浮 翔 夜 〜 fu sho u ya 後編 〜
「行くな、ギンコ…っ」
「…あ、化野…? お前、何言って…。いや、それよか、なんでここにっ?」
ギンコの胸はドキドキと、ヤケに高鳴っていた。抱きすくめられて、地面に座ったままで、身動き一つ出来ない。化野はギンコの声が聞こえているのかいないのか、同じ言葉ばかりを繰り返す。
「行くな、行くな…どこへも…」
「……行くなったって、なぁ」
ギンコが言うと、化野の腕の力は、ますます強くなった。痛みを感じるほどの抱擁だったけれど、ギンコはそれを無理に解こうとは思わない。
胸が激しく打つのと同時に、化野の温もりが、その心の優しさが、体に染みていくように思える。あんなに寒かった胸が、空洞の開いたようだった胸が、見る間に埋められていく。行くな、行くなと囁くその声で。
「行くな…行くなよ。頼むから、行くな」
「頼むったって、俺も…実際、困るし…。なんか…行くな以外、言えなくなっちまったのか?」
「…いく、な…ギ…ン…」
心をこんなにも縛られたままで、それでもギンコはいつも通りの声で、飄々と化野に返事をする。前を見据えたままの碧の瞳は、暗がりを映したまま、本当は滲む涙に濡れていた。
化野は暫く黙り込んで、それから少しだけ腕を緩め、ギンコの肩に伏せていた顔を上げる。ギンコの耳元に唇を寄せ、彼は小声で、酷く聞き取りにくくかすれた声で、ぽつりと言ったのだ。
こんなにもこの谷が静かでなければ、きっと誰にも聞こえない、そんな声だった。
「…遠くに、旅しててもいいから…どうか、ギンコ…お前、俺の傍に…。俺と、同じところに、いてくれよ…」
どう言っていいかも判らずに、化野はそう呟いたのだ。
谷の底を飛び立っていく蟲の姿も何も、殆ど見えてはいないのに、彼らがギンコを、どこか遠く、手の届かない、戻ってもこれない場所に、連れ去っていくように、化野には見えたから。
だから…ギンコ…
どうか、この世にいてくれ
蟲の世ではなく、人の住む世に
知らぬ間に、いつしか、ふと…消えてしまうような
そんな遠い世界には、行ってしまわないでくれ…
化野のくれた言葉を、心に胸に染み込ませながら、ギンコは項垂れて、ほろりと一滴の涙を零した。一粒の雫で濡れた頬が乾くまで、ギンコはじっと化野に抱かれている。
そうして彼は無理に手を伸ばして、落ちた煙草を拾い、それに火を灯して、白い煙をゆっくりと吐き出した。
「遠くていいから、傍にいろって…なぁ…。お前も、大概、無理を言うよ、化野」
言い返されて、化野も自分の言葉の矛盾に気付く。やっとギンコの体から腕を解き、もそもそと隣に腰を下ろすと、化野は顔も上げられずに、腰に吊っていたランプに火を入れた。
「お、俺は…」
「浮翔夜ってんだ」
「…は…?」
唐突に耳慣れない事を言われて、化野は思わず顔を上げる。彼の目は少し赤くて、それに気付いたギンコは、無理に目を逸らして、真っ暗な谷を見渡した。自分の目も、幾らか赤くなっているのかもしれない。
「ふしょうや。蟲の名前だ。浮いて翔ぶ夜、と書く。さっき、少し見えたろう。あんだけ数がいて、こんなに暗きゃ、谷が一面光って、その光が空に翔ぶのが見えなかったか?」
「あ、ああ、見えた。綺麗だった…」
「よかったな、見られて」
ギンコは不意に立ち上がって、尻の草や土を払い落とし、化野の手からランプを奪って、急な斜面を登り始める。
「で、本当に何しに来たんだ?」
「俺は、お前の忘れてったこの巻物を渡そうと…。行商のキヨに、お前がここにいると聞いて」
「…ああ、それな。それを態々? 中、見てないのか…? 別に良かったのに、ただの覚書だし。何なら、お前が使っちゃどうだ? 筆のためし書きとか。殆ど使ってないから、白紙同然だぞ。」
そんなんでこんな夜に、こんなところまで来たのかと、もっと言われる気がしていたのに、ギンコはそれ以上何も言わなかった。
足場の悪い場所で、先を行くギンコに手を差し伸べられて、その温かな手を握っているうち、化野の中の不安も、少しずつ薄れて消えていく。
恥ずかしいことを言ってしまった。あれは勿論、本心だが、傍に居られず旅に出て行くギンコには、仕方のない事情もあるのだと、再三聞かされていたのだし。それにあんな、妙な願いを。
谷から出て、村に入る大路まで連れて来られて、そこで化野はギンコに別れを言われる。
「じゃあ、ここからなら一人で帰れるだろ。子供じゃないんだしな、化野先生」
「馬鹿にしてんのか」
「いやいや、してないさ」
あっさりと向けられた背中を、化野は暫く眺めていた。彼のランプから火を移した灯りを、ギンコは片手で前にかざして、ゆっくりと歩いていく。
その灯りが見えなくなるまで、化野はずっとそこに立っていた。
*** *** ***
化野が家に戻った頃、そろそろ東の空が明るくなってくるのが見えていた。流石に疲れ切っていて、外出着の着物を脱ぎ捨てると、化野は布団を適当に敷いて潜り込む。
明け方に眠ったから当然なのだが、朝はすぐにやって来た。放り出したままだった着物を拾うと、そこからギンコの巻物が転がり落ちる。結んだ紐が解けて、紙は畳の上に、半分ほど長く広がっていた。
ギンコの字で、何かが書いてあり、隅の方には蟲らしき絵もある。片眼鏡を目にはめて、その場に胡坐を書き、化野はそれを読み始めるのだが、えらく半端に終わっていて、かえって気になってしょうがない。
「ええい…置いていくんなら、最後まで書いたやつにして欲しいもんだな。これじゃ気になって夜も眠れん。こりゃあ、ほんとにためし書きにでも使うしかないな」
見ると何やら、その巻物は巻き方が乱れている。持ち運んでいるうちに、緩んでしまったのかと、化野は一度それを全部解いた。そうして端から少し巻き直し始めて、やっとそれに気付く。
「あ、まだ何か…」
端の方に、小さく何かが書いてあるのだ。
『次に』
『来る時は』
『お前に』
そうして少し間があって、その先には、何かをぐしゃぐしゃと書き潰したような、真っ黒な墨の跡。
「…なんて書いたんだ? お前って、俺のことか?」
日に透かそうとしたり、顔と紙をくっ付けるようにして、目を凝らしたりするのだが、黒いばかりで何が書いてあったのか判らない。顔をしかめて、さらに少し解くと、また僅かばかりの文字。
化野は、それに飛びつくようにして読んだが、読むなり、がっかりしたように、それを床に放り出す。
『山菜の入った粥を、食わして貰いたい』
「食うもんの話か。なんだ…」
山菜の粥と言えば、最初にあいつが転がり込んできた時に、出してやった、あれだろうか。
でも、あの山菜は、夏にしか取れない。その話もいつだったかした覚えがある。今は春先、夏が終わるまでには、またここに来る、と、そう告げられた気がして、化野は一人で嬉しそうに笑った。
ああ、そうだ…。確かにギンコは、今、自分がこうして生きるのと、同じ世に生きている。どんなに遠くにいようとも、戻ってきては、話をしてくれ、出されるものを食い、そうして彼に触れ、触れさせてくれるのだから。
大事そうに巻物を巻き直し、埃が掛からないように布に包み、化野はそれを、寝床の傍の棚に収めた。愛しそうに、その巻物を手のひらで一撫でしてから、化野は顔を洗いに裏へと出て行く。
墨で書き潰されたギンコの言葉も、その巻物の中にひっそり眠っている。いつか再び言葉にされ、化野へと告げられるのを待ちながら…。
終
いかがでしたか? 化野先生の「愛の囁き」。なんとなく、愛の囁きっぽくないんですが、そのへんは…なんとかご容赦ください。愛してる、とかって、言わない気がするんです、うちの二人。
好きだ、くらいなら、そのうち言うので、首をろくろっ首にしてお待ち頂ければ…なんて。ざけんな? いやあの、すいません。でも、ギンコさんから、何か…ぐぐっと、歩み寄ろうとした形跡が…ねっ。
また日記で色々と喋るので、よかったら、日記も覗いてやってください。ちょっと疲れたので、少しストレッチして休んだら、日記を書きますねー。
07/01/13
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