異なるもの  17




 もう止められる筈がない。誰に問われるわけでもないのに、化野はそう思った。思いながら、目を閉じたギンコの顔を見つめた。銀の髪が乱れて、白い頬に掛かっている。その頬を、化野は指先でそっとなぞる。

 気を、失っているのか…?と、そう思った一瞬の事だった。ギンコは不意に両方の目を開いて、その深緑の瞳で化野を見たのだ。ただし、左の目は黒い空洞だった。

 引き込まれるように、化野はその黒い洞を見つめた。真っ暗で底無しに見えるその眼窩の奥に、ゆらりと、何か蒼いものが見えた。

 あの火だ。ギンコの目の中に吸い込まれていくのを一度だけ見た、あの蒼い焔…! その焔は眼窩の奥で、ゆっくりと光を強めるようにも見える。

 不思議な…美しい光景。目玉のあるべき洞で、こんなふうに、常に在らざる生き物を飼うのか? この男は。化野はただ、息を飲むような心地で、彼の名を呼ぶ。

「ギンコ」

 そんな光景を目の当たりにしてさえ、尚も化野はギンコの頬に触れようとして、激しい拒絶に会った。

「…やめろ! 触るな、化野っ」

 肩を押さえつけた腕を払われる。抵抗する腕を、逃げる足首を捕らえようと伸ばした手が空を切る。ギンコは必死で畳の上を這い、這いながら剥がれた着物を体に纏い、這いずって縁側の方へと逃げた。

 必死の顔はほの紅く上気して、その体は震えている。逃げようとしながら、ギンコは着物を絡めた己の肌を抱くようにして、酷く辛そうに身を捩った。

 立てた膝がガクガクと震え、進もうと伸ばした手は、畳の縁に爪を立てる。喉を反らし、そして次の一瞬には、項垂れて額を床に付け、熱い息と喘ぎを吐くギンコ。

「ぅ…く、あぁ…。はぁ…ぁ…」

 縁側に辿り着いたギンコの体に、銀色の月明かりが注がれている。彼のその姿はまるで、何か見えないものに犯されているようで、化野は彼を追う事も、気遣うことすら思い付かずにいたのだ。

 ただ、目を奪われる。その妖しいほどの姿態と、見てはいけないもののような、あまりに扇情的な仕草に。

「あ、化野…」

 擦れた喘ぎで、ギンコは化野の名前を呼ぶ。名を呼ばれ、我に返った化野が、ギンコに近付こうとすると、弱々しい震える声が続く。

「来るな。俺に…寄らないでくれ。な…ぁ、ちっとの間、目ぇ…逸らしてて、欲し…。ひ…っぁ、ぁあ…ッ」

 冷たく冷えた縁側の床に、四肢を付いて這った体。ギンコは開け放ってある障子に、震える両手でしがみ付いて、無理にその身を起こす。そうして立ち上がろうとするが、どうしてもそうはできずに、彼は膝立ちになる。

 その身に絡みつかせた着物を、自由の効かない手で剥いで、その体を、月の明かりの下に曝したのだ。

 見るなと言われた。目を逸らしていて欲しいと。だがそうするにはあまりに、その時のギンコの姿態は普通でなさ過ぎた。

 両の腕にだけ、着物を纏いつかせ、背中も、胸も、腹も、脚も、注ぐ月明かりの下で露にして。震える息を吐きながら、ギンコはゆっくりと喉を反らす。見開いた目が、真っ直ぐに月を見上げ、疲れ切った顔に苦痛の汗を滲ませ…。

「…お前の望む温い寝床も、焼けるほどの熱も…たっぷりやった。…もう満足だろ。さあ、最後にお前の欲しかった…月の明かりだ。行きたいとこへ、登ってけよ」

 その月に捧げる贄のように、ギンコは快楽に染まった肌を、夜の中に曝していた。銀色の髪も白い肌も、月の明かりを浴びて震えて、まるで怯えているように見えた。

 視線の自由を奪い尽くされ、身動きも出来ずに見ている化野は、その時、酷く乾いてしまった喉から、かすれた声を絞り出す。

「あ、あ…」

 光が彼を包んでいたのだ。それは蒼い焔であり、白く滲む霧であり、白銀の淡い煌めきだった。ギンコの全身から滲み出すように、その色彩は広がって、彼を包み込むように揺れ、そして、ゆるゆるとギンコから離れいく。

 ギンコから離れると、その色の中から蒼い色が消え、白が消えて、それは銀色の球体になり、ゆらゆら、ゆらゆらと心細げに揺らめきながら、空へと登っていった。

「…もっと、高く登ってけ。登ってって、高い空にだけ住む『月揺』になれ。いつか…命を終えるその時まで、下りてこなくて済むように、もっと、もっと…登ってけよ」

 化野はその銀色に透ける頼りなげな球体が、ずっと高い空に登っていくのを、ギンコと同じに首を反らして見つめていた。そいつは呼び寄せられているように、天空に輝く月を目指して、まだゆるゆると上昇していく。

 それは、暗い黒い空の上で、まるで月が二つになったような、幻想的な風景。ギンコが放ったそれは、月と同じほどの高みで、ゆっくりと姿を薄れさせ、いつの間にか、もう見えない…。

「あれは…なんだったんだ? ギンコ」

 空を見たままで化野が言うと、返事は返らず、代わりにどさりと音がした。肌を曝したそのままで、ギンコはそこに倒れていたのだった。




 体がいう事を効かない。
 ギンコは目を閉じたままで、そう思った。

 まあ、あれだけ長いこと、体を蟲に住まわせてたんだから、それも仕方の無い事だ。疲れているんなら、暫く休めばいずれ治る。

 体は動かないが、気分は悪くはなかった。布団に寝かされているのか、肌の下には柔らかなものがある。日でも差しているのだろうか。体が…特に背中と肩が、心地よい温かさで包まれているように思う。

 と、唇に熱いものが触れた。その熱いものが喉に流れてきて、こくり…と飲み下す。口の端からそれか零れて、無意識に手の甲で拭おうと、片手を動かした。

 その手首が、誰かに捕らえられる。自分の手じゃない別の手が、喉に零れた雫を辿るように拭く。

「…ぅん…っ」

 目を開くと、そこには化野の顔があった。すぐにはそれが判らないくらい間近に。


                                         続 











 十七話目でございます。Hでエロくてヤバかった十六話は、自分でびっくりしてしまいましたが、どうもまだ、その尾を若干引いている気がします。でもまぁ、そんな…また先生が「ガバッ」っといく事はないと…思うですよ。

 蟲、出てきました。次回、ギンコさんに説明して貰いますが、『月揺』は『つくゆら』と読みます。月に向ってゆらゆらと揺れて登っていくので、そう命名。幼生は『洞居火』です。

 それはさておき、先生ったらっ。ギンコさんにめろめろですね。その外見や性格にも、蟲と生きるその生き方にも、強烈に惹かれるんでしょうな。

 実は惑い星は書いている時、ほぼ完璧に化野ビジョンでギンコさんを見るので、ものすっごい、彼が色っぽいですよ。ぐっはっ!とか思うくらい、凄くキレイで色っぽいの。

 そういえば、今回、化野先生、うっかりするとギンコさんをあのまま強姦しそうでしたよね。あっははは。気持ち判るっっ!←わかっていいのか?

 おいっ。そんな馬鹿なことを言いつつ、十七話、お届けしました。


06/08/06