異なるもの  9




 風がギンコの髪を吹き乱す。坂を下りていった化野の姿は、もうどこにも見えず、彼は深く息をついて、木箱の引き出しから紙巻煙草を引っ張り出した。

 なんて正直なことだろう。化野の姿が見えなくなった途端に、どうしようもなかったその熱は、嘘のように薄れていくのだ。

 潮を含んだ風は少し湿っているが、雨が降らなかったのが幸いしている。煙草もマッチも湿ってはいず、望み通りに火が灯った。丁度四日ぶりになるだろうか。煙が体に染みて、酷く心地がいい。

 辺りを見渡すと、海の青も木々の緑も、染み入るほどに彩やかだ。ギンコの吐き出す白い煙は、ゆらりと風に揺れては、掻き消されるように見えなくなる。

 風景に煙、そして彼にしか見えない、奇妙な生き物たち。音もなく彼に纏いつこうとするそれを、指先を空に遊ばせて、ギンコはやんわりと追い払う。

 俺に集まったって、別にいい事なんざ、ありゃしねぇってのに…。思っても意味のないことを、ついつい口の中で呟いて、苦笑した途端のことだった。

「…ん、い…ってッ」

 いきなり左目が痛んだ。ギンコは体を前に折り曲げるようにして、片手で目を覆い、忌々しげに地面で煙草を揉み消してしまう。煙が消えると、痛みは緩々と引いていく。

「あー…そういや、煙を嫌うんだったか」

 誰もいないのに、ギンコは誰かに話し掛けた。目を覆った手を、そっと緩めて、閉じている自分の目蓋を、指先で軽く撫でる。目の奥で何かが蠢いていた。

「一本吸う間くらい、堪えられねぇかよ。こっちはお前の住処に眼窩を貸してんだぞ。…ったく」

 化野が、あの時見てしまった青い炎は、蟲の一種なのだ。蟲は今、ギンコの眼窩の奥に、仮住まいしている。

 扱いさえ誤らなければ、特に危険な蟲ではないし、特に害がない以上、ギンコにその蟲を追い払う意思はない。いなくなるまで、そのままにしておくだけのことだ。煙草が吸えなことだけが、正直、少し辛い。

 火を消され、地面で揉みくちゃになった煙草を、酷く惜しそうに眺めて、溜息を一つ。それからギンコは、急に難しい顔をして、木箱の引き出しの奥を探った。

 大量の紙の束を取り出し、巻物を取り出し、その中の一つを解いて、中身を丹念に確かめる。びっしりと書かれた文字を指で、最初から最後まで辿って…。

「…まさかな。そんな習性、聞いたことねぇし」

 苦笑しながら、ギンコは松の幹に寄り掛かった。この蟲のせいじゃないのなら、何故、こんなことになる? 相手が女ならまだしも、男を相手に妙な気を起こすなど、今まで一度だってなかったのだ。

 それとも、自分でも気付かないうちに、体に何か別の蟲が巣食っていて、それでこんな気分になっているのか?また、化野が傍に戻れば…あの手で肌に触れられれば…同じ思いをすることになるのだろう。

 膝はまだ痛む。旅が続けられるようになるまで、どのくらいかかるのか。それまでギンコは、この村から出られないのだ。つまり、化野の傍にいなければならないという事だ。

 眉間に皺を寄せながら、彼の手は無意識に、新たな煙草を探っている。気が付いて木箱を脇に押しやり、ギンコは空を仰ぐ。見上げた空は、やけに青い。悩むのが馬鹿馬鹿しくなるほどに。

「なるようにしか、ならん…か」

 その時、何やら賑やかにガラゴロと音が聞こえてきた。座ったままで、出来うる限り身を起こすと、峠の急な坂道を、登ってくる人影が見える。

 先を歩いているのは化野だろう。そしてその後ろに、女が一人、男が一人。そして音を鳴らしているのは、三人が引いたり押したりしている荷車だった。風に乗って、声が切れ切れに聞こえてくる。

「野良仕事の最中に、悪いな」
「いやいや、先生には世話になってっからよ。春にゃうちの子供の足ぃ治してもらったし、去年は、ほら、かぁさんの風邪を良くしてくれたし」
「そうだよ、せんせ、荷車くらい、いつだって貸すよ。で、運びたいものってのは、何処なんだい?」

 そんな会話を交わしながら、三人と荷車が近付いてくる。化野が一度足を止め、背中を伸ばすようにしながら、ギンコの方を見上げた。それを見た二人の村人も、つられるように顔をあげて…。

 まだ距離はあるというのに、その場の空気が、不意に張り詰めたのが、ギンコにも判った。村人は急に荷車を押すのをやめ、棒立ちになって顔を険しくする。

「……余所者が、いる」

 まるで、憎い相手でも見つけたような響き。声をひそめもせずに、言い交わす声が刺々しい。

「なんだい、ありゃ。あの髪の色。年寄りでもないのに、あんな…」
「先生、荷運びは今日でなくちゃ駄目なのかい?」

 化野も仕方なく足を止めて、二人に向き直った。予想はしていたのだ。村の中に、余所から誰かが入ってくる事を、村人は極端に嫌っている。それが、少しでも普通と違う姿をしているとあっては、余計に拒みたくなるのだろう。

 だが、ここで引いては何にもならないのだ。人手は無理でも、荷車だけは借りなくては。

「実は、家に運びたいものってのは、あれなんだ。俺の患者で…」
「…え?」

 不意に、引いている荷車の重みが増した。後ろから押していた手が離れている。

「患者って、あれ、村のもんじゃあねぇだろう」
「ああ、そうだ。俺は、この村の人間じゃなきゃ診ねぇなんて、言った覚えはないぞ」
「とは言ってもな。それに、余所のもんに、うちの荷車貸すのは、ちょっと。あの髪の白いの、なんかの疫病とかじゃ…」

 二人は怪訝な顔をしてギンコの方を眺め、今にも荷車を引いて帰ってしまいそうだ。その訝しげな顔と、逃げ腰な態度に、化野は段々腹が立ってくる。

 胸の奥に、不快なものが溜まって、その溜まったものを吐き散らしたくなるのだ。峠で待つギンコは、坂の登り途中で突然立ち止まった自分達の様子を、どんな気持ちで見ているだろう。

「疫病? 馬鹿言うな。髪が白いがどうした。余所者だからって、お前ら村人みんな、なんでそんな顔をする? 同じ人間だぞ! 余所から来たから、何か悪いってのか?」
「あ、いや…そりゃ、そうだけど」

 彼がそんなふうに声を荒立てるのを見て、二人は酷く驚いたようだった。この村で開業した、穏やかで静かで、愛想が良い医者。若いが腕は信用できるし、もう一年も、村のものの病や怪我を診てくれている。
それでも、そんな彼を見たのは初めてだった。


                                       続











 ここらへん、ちょっと詰まらない展開かな〜とか、自分で書いてて思ったりしてね。でもヤるだけ小説じゃないんで、省くわけにいかんぞ、と。

 化野センセ、結構、熱い男ですねぇ。言っちゃってから「あちゃ、言っちまった…」とか、後悔する可愛さもあるんで、そこんとこ好きです。やはりギンコさんの方が大人! こういうのを、へタレ攻いうんでしょうか?

 そんな彼を、ギンコさんがどんな気持ちで見ているのか、化野センセにどんな言葉を掛けるのか、そこが楽しみです。ええっ? 惑い星が楽しみにしてるのぉ? 誰が書くのよ? ハイ、私でっせー。

 作者は第一読者。それがモットー?なのです。続きを書きながら読むのが楽しみです。とってもね。


06/07/01