異なるもの  19




「…俺は、ああいうふうにお前にしたくて、結構前から、こらえてたよ」

 俯いて、ギンコは膝の上でこぶしを作った自分の手を見ている。そのこぶしも肩も、髪すら、小さく震えているのが、化野には判った。

「今も、こらえてるしな」

 びくり、と、ギンコの体が震えた。その身の内に、またあの熱が灯ってくる。もう身の内に洞居火はいない。やはりこの熱は、蟲のせいではないのだ。そうだったら、どれだけほっとするか判らないものを。

 震えるばかりで、声も言葉もないギンコを見て、化野は短く一つ、息を吐く。あまりに真っ直ぐ口にし過ぎたか、と思う。今度は長く息を吐いて、口調を変えて彼は言った。

「塗り薬を、多めに調合しといてやる。ゆっくり、気をつけて、休みながら行くってんなら、もう大丈夫だ。そのくらいまでは治ってるからな」

 穏やかな顔に、淋しげな表情を浮かべて、化野はもう一度長い長い息を吐く。

「行くか? ギンコ。だろうなぁ…。こんなことを考えてるやつの傍じゃあ、安心して養生もできねぇだろう。せめて明日の朝にしろな。なんやかや、旅の用意もしといてやるよ」

 畳の上に、化野の足がすれる音がする。彼はギンコのために、布団を一つだけ敷いてから部屋を出て行って、もう夜のうちには戻ってこなかった。広い部屋に敷かれた布団が、ほてりの冷めたギンコの体に、ひんやりと冷たかった。

 ギンコは頭まで布団の中にもぐって、脳裏に響く化野の声を聞く。肌に残る化野の温もりを感じる。時に、火傷するほど熱く感じた、あの手のひらや指の感触を、切ないような思いで、ただ記憶の中に繰り返した。

 行くか? ギンコ…
 その悲しげな声が、最後に何度も耳の奥に反響する。

 行くな…と、そういう意味で言ってくれるのか? 化野。
 でも、言わないでくれ、どうか。俺はこの生き方を、変えるわけにはいかないのだ。一つところにい続けるということが、あまりに馴染み難く、どんなに望んでも遥かに遠い。

 ギンコはもぐったままで寝返りを打つ。布団の中の空間。こんな狭い中でも、微かに揺らめいて光を放つ蟲がいる。薄く開いた瞳に、その矮小な光を映しながら、暫くの間、眠ることもできなかった。




 がらり、と大きな音を立てて、外からの扉が開いた。ギンコのいる部屋から、一つ、部屋を抜け、その先にある台所の扉から、化野が顔を出していた。粗紙に包んだ野菜を片腕に、もう一方の手には湯気の立つ鍋を提げている。

「山菜の煮物を分けてもらった。滋養があるし、こりゃあ美味いぞ」

 変に明るい顔をして、どかどかと上がってくると、板を敷いてその鍋を置き、すぐに飯の支度を整える。

「沖でとれる貝の出汁が入ってて、これが一味も二味も違う。海沿いの村でなきゃ、こういうのは食えんから、たっぷり食ってけ、ギンコ。こういうの、余所で食ったことねぇだろう?」
「ああ、多分、初めて食うよ。美味そうな匂いだな」

 部屋の隅に、きちんと畳まれた布団。ずっと借りていた化野の着物も、その上に置かれている。ギンコの傍らには、彼の唯一の持ち物の木箱。前に村人に譲って貰った、服の一揃えを身に付けて…。

 ギンコは化野の言葉に受け答えしながら、その明る過ぎる顔をそっと盗み見て、どこか遠くを見るような顔をしている。 

「好きなだけ食べろ。沢山あるし…その…。旅にゃ、体力がいるだろ。なあ…ギンコ…」

 明るかった化野の言葉が、不意に揺らめく。彼はギンコに横顔を見せて、でかい器に煮物をよそった。差し向かいで食べる間、化野は何度も何度も、ギンコに話しかける。

 いろんなとこを旅してたんだろ? どんなの食べてきた?
 土地が変われば、言葉も随分と違うらしいな?
 ここよりずっと暑いとこも行ったか?
 雪ばかりの場所ではどのくらい冬が長いんだ?

 他愛の無い問い。ギンコはそれに答えたり、半端にはぐらかしたりして静かに笑う。やがて化野からの問いが、ほんの少し変わった。

 南へ行くのか? それとも北へか? 
 来た道を戻るんじゃないなら、海沿いに行くのか?
 あそこに見える山を越えてくのか? 

 ギンコは、化野から視線を逸らし、食べ終えて空にした器を置き、箸をその上にのせる。

「…歩き出してから、ゆっくり考えるさ。なんか食いもん持たしてくれんだろ? だったら暫くは、どこの村にも寄らずに、人の無い道をいくのもいい。そう…するかな」

 日持ちのするものも、ありそうならここで調達したいし、と言葉を続けるギンコが、荷物の方へ手を伸ばした。それを見た化野が、愕然とした顔をして口を閉ざす。

 引き止めてどうにかなる事じゃない。判っているからああして昨日の夜は、すぐに離れた。今朝はこうして明るく振る舞って、見っとも無い未練など、見せない気でいた。それなのに。

「もう……発つ、か? ギンコ…」
「…ああ、下手に、時を伸ばすと、余計」

 言いかけた言葉を止めて、ギンコは木箱を引き寄せる。その抽斗の奥から何か紙の入れ物を取り出し、そこからさらに何かを、手のひらの上に転がす。

 それは碧色をした、綺麗な球。思わず身を乗り出して、食い入るように見つめる化野を笑って、ギンコは言った。

「俺の眼だ…。義眼だよ」

 ギンコは化野の見ている前で、軽く顔を俯けて、その綺麗な宝石のような色をした義眼を、左にあいた空洞に埋め込む。

「空腹と怪我で酷く弱ってて、こういう作り物を眼に入れとくのが、何でか酷く辛くてな、一時だけと思って外して…。それであの蟲に入られちまった訳だが」

 その偽者の瞳は美しかったが、ギンコの本当の瞳と比べると、あまりに粗末に見える。当然だが、それは作られた眼球で、命の通うものではないのだ。

 
                                       続










 これで終わるかと思いきや、次回でラストとなりそうです。終わりのシーンって、つい長引いちゃうのは、私が下手だからです。だらだらしててゴメンねー。

 別れを目前にした二人、それぞれの心境は、やっぱり結構難しいです。でもねー。二人抱き合って泣き崩れる、とかさ、そういうんじゃないってのは判るんだよなー。あは。

 こういうのは、大人の関係だな〜、とか、思いますね。でも凄い切なさを感じているんですよ、きっと二人とも。体の一部が砂のように崩れて、そこに寒い風が入り込むように、辛いと思う。

 あーあ、会って一ヶ月ちょっとくらいだというのに、こんな…。つまりこの二人は、運命の相手ってことですか。今後もこうした想いが薄れる事はなく、きっと強くなるばかりなのでね。辛いですよっっ。遠恋は〜。

 只今、開催中の「9/9」日記投票にて、この次に書く話について票を入れてもらってますが、票数は、思ったより多いけど、でも凄く多くは無いかなーと思ってます。

 あと一週間、このまま票を募集してます。まだその投票日記を読んでない方は、日記を見に行ってみてね。


06/09/24