誘い叶う … イザナイカナウ ・ 2 …
夕餉は酷く静かだった。炊き立ての飯と、海苔の入った熱い味噌汁。隣家に乞うたらしい煮物。温かく、作ったばかりのもの、というだけでギンコにとっては滅多にない御馳走だ。
それを平らげて、その後で勧められて湯を借りた。
思えば、あれから随分と月日が流れている。でも、ギンコはここにきた時のことを、意識して思い出さないようにしてきた。化野が目の前にいなければ、そうして忘れていることは、そんなに難しいことじゃなかったのだ。
心の表において置けないことを、奥底に沈めておく方法は、こうした生き方をしているうちに、自然と身についたことだった。
見上げれば、窓の外には月の明かり。
耳を澄ませば、遠くからは波音。
一通り体を洗ったあと、ぱしゃり、と水音を鳴らして、彼は手ぬぐいを桶に放る。それをまた拾い上げて、さらにごしごしと体を擦った。擦り過ぎて痛くなったのに気付いて、やっと湯船に浸かる。
忘れたふりをしていたことが、勝手に心の奥から表面へと浮かび上がってきて、ギンコは項垂れ、長い長い息をついた。その息が、凍えるもののそれのように震えているのだ。
のぼる湯気を眺めながら、ただこうして、ぼんやりと思い出しただけで、息が震えるほどの羞恥…動揺…。あの時、何を言った、何をされた? しかもされたことの全部は、自ら「してくれ」と望んだことばかりだ。
信じられない。と、そう思う。今までの生き方全部がひっくり返って、あっという間に溶けて消えてしまいそうな、あの瞬間の熱さ。何も考えられなくなる一瞬。
あんな怖いことを、誰でもがしているのか? 少なくとも、子を生す男も女も、皆がああした行いを知っているという事だろう。なんだか嘘のようだ。いや、嘘じゃないなら夢なのか。
夢じゃなかったら困るのに、それが現実のことだとギンコもわかっている。どうしたらいい? 回想しているだけで、心も体も熱を上げて、溶けてしまいそうな心地がするってのに。
この風呂場、窓は小さいな。などと、ギンコは馬鹿なことを思う。大の男が潜り抜けるのには小さ過ぎる。到底無理だ。それに脱いだ服は扉の外で、靴はさらにその向こうの遠く。逃げられないだろう。
そんなに逃げたいと思うんなら、どうして来たんだ。約束したからだ。何を約束した? また来ると言った。次に来たときは、ゆっくりするとか告げなかったか。告げたような気がする。いいや告げた。それに…。ああ、それに…。
この体を、化野にやると、言わなかった…だろうか…。
「なんて台詞を…っ」
「どうした? のぼせてないか、ギンコ」
「……だ、だ、だいじょ、うぶだっ…」
小さく叫ぶような一人言を言った途端、扉の外から声をかけられて、ギンコは飛び上がりそうになった。実際、体は飛び上がっていなくとも、胸の中で心臓は飛び上がった。
「…? 大丈夫って言ったのか? 大丈夫ならいいが、着替え、ここ置くぞ、俺の着物だけどな」
「あ、う」
「ほんとに大丈夫なのか?」
扉の向こうの声は、穏やかな気遣いに満ちている。ギンコの返事がちゃんと聞こえないせいか、化野は扉の前に膝でもついて、そこらへんの物入れの中身を整えてでもいるらしい。
そうしながら彼は、なんだか嬉しそうに言った。
「なぁ、最初に来た時みたいに、なんか面白い話、聞かせて貰えるよな? 楽しみにしてたんだ、実は」
「あ、それなら…土産もある」
少年のようなキラキラした、化野の目を思い出して、ギンコはほんのちょっと気が楽になった。土産があるのも、今まですっかり忘れていたが本当だった。
「土産?! なんか珍しいもんか?」
「ただで世話んなるのも、ちょっと気になったし、宿代がわりに」
「宿代がどうとかは気にしなくていいが、そりゃ楽しみだ」
その言葉が、聞こえながら遠ざかる。やっと化野は扉の前から退いたらしい。
ギンコは湯船に入りっぱなしだった体で、ふらふらと風呂場を出た。開いた扉の外に、山鳩色の着物と、柳葉色の帯。着方は判らないでもないが、慣れていなくて戸惑う。かと言って、着せてくれなんぞ、言えるはずもなく。
「大丈夫か?」
と、顔を出した化野に、また言われてしまった。
「着られなかったら、まぁ、適当に巻きつけとけ。…うん、似合ってるな、その色。合うと思ってた」
着るのに難儀しているところを、満足げに微笑まれて、ギンコは思わず彼を睨む。それをさらに深く笑んで、化野はさっさと引っ込んでいった。言われた通りに、半分着崩れたような恰好のままで、ギンコはもそもそと出て行く。
行くと、開け放たれた縁側に、月の光が満ちていた。それで部屋の中はどこも薄っすらと銀青色。そこから見える灰色の海には、零れた月の光の粒が輝いている。
珍しいガラスの瓶に入った液体を、同じ色の透き通った盃に、化野はゆっくりと注ぐ。中身は普通の酒だが、徳利と盃は気に入りのものだという。
「綺麗だろう」
「異国のもんか? 高そうだな」
「そうでもない。こういうもんはもうちっと栄えた町に出れば値打ちもあんだろうが。まぁ、こんな田舎にくるような物売りは、価値もよく判らんと売ってるしな」
注がれた酒を飲み干して、月明かりにその盃をかざすと、透き通った器は、丸みを帯びた優しい光に輝いて見えた。酷く綺麗なそれを見て、ギンコは自分の木箱の中にある、化野への土産を思った。
あれは、そりゃあちょっとは珍しいが、そんな綺麗なもんじゃない。こんなもんかと思われるだろうか。落胆した顔をされるだろうか。
それならさっさと見せてしまおう。いらないんなら、渡さずにいればいいだけだ。喜ぶ顔見たさに、わざわざ持ってきた訳じゃなし。
「これだがな」
と、木箱の一番下の奥から、柔紙に包んだものを取り出す。紙を解いて取り出して、そっと化野の反応を見ると、彼はじっとそれを見ていた。
「蟲絡みか」
「刻伸って蟲がいて、木に寄生するんだが」
「トキノベ? その蟲がその中に入ってるのか?」
さっき、扉越しに聞いたのと同じ、キラキラした声で化野は聞き返した。見開いた瞳までが、キラキラと輝いている。なんだか子供のようで、そんな化野が妙に好ましく、可愛い、とまでギンコは思うのだ。
さっきまでの身の置き所の無い気持ちを、一時忘れて、もっとよく石を見せようと、彼は随分と化野の傍に寄った。
続
開きそうで、開けそうで開かないびっくり箱。どーなるどーなる、この次の瞬間。えーいっ、押し倒しちまえーぃっ。なんて…言ってるのは私だけですか? 笑。
蟲、出てきた。抜け殻っていうか、蟲に関わる石ってだけだけれどね。でも出てきてよかったわ♪ 蟲無しの話は、なんとなくちょっと物足りないからさー。
あとで、執筆後感想をプログに書きますね。今回、あんまり進展のない話ですみまっせんっ。
07/06/24
