異なるもの 8
ギンコは唇を噛んで、息が乱れるのを堪えている。だが、彼はこんなことを堪える術など、知っている筈もない。化野の肩に置いた指に、無意識に力が入って、体が強張って、仕舞いには指先が震えて…。
「なんともない。別に、膝は痛かない…」
「…ならなんで、そんなに。…っと!」
肩にしがみ付いてるんだ? 聞きかけた化野の声が途切れる。ギンコが化野の背中から胸を離すように、重みを後ろにかけたのだ、不意に重心がずれて、化野の足は、坂道を一歩後ろに下がってしまう。
「危ね…っ。おいこらギンコ、しっかり掴まってろ。妙なふうに動くな。なんなんだ、いきなり、お前」
ギンコは尋ねられても答えない。そんな事を口に出すくらいなら、この場で放り出された方がマシだ。
今すぐに、ここで地面に下して貰える理由を、頭の中でぐるぐると考えて、答えが出ずに、ただごくりと息を飲む。化野の肩にかかる指に、さらに力が篭って指先が痛いほどだ。
「ぅ…あぁ…。あ、化野…っ」
「ん? なんだ…?」
零れてしまった声を誤魔化して、化野の名前を呼び、続く言葉が思いつかなくてギンコは唇を噛む。固く掴まっているのとは逆の、化野の肩に、彼は顎をよせて、やっと言った。
「ほら、見えるだろ。あ、あそこだ。あの、左端から二本目の黒松。ここに俺を下して、ちょっと、あそこまで行っ…。ん…ッ」
下せと言ったのに、化野はギンコの言葉を聞いていなかった。彼が望んだのとは逆に、ギンコの両膝にかかる腕に力を込め、その体を自分の体に押し付けるように、しっかりと負ぶい直す。
体と体の間に、ギンコが無理に作っていた僅かな隙間が、その一瞬でなくなって、二人の体はぴったりと触れ合う。
化野の腕とギンコの膝裏。ギンコの内腿と化野の脇腹。そして化野の背中とギンコの胸が重なった。もっとも、触れ合わせたくない場所も当然のように強く触れ合って…。
「…おい、ギンコ、そんなにしがみ付かなくとも、落としやしねぇから、心配するなよ」
そんな事を言いながら、化野は目的の松の木まで、足を速めて歩き出す。その間、十数えるか数えないかの時間が、ギンコには嘘のように長い。
「下せ…っ」
松の前に立った途端、ギンコは化野の背中の上で身をもがかせた。急いで地面に膝を付いて、ゆっくり下そうとするのだが、ギンコがもがくので手が滑る。最後には傍らにあった松の木に、彼の背中を押し付けて下すような格好になってしまった。
「なん…っなんだ、おまえ…っ」
怒った声を出しながら、ギンコの膝を気遣って、化野は彼の傍らに身を屈める。さっきもそうされたように、着物の裾に化野の手が伸びて、ギンコは痛む足を地について下がった。
「いい。触るな。うぅ…っ」
「そらみろ、痛むんだろう。見せろ」
「は、離してくれ。それより、俺の荷物を先に見てきてくれんか。心配なんだ、本当に」
物言いたげな顔をして、化野は暫しギンコの顔を眺めていた。地に膝を付いた格好のまま、下からじっと見つめられて、ギンコは視線だけを横に逸らす。頬が熱くて、心臓を壊してしまいそうな、自分の鼓動が聞こえた。
「さっきから様子が変だったのも、荷物の心配してたせいか」
「……ああ」
そんな訳はない。ないが、そう思って貰えるのなら、これほど有り難い事はなかった。ずるずると地面に座り込んで、両足を前に投げ出したギンコに、溜息を一つ聞かせてから、化野は松の木の裏側へと回る。
彼はすぐに、ギンコの旅荷物を目の前に置いた。
「あったぞ、これでいいんだな?」
「ああ、そうだ。こっちへ寄越してくれ…」
投げ出した脚の間に、その木箱を置いて、特に大事なもの、外へ出たらまずいものから順に、抽斗を開けて確かめる。一通り全て見終えると、ギンコは顔を上げて化野を見た。
化野は少し離れた場所で潮風を浴び、彼には斜め背中を向けて立っている。
「すまん、恩にきる」
そのままの格好で出来る限り、ちゃんと頭を下げてから、ギンコはもう一度、化野の姿を眺めた。礼の言葉には、照れ笑いのようなものを浮かべ、ひらひらと片手を振ってみせ、化野はちょっと困ったような笑いを作った。
「感謝の言葉は、無事に俺の家に戻れた時に、珍しい蟲の話を山ほどそえて、もう一回言って貰うかな」
彼はギンコの傍らにある、意外と重い木箱を指差し、それからギンコを指差し、自分の髪をくしゃりと掻き混ぜる。
「それをお前が背負って、そのお前を、また俺が負ぶって…か? そいつはちっと、無理かもな。あんまり荷物が多過ぎる。正直、帰りのことまでは、全く考えてなかった」
天気はよくて、雨など降りそうもない。。風もあまり無くて、潮の香りがただ心地よい。でも黙って座っていても、家に戻れるわけではないのだ。困ったことに、そろそろ体が空腹を訴え、喉が水を欲している。
もう一度、短く溜息をつくと、化野は大股でギンコの傍まで来て屈み、着物の上から軽く彼の膝を押さえた。彼の手の温度が、布越しにまた伝わってきた頃、化野は勢いよく立ち上がって呟く。
「半分ほど戻って、またここへ帰ってくる。大人しく待ってろよ、ギンコ。間違っても自分で立つな。転んでまた捻ったら、治す俺が面倒だからな」
言い終えるか終えないかのうちに、化野はさっき歩いて登った坂を、急ぎ足で下り出したのだ。そんな彼に声を掛ける間くらいあったが、本音を言えば、少し傍から離れていて欲しかった。
遠ざかる背中から目を逸らして、ギンコは凸凹した松の幹に背中で寄り掛かる。温もりや鼓動の聞こえてこない、その幹の触れ心地に、ギンコは本気でほっとしていたのだった。
続
ああ、8話目で到達する筈のストーリーに、届きませんでした…。ギンコさんが荷物扱いされる予定だったんですけどねぇ。
さて、化野センセ、ギンコさんに加えることの、ギンコさんの木箱(私が思うに結構重い)を、両方運ぶのは無理!と判断しました。正しい判断だと思います。腰を痛めたら、大変よねぇ。腰。大事な腰。
はっ、また変な執筆後コメントになってきてますー。自嘲…いえ自重。
次回ストーリーは、ギンコさんが順調に荷物扱いされつつ、ちょっと真面目に展開に。ちょっとね、ちょっと。化野センセ、村の子供三人、そしてギンコさん。
それ以外の登場人物が出てきてくれると思います。ちょいキャラだけど。つまり村人A、Bですね。化野センセの住む村の人々も、ちょいキャラだけど、大事です。たぶん…。
では、蟲、アップも本日出来たので、これから日記を書こうかな。
06/06/21
