異なるもの  10




 化野は大声を出した自分を諫めるように、片手で髪を掻き乱し、項垂れたままで呟く。

「まあ、そんな嫌だってんなら、手伝わなくていい。いいが、荷車だけは貸してくれ。この通りだ…っ」

 ぺこりと頭を下げ、返事も聞かずに、化野は一人で荷車を引いた。何も乗せていないというのに、坂を引いて登るというだけで、疲れた腕には少々辛い。それでも、もう一度ギンコを負ぶい、荷物ごと家まで連れ帰るよりはマシな筈だ。

 額に浮かんだ汗を感じながら、見上げた坂の上に、ギンコの姿。言い付けた通りに、ただじっと待っている姿が、酷く遠いように思えた。

 俺ゃあ、大人気ないか? ああ、ああ、お前は大人だよ、ギンコ。そんな痛む脚を引きずって、村人の好奇の目の中を、恨みも腹立ちもせずに、淡々と歩いたんだろう。俺にはとても、真似ができない。

 ギンコの前まで、やっと辿り着いて、化野はドサリとそこに腰を下ろす。額の汗は髪を濡らして、その頬に伝い、首筋まで流れていた。

  あんなに大声を出したのだ。ギンコにも聞こえていただろう。薄情な村人達の態度だって、目の当たりにさせてしまった。化野の判断が悪かったばっかりに…。

 ギンコがどんな顔をしているか、見るのが怖くて、いつまでもぐずぐずと項垂れていたら、不意に優しい声が聞こえてくる。

「熱いねぇ、化野先生。赤の他人の俺なんかに、そうやって自分の情を切り崩して与えても、特に礼になるようなもんは持ってねぇが…。あ、そうでもないか、珍品好きのあんただ。なんか気に入るもんがあるかもしんねぇよな」

 村人に、自分がなんと言われていたのか、聞こえていなかったはずはないだろうに、ギンコの声は穏やかだ。疲れと落胆、それに小さな安堵も手伝って、ただ首だけを持ち上げ、化野は力なく笑って見せた。

 荷車は、松の木の一本に脇をくっつけ、車輪の二つ、それぞれの前後に、石を置いて輪留めにする。それからまずはギンコの荷物を乗せ、それからギンコ自身に肩を貸して、荷車の上に座らせた。

 輪留めを外し、それから荷車の引き手を両手で握り、力を込めて前に引く。ガタリ、と頼りなく荷車が揺らいだ。眼前の下り坂が、実際よりも遥かに急勾配に見えてくる。

 医者を目指して勉学ばかりしていた化野は、こんなに無理な荷運びなど、今までした事もないのだ。乗せたギンコとギンコの荷物と、荷車自体の重さは、軽く化野を上回る。その上に、この砂利だらけの下りの坂道。

 不覚にも、自信の無さから腕が震えた。しくじればどうなるか、想像するのも怖い。

「大丈夫か」
「…大丈夫じゃなくても、ここは何とかするしかあるまい」

 余所者を…ギンコの事を、誰も気に掛けないというのなら、村人全員の分を俺が面倒みるのだと、化野は額の汗を拭えもせずに、もう一度前のめりに力を込める。

 急坂の始まりに、二つの車輪が掛かり、ついで後ろの二つの車輪が掛かって、それまでの数倍の重みが化野の腕に乗せられてくるのだ。恐れが、その両手の先にまで押し寄せて、指が汗に濡れた。

「ああ、駄目だよ、先生。見てらんねぇや」
 その時、呆れたような声と共に、ガシリと荷車が支えられた。
「放っといてちゃ、うちの荷車、壊されかねないやね。こんなボロでも野良仕事にゃ欠かせない商売道具なんだからさぁ。しょうがないから手伝ってやるよ」
 
 逆側にもしっかりと、支える手が副えられて、軋むばかりだった荷車は、ゆっくりと坂を下り始める。

「…え、いいのか、手伝ってもらって」

 難なく道を下りながら、呆けたように化野が尋ねる。夫婦はバツが悪そうにそっぽを向いて、黙って脚を速めた。ギンコは余所者からの礼の言葉など、欲しがっては貰えないと判った上で、ただ、静かな笑みを浮かべている。

 坂を下まで下り終えた頃、いつの間にか、道行きの人数が増えていた。荷車の後ろを子供がついて歩いているのだ。昨日、化野の家に、行き倒れがいると告げに来た子供らのうちの一人だった。

 荷車を押しながら、それに気付いた女が子供をどやしつける。
「昼餉の支度はどうしたんだい、お前に任せてきた筈じゃないか」
「もうとうに出来たよぉ」

 子供はそう言い、小さく駆けて荷車に近付く。

「ね、余所もんさん、こないだの握り飯、どうだった? うちの母ちゃんの梅干し、美味かった?」
「…ああ、美味かったよ。何しろ数日ぶりの飯だったし、そうでなくともこんな美味い握り飯は、中々食えねぇって思ったさ。漬物と、熱い茶もあったしな」
「美味しかったって! 良かったね、母ちゃん」

 子供とギンコのやり取りを、聞いていた化野の手のひらが、荷車の引き手からツルリと滑った。立ち止まりそうになりながら、懸命に足に力を込め、化野は後ろを振り向く。

 子供の笑顔と、ギンコの静かな微笑みから、夫婦は二人して顔を逸らし横を向いて、言い訳めいたことを言った。

「なんだって? まあ、罰当たりな余所者だねぇ! せっかくうちらが、峠のお地蔵さんに供えた供物を、全部盗って食っちまったって? わたしたちゃ、あんたにやるつもりなんか、これっぽっちも…」

 ギンコは遠ざかる峠の上を、振り仰ぎながら呟く。
「…本当に、涙の出るほど、美味い飯でね。あの優しい地蔵さんにゃ、幾ら感謝しても足りないくらいだ」
「へ、へんな余所者だよ、まったくっ」

 峠の地蔵と言えば、村へ一歩入った途端の場所だ。そこに置かれた握り飯に、漬物に、入れたばかりの熱い茶。

 振り向いた化野の視線の先で、村の夫婦は意地を張り続けている。余所者に「食べなさい」と差し出す事はなくても、歩いては転ぶその先の地蔵に、供え物を置いたのは、この夫婦からのぶっきら棒で不器用な優しさ…。

 汗が目に入って痛いのだなどと、無言で自分に言い訳しながら、目に滲むものを、必死で引っ込めようとしながら歩いた。夫婦からは、返事がろくに返らないのも気にせず、ギンコが呟いている声が、化野の耳に響く。

「いい村ですな、ここは」
 いつもは当たり前の潮の香りが、変に心地よくて、化野はいつしか、小さく微笑んでいた。ギンコも、そして荷車の持ち主達も、その同じ風を頬に感じているに違いなかった。

                                                                  

 ギンコを担ぐようにして、部屋の中に入れてくれ、布団の上に座らせるまでしてから、夫婦は子供を連れて帰っていった。膝に響かないように気を付けながら、ギンコは布団の上に仰向けになり、家の奥の方へ視線を送った。

 繰り返し彼らに礼を言い、帰っていく三つの背中を見送ってから、化野は奥へと入っていってしまったのだ。そのあと中々出てこない。耳を澄ませると、台所の方から微かな水の音。

 水音が途切れると、化野が奥から姿を見せた。大きな盆の上に、薬と湯のみ、そして水を張った桶が乗せられている。

「腹も減ったが、まずは薬だ。ああ、その前に診察な」

 嫌だと言う訳にもいかず、ギンコは布団の上に起き上がった。けれど、伸ばしてくる化野の手を見た途端、知らないうちに体が逃げかかる。布団の上に両腕を付いて、仰向けのまま這いずるようにして、ギンコは後ずさった。
 
 
                                      続












 ラストの十余行は、故意に今回に入れてみた。前回も今回も、全然ギンコさんと化野センセの「触れ合い」がないので、私も詰まらないし、読んでくれている方も、詰まらないかなと思って。次回こそ、ちょっと、そこらへん(どこらへんだ?)の進展が見られると思いますよ。

 え? 化野センセ知ってたんだー。みたいな、ね。ふふふ。

 それで、どうでしょう、村人さん。シャイってーか、まあ、有り勝ちでしょう。こんな閉鎖的空間だと、周りに合わせて生きることが、結構大切なんだと思う。だから、周りの顔色を見てさ。今までの村のあり方に照らしてさ。それで当てはまらない行動は、たとえ人助けでも、しない。

 誰が悪い訳ではない。人も他の生き物も、皆、生きていく為に、一生懸命なばかりに、外から見れば、冷たく映ることもある…のかなと。ギンコさんは、自分を害する蟲にだって、優しいからさ。人にもそうかな、と思うのですよね。

 今回のコメントは少々マジです。珍しいですね。


06/07/08