれは嘘や偽りではなく、彼の言うのは真実なのだ。

 何も恐れることなどないのに、要らない不安に縛られていただけなのだと、ギンコにももう判っている。大事な息子と別れて暮らし、病を患い気弱になって、嬉しい知らせにまで怯え、すぐには信じなかったという、一人暮らしの老人と同じように…。

 ギンコの沈黙をどう思ったか。化野は自分の頭に片手を置いて、乱暴にぐしゃぐしゃと髪を乱して、酷く悲しげな目でギンコを斜めに見つめた。

 見つめられて鼓動が騒いで、ギンコはやっと涙の枯れた目で、化野を見つめ返す。翡翠の瞳もこんな暗がりでは、化野の目に色など見えない。白い綺麗な髪だって、濃い灰色をして見えた。

 それでも今、確かにそこに居てくれることが、胸の痛むほど切なく嬉しくて、化野は言葉でギンコを包み、想いで彼の心を溶かしたいと必死になっている。

「あのなぁ、最初に会った時から、お前…なんか俺に対して妙だっただろう…。だから、その、ギンコも俺のことを…って、疑いもせずに思ってたよ。それで色々やっちまって…。嫌だったのなら悪かった。もうしないから、許してくれ」

 そうだ。何もかも化野の見抜いていた通りだ。

 化野に惹かれて、求められたことが幸せだった。されたことも何も嫌じゃぁない。それどころか嬉しくて、嬉し過ぎてこんなに怯えてしまうほどだから、謝られることなど何もない。そして、謝りたいことなら山ほどあるのだ。

「腹、減ってないのか? ギンコ」

 唐突に化野は言った。ギンコのしているのと同じ恰好で、両方の膝こぞうを抱えてその上に頭をのせて、首を傾けてギンコを見る。

「実は貰ってきた握り飯が、丁度二つある。茶でも入れて食べないか? さっき話した婆さんの漬けた梅干し入れて、息子と嫁の採った海苔を巻いた握り飯だから、きっと美味いぞ。なぁ…」

 ギンコは対になるように、そっくり同じ姿勢をしたまま、化野の言葉を聞いて一粒の涙を流した。暗い中でも、頬を伝う涙が一瞬見えて、化野は弾かれたように視線を逸らす。心臓が、どきどきと騒いでいた。

「と、とりあえず、家に戻らないか? 草で切ったらしくて、ちょっと足が痛い。お前も裸足で、怪我してないのか?」

 そう言って彼は立ち上がり、ギンコの目の前を通って山道へと戻る。後ろをついてくる気配を喜んだのに、彼は悲しい事実を思い出して沈んだ声になる。

「あぁ…ギンコは朝には、発つんだったか?」

 だったらもう何時間もない。朝はすぐに来るし、そうして去って行ってしまったら、ギンコが次にここに来てくれる保証などない。足掻くように化野は早口に言った。

「嫌な思いさせたせめてもの償いに、出来ることは何でもするぞ。弁当に何か用意するとか、旅に持ってく薬をくれてやるとか。そんなことくらいで償える筈はないけど。来るたびに、なんかの形で償うから、だから…また来てくれ、な。それとも、もう来ないか…?」

 急に、後をついてきていた足音が止まった。

 化野は恐る恐る振り向いて、少し離れた後ろにぽつんと立っているギンコをみる。ギンコは何か言いかけて口を閉じ、また言いかけて唇を緩め、長い時間を掛けてやっと言うのだ。

「もう一晩、泊まってって…いいか…?」


                                    続
 












 依然としてスランプ中な筈なので、大した内容じゃないってのに、何故か今回、二話同時アップです。頑張ってみました〜。

 そして、今回は安心できる内容ですんで、お見せする私も、なんとなく心が軽かったりします。笑。ここでは多くは語りませんが、人間、愛する人を持つと、変に臆病になるもんなんです。

 うんうん。というわけですよーーー。そして9話もアップしてますので、よかったら引き続きどうぞ♪


07/09/09