浮 翔 夜 〜 fu sho u ya 前編 〜
化野の目の前に、一巻の巻物がある。書簡か、それとも資料の類か、もっと別のものか、それは判らない。彼も中を見たわけじゃないからだ。
畳の上に転がったそれを、指先で軽くつついて揺らして、化野はただ軽く首を傾ける。
ほんの五日ほど前まで、ギンコはここにいた。いつものように数日寝泊りして、また旅に発ったのだが、その後にこの見覚えのない巻物が残されていたのだ。
気付いたのは、ギンコが発って三日も過ぎてからのこと。忘れていって、それで平気なものなのかどうかも判らないが、追って行って渡すには日が経ち過ぎている。今頃、彼は、何処にいるのだろう。
それで今日もただ溜息をつきながら、いたずらに、化野はそれを眺めているのだった。と、その時、縁側の方から声がした。聞き覚えのある声。巻物を棚に載せて、化野はそちらを振り向く。
「おおぃ、先生、いるかい? ちょっと腕を切っちまってさぁ」
「ああ、なんだ、キヨじゃないか」
行商で回ってきては、旅に携帯する薬を買っていく、余所の村の男だ。ちょくちょく来るから、村の皆にも覚えがいいし、ギンコとも確か、一度ここで会ったことがあるくらいだ。
包帯だの化膿止めだのを持って、化野は縁側へと出て行く。すると差し出されたキヨの腕には、既に真新しい布が巻かれてあった。
「器用だな。これ、自分でしたのか?」
「ギンコさんだよ。ここに来る前にあって、怪我した俺の腕を見てさ、気にしてくれてな。いいとこあるよな、あの人」
「ギンコに会ったのか」
キヨは治療を受けながら、にこにこ笑ってこう続ける。
「ああ、そこの山に入ってすぐに、狭いが深い谷があるだろう。その谷の入り口のところに、野宿してるふうだったよ」
「ギ、ギンコが?! 谷の傍にいたって? で、野宿? 何でだ。ここ発って、もう五日だぞ? そんなならなんでここに泊まらない?」
そこまで知らないけどよ、と、キヨは急いで腰を浮かせた。急に大声を出した化野を、びっくりしたように振り向きながら、それでも手当ての礼を言って、村長の家の方へ下りていく。
キヨは村長の家に数日、寝泊りして、余所で仕入れてきた道具を、村のものに売っていくのだ。だが、化野はもう、キヨの事など考えてはいなかった。
巻物の表面を手で撫でながら、化野はギンコの姿を思い浮かべた。つい数日前までここにいたのに、それでも会いたくて、村の向こうに見える西の山の方角を、彼は黙って眺めるのだった。
*** *** ***
化野はどうしているだろう。
ぼんやりと空を見上げながら、ギンコはそう思っていた。それから彼は自分の想いに苦笑する。あの家を発ってから、まだ一週間も過ぎてはいないのに、もう随分と会っていないような、この胸の痛み…。
きっとまだ、こんなに傍にいるからそう思うんだろう。少し歩いて高台に登れば、化野の住む村の明かりが、遠くにぼんやりと見える。
ギンコはもう一度空を見上げて、今度は真顔で、見え始めた星の位置を確かめた。ここは深い谷底だから、見える空は酷く小さくて、薄闇の中にも、眩しいほどに星は光っている。
深夜とは違う、淡い暗がり。影もまだ青灰色に薄くて、空は夕焼けの色を失いながら、段々と深い青に沈んでいく。
「もうじきだ…」
一人そう言うと、ギンコは傍らの木箱から、古びた徳利を取り出す。星を見ながら蓋を開けて、手のひらに数滴、金色の雫を落とし、それを片手から、草の茂った大地へと、静かに滴らせる。
「そら、目を覚ませ、蟲ども。眠ってたら、またこの『夜』を逃しちまうんだぞ」
ギンコは光酒の染みた片手で、ゆっくりと自分の周りの地面を撫でるようにして、それから静かに立ち上がる。
金色の滴り。そこから広がっていく見えない金色の匂い。それが降り注いだ地面が、不意にざわりと、ざわめいたのだ。そうして、そこから音のないざわめきが広がっていく。ギンコのいる場所を中心にして、四方に、凄まじい勢いで…。
それらは草を撫で、原を走り、谷すらも駆け上がる。そのざわめきを追うように、今度は淡い金色の光が、見る間に谷底を埋め尽くした。
なんて見事な、なんて美しく不思議な光景。見れば大地を埋める光は、一つずつが皆、緩く螺旋を巻いて揺れる、短い紐のような蟲なのだ。
眩しそうに少し目を細めて、それらを見渡しながらギンコは言う。
「目覚めたばかりだってのに、おまえら、随分と寝起きがいいな。これならもう、あとは自分達で翔べるだろ」
光酒の徳利にしっかりと蓋をして、ギンコはそれを腰に下げ、蟲たちと共に、狭い空を見上げた。
左右から迫る山の影に挟まれて、空がこんなにも細く狭いから、星も月も、通り過ぎるのはほんのひと時。ゆっくりと五つ、息をつくほどの間。
もうすぐ、待ち侘びた光が、ほんの一瞬だけ谷の中いっぱいに注がれるのだ。ギンコも一心に空を見上げる。
きっと蟲達は、気が遠くなるほどにそれを待っていた。月が横切るのが一瞬で、彼らはいつからかそれに気付けずに、長いことここで眠り続けていたのだろう。
「…ああ、来るぞ、月だ」
息を止めて、ギンコは目を見開いた。まるで彼自身も蟲の一部になったように、両腕を広げて…。
そうしてついに、月が、やってくる。
ギンコの周りの蟲が、一斉に翔び立った。草を揺らめかせ、小さな螺旋の、金色の体をいっぱいに伸ばして。蟲達が、ギンコの服を、脚を、腕をかすめていく。指先を、頬を、髪をかすめていく。彼を置いて、空へと翔び去っていく…。
まるで、置き去りにされるようだ。
薄く笑って、ギンコは思った。自分が彼らの仲間ででもあるように、寂しさが心に満ちていた。胸に大きな穴があくように、残された身が寒かった。光を失くした谷底で、このまま朽ちてしまいそう…。
もう一度見上げると、月の去った空は、それでも星が瞬いていて美しい。座り込んで、蟲煙草を取り出そうと、懐に手を入れようとした途端、ギンコは後ろから抱き締められていた。
「…な…っ!」
「行くな」
抱き締められて、煙草が手から落ちる。条件反射でそれを拾おうと手を伸ばすが、ギンコの指は煙草には届かなかった。
続
お待たせしました! これが投票で一位を獲得した「背中から急に抱いて、愛の囁き」ですっ。えっ、待ってない? しかも全然、愛、囁いてない?
リクしてくださった方もいたのに、そんな感じには、どうにもなってなくてすみません。へこ。
あ、愛の囁きはね、後半なんですーっ。てな訳で、本日もまた二話同時アップしました。続きをどうぞ、楽しんでくださいませね。
07/01/13