異なるもの  3




「く、うぅ…っ」

 化野の手のひらの下で、ギンコの膝が跳ね上がった。強く押さえ込まれて、ゆっくりと膝の関節を曲げられ、伸ばされる。ギンコは色の無い髪を乱して、布団の上で喉を反らした。

 化野は黙ったままで、ちらりとギンコの顔を見るが、その青ざめた顔と、痛みにきつく閉ざされた目蓋を見て、すぐに視線をそらしてしまう。さぞ、痛いだろう。治療の為といえど、その激痛は他に比べるものがない。

 浅く繰り返される息遣いを聞きながら、化野は軽く奥歯を噛んだ。

 治療を始める前、治るまでしばらくかかる、と化野の言った言葉に、ギンコが返した言葉がある。彼は何もない空を眺めて、それから薄く笑い、化野の方を見もせずに言ったのだ。

…そう、ここに長くは居たくねぇんだがな、正直なところ…。

 そんな一言で、深い意味など判らない。だが、それほど嫌か、と化野は思った。村人の情の無さを欠片も責めない癖に、この家からは出て行きたいと言う。そんなに言うなら、多少無茶でも急ぎすぎでも、今すぐ治療をしてやろうかと。

 布団の上で剥き出しのギンコの膝。その紫色に腫れ上がった膝に、腕を伸ばして触れる。触れただけで、無意識に身を強張らせるものを、化野は知らぬふりで膝を動かさせたのだ。

 膝は曲がる。だが、伸ばさせる時に、若干の違和感がある。関節が、どうずれたかが判ると、化野は一度ギンコの体から離れた。

「容赦、ねぇな」

 ぽつりと零れたギンコの声の、微かな震え。彼の額に浮かんだ汗が、こめかみの方へ流れていく。

「急ぐんだろ。なら、多少の荒療治は我慢しろ」

 冷たいくらいの言い方で言うと、化野は両手の指を組み合わせ、二、三度、指の関節を鳴らした。それから、傍らにあった手ぬぐいを折って、ギンコへと差し出す。

「舌、噛んじまわないように、これに歯ぁ立てとけ。なまじな痛みじゃねぇぞ。…今から、ずれた関節を戻す」
「…そりゃ、急いで立ち去りたいがね」

 一瞬遅れで返事をしてから、ギンコは白い手ぬぐいに歯を立てる。その手ぬぐいの白に負けないほど、歯を食い縛った彼の唇が白くなる。

 ギンコの大腿に、化野は自分の片膝を上げ、伸し掛かるように体の重みを添えて、腫れ上がった膝に両手を掛けた。躊躇いも無く、そのまま一気に力を込め、その瞬間に手の下で、ゴキリ…と…。

「ん、ぐ…、ぅあぁ…ッ!」

 押さえ込まれたままで、痙攣するように暴れたギンコの体が、くぐもった喘ぎと共に静かになる。 外れた関節を元に戻す苦痛は、生半可なものではないのだ。

 化野の目の前で、ギンコの意識は無い。もうやってしまったことだというのに、自己嫌悪の念が激しく、化野は自分の手で、自分の髪を掴み、掻き毟るように項垂れた。容赦がないと言うよりも、ただ苛立ちをぶつけたような…。

 そういえば、怪我と知れた後も、化膿止めや痛み止めも、何も飲ませていなかった。腕は信用してくれていい、と自分の言った言葉に、今更胸が悪くなる。

 化野はギンコの頭の下に手を入れ、首を軽く持ち上げながら、彼の口から、噛んでいた手ぬぐいを外してやった。

 それから化野は、意識の無いギンコの傍らで、無駄に慌てて薬を用意し、冷えた水で布を絞って膝を冷やしてやり、じっと彼が目覚めるのを待つ。だんだんと夕の時刻になり、風が冷たいので戸を締め、しばし後には、夕闇が濃くなってランプに火を入れる。

 部屋が薄暗くなると、ギンコの髪の白さが目立ってきて、閉じた目蓋に、化野の視線が吸い寄せられた。あの目が、見たいと思う。深い海のような、緑の色した瞳が。

 だが、化野は首を激しく左右に振って、その思いを心の奥へと押しやった。奥の部屋から、古い医学書を何冊も持ち出し、ギンコの枕辺に積み上げ、難しい顔で読み始める。やがて、紙と筆まで持ってきて、真剣に何かを書き留め出した。

 ランプの周りだけを残して、部屋が闇に包まれた頃、不意に化野はそのことに気付く。

「な…っ、いつから気ぃ付いてたんだ、お前っ」

 ランプの細い明かりでも、綺麗に澄んだ緑の目が、化野の姿を薄く映していたのだ。驚愕されて、ギンコは言いよどみながら呟いた。

「いつって…。あんたが…その本積み上げた時かな。こんだけ近くで見てんのに、気付かねぇって方が、驚いてんだが?」

 そんな筈はない。化野は何度もギンコの顔を覗き込んだし、膝に乗せた布も、水で絞りなおして数回取り替えた。気付いているなら、声を掛けて当たり前だろう。それとも…。

「まあ…あんまり熱心なんでな、中断させんのも悪いかと、あんたがこっち見た時は目ぇ閉じた」

 それを聞いた化野はバツが悪そうに、片手で額を押さえ、そうやって顔の半分を隠したままで、ギンコに背中を向けてしまう。彼は用意してあった薬を乱雑に脇へ退けながら、ぶつぶつと言っていた。

「あー、この処方は駄目だ。この煎じ薬と併用すんなら、こっちの方がいい。それ…と、痛み止めは、これ…。それから…」

 ぱらぱらと書物を捲り直す化野の背に、ぽつりと呟く声が聞こえる。

「化野先生。俺は…一つところに居たくても、そうはできん体質でね。…あんた、良い医者だよ。そういう訳で、数ヶ月しか居られんが、その間、よろしく頼む」

 がちゃん、と薬皿が、別の皿の上に落ちて割れた。混ざって欲しくない薬が、畳の上で混ざり合うのを気にしながら、化野は自分の鼓動を聞いていた。

 ギンコが、ここに居たくないのだと思ったのだ。居たくないから、数日程度で無理に出て行くのかと。

「化野でいい。治療費の取れん患者は患者じゃないからな。これから、友人として扱うぞ。文句はない…な」

 割れた破片を広い集め、わざと投げ出すように言いながら、化野が振り向いた時、伏せ目がちにしていたギンコの、その左目が一瞬だけ見えたのだ。

 両目とも緑だと思っていた左目の場所には、確かに、深い闇があった。見ている前で、ギンコは困ったように笑いを深める。幾らか急いで上げた片手で、彼はその長い前髪を、左目の上に掛からせるのだった。













 最初の方の治療シーンは、私的にはお気に入りです。アヤしくないですか? え、無い? そーか。私、サドっぽいの好きだからかなぁ。呻き声とか、色っぽい想像しちゃうんだけど。そんな事を考えているのは、惑い星と化野センセの深層心理だけかい。

 何か進展したとすれば、化野センセは自分がギンコさんを気に入ってるのを判っていて、ギンコさんも、どうやら化野センセに引き止められてるって事を判っている、という事かな。

 だってね。センセ、結構はっきりしてるんだもの。すぐ去っていきそうなギンコさんに苛々したり、自分の態度に自己嫌悪して、自分のできる事すべてで、一生懸命ギンコさんに尽くそうとしたり。

 人がいいってのもあるかもね。そしてそんなセンセを利用しちゃったりする、世渡り上手なギンコさんなのかもしれません。酷いな、惚れた弱みだよ、それって。

 
06/05/04






 
.