誘い叶う … イザナイカナウ ・ 1 …
どっか近場で蟲払いの依頼は無いのか。
いや、別に近場でなくともいいが。
所持金が切れた時にしか思わないようなことを、ギンコはこのところずっと思っている。
金が無いわけじゃない。別に仕事がしたくて仕方ないわけでもないのだが、ただ、このまま真っ直ぐにこの道を行くのが、どうにも辛い、それだけのことだった。
まだ春にならないあの日は、この道を逆向きに歩いていた。その時の気持ちを覚えている。去り難く、遠ざかるに辛く、でも振り向くことも出来ずに歩いて、やがては胸の痛みに項垂れて…。
そうして今度は、あの時離れたあの男に、会いに行くところだというのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。
誰か俺を呼び止めてくれ。そうして蟲払いでも何でもいいから、この道を逸れて行ける口実をくれ。近付くのが怖い、会うのが不安だ、そうして離れるのまでもが辛い、そんなあの男のところへ、俺を辿り着かせないでくれ。
どんなに繰り返しそう思っても、彼を呼び止めるものは無かった。背中の木箱に、蟲払いの依頼の文などが、届く様子も無い。そうしてギンコはとうとう、その里へ着いてしまうのだった。
*** *** ***
閉じた木の扉の前に立って、ギンコはその扉の木目を、ただただじっと眺めていた。片腕を持ち上げ、叩こうとするのだが、その手は宙に浮いたまま、ぴくりとも動かずに数分間。
俺は馬鹿か…とギンコは思う。何もそんなに気負うこともない。普通の友のように振る舞えばいいのだ。意識し過ぎているのが駄目なんだ。道々、嫌になるほど考えてきただろう。
まずは普通に「よぉ、近くを通ったんで寄った」とか言えばいい。それから「元気そうだな、化野」と。もしもどれだけいるのかと聞かれたら「行くところがあるから、そう長くはいられない」と、そう言うのが大事だ。
ふう、と短く息をついて、ギンコは握ったこぶしに力を込めた。扉を叩こうとするその手が、別のものを叩いてしまうとは、まさか思うはずも無い。ガラリと重い音がして、扉は横に動いて…。
「いて…っ」
勢いよく開いた引き戸の向こうには、化野が立っていたのだ。扉を叩くはずのギンコの拳は、丁度、化野の顎のあたりにぶつかったのである。
「…すっ、すまん」
その瞬間の化野の顔を、ギンコは随分と、忘れずに覚えていた。
化野は、一瞬何が起こったのか判らずに、叩かれた顎を片手で押さえて、ぼうっ、とギンコの顔を見ていた。それからその顔が、泣き出す寸前の子供のように、くしゃりと歪んで、笑ったのか怒ったのか、どちらとも言えない表情になる。
「ギン…コ…? ギンコなんだな…!」
「…あ…っ…」
よぉ、近くを通ったんで寄った。
元気そうだな。
行くところがある…
…そう長くは、いられない。
脳裏で繰り返してきたそれらの言葉など、一瞬で吹き飛んでいた。背中に背負った木箱ごと、化野の広げた両腕に捕まえられて、言葉を無くした唇は、彼の肩口あたりに埋まってしまう。
熱い身体だと、心のどこかで思った。
なんて速い鼓動だろう、とも思った。
どきどき、どきどき、どきどき…と、うるさく響くその音が、化野のそれだけではなくて、自分の音も混じっていると判った頃、やっと抱擁が緩んで、次にはもっとびっくりするような事になる。
「あ、あだし…の…っ。ん…ッ?!」
なんてことだろう。自分の体なのに、ひとつもいう事を聞かなくて。物を言う口が塞がれる。
その瞬間に塞がれたのは、口だけではなかった。抗う腕も逃げようとする脚も、すべてがすべて動きを止めて、化野のしたいようにされてしまいそうで、それが怖い、とギンコは思った。
「や、や…やめてくれ…ッ」
突き飛ばすことも、後ろへ下がることもせず、ただ叫ぶように言った言葉だけで、化野は腕を解いたのだ。驚いたように見開いた目が、すぐに足元へ逸らされて、彼は短く雄弁な息をつく。
「…悪いな…。あんまり嬉しくて、我を忘れた。もうしない。上がってくれ」
奥へ入って行く化野の、その項垂れた背中。身動き出来ずにそれを見つめて、それからやっと、ギンコはその家の中を眺めた。来るのは三度目になるが、最初に滞在していた時間が長かったからか、あらゆる場所が記憶に残っている。
少々小さめの土間。奥へ入った囲炉裏のある部屋。その更に奥の、珍品で溢れかえった部屋も、相変わらず。障子を開け放った向こうには、二方向に広がる海が見渡せた。
こんなにも気持ちのいい場所だが、落ち着けない自分がいる。
「どうした、ギンコ」
と、化野が奥の部屋から声をかけてくる。湯気の上がる二つの湯飲みを手に持って、彼は何の気後れもする様子がなく、穏やかに笑顔を見せていた。
「言うのが遅れたが…。よく来てくれたな、ギンコ。歓迎するよ。疲れているんだろう。ゆっくり休んでいけ。何か食べたいものはあるか? 用意できるものなら、何でも出してやる」
そうして化野は、自分のうっかりに気付いて笑い、こう付け加えた。
「最初に言うべきだったが。お前、今は怪我とか病とか、無いのか? どこか調子が悪いなら、いくらでも診てやるぞ」
「べ、別に…どこもどうともない。腹は減ってる。まずは茶漬けでも食わしてくれ」
疲れたような息をついて、やっとギンコはその家に足を踏み入れた。最初の抱擁と口づけ以外は、あまりにも普通の「友」の振る舞いに、いっそ体の力が抜ける。
木箱を背から下ろし、出された座布団に腰を落ち着け、台所で化野の立てる物音が、自分の心に染み入っていくのを、ギンコはじっと感じているのだった。
続
なんてぇか、その…びっくり箱? いや、何が出てくるか自分でもわからないので、書きながらそんな感じ。それでも踏み込めるのは、蟲師の二人が好きだから。
それと、まぁ、少しはスランプ脱してきた??
しかしな、センセ、あんた相当、場数踏んでるね? なんかさ、プレイボーイの素質あるよ。ギンコさん、内心、既にメロメロじゃないのか? いきなりチューしといてさぁ。
「あんまり嬉しくて我を忘れた。もうしない」
ってさ、かえってその態度はドキドキするよ。どんなことになるか、惑い星も予測してない新連載。別の意味でもドキドキですが。笑。
ああ、こんなのを読んで下さる優しい方、今後もお付き合いいたたげたら嬉しいです。
07/06/16
