「あー…。どこだ…? ここ」

 間抜けな事を、葉柱は言った。海岸線なのは判る。それに大体の場所くらい判るが、来た事はなかった。道路縁のガードレールから、一段さがった場所に、ずうっと続いてる波打ち際。遠くには、岬が見える。

 その時、後ろから彼の胸に絡んでいたヒル魔の腕が、するりと解けて、背中に重なってた胸が離れた。恐る恐る振り向くと、少し身を仰け反らせて、彼は空を仰ぎ、片手で髪を掻き上げてる。

 何を考えてるんのか、さっぱり読めねぇキレイな顔…。細い金髪…。その髪が、触るとすげぇ柔らかくって、気持ちいいってこと、俺はもう知ってる。

 葉柱が、無理に首を捻じ曲げた恰好で、まともにヒル魔を見ていたら、煩そうに睨まれた。

「なぁ…怒んねぇのかよ。怒鳴られんのかと…」
「怒鳴られてぇの?」

 ニヤリと笑う唇。ヒル魔はまた体を寄せて、胸を葉柱の背中に重ねて、手を伸ばしてきた。

「髪、ぐしゃぐしゃだな、ハバシラ」
「え、そ…そぉかよ」

 ひでぇ…。このタイミングで「ハバシラ」って呼ぶのか? 滅多に呼ばねぇ癖に、こんなにくっついて、髪なんか触ってきながら、今、言うのかよ? こいつ、ぜってぇ、判っててやってんだ。

「海…。う、海、見てかね?」

 やっとの思いで言うと、ヒル魔はさっさとバイクから降りてった。俺の事なんか、忘れたみたいな顔で、ガードレールの方へ近付いていく。それを跨いで、下に飛び降りて、ところどころ岩の転がった砂浜を歩いて行ってしまう。

 呼んだって振り向きゃしねぇんだろ、どうせ。

 だから葉柱も、黙ってバイクを降りて追い掛けた。波打ち際をヒル魔は歩いていく。その斜め後ろを、四歩分くらい離れて、葉柱がついていく。波は引いたり寄せたりを繰り返し、白い泡を揺らしていた。

 別に、デートみたいなのを想像してたわけじゃないのに、その斜め後姿を見ている葉柱は、だんだん焦れたような気分になる。

 まるで飼い主の後を追い掛ける、犬みてぇじゃねぇか。

「…お、おい、ヒル」

 呼びかけた言葉が止まったのは、ヒル魔がいきなり立ち止まって、自分の足元を見下ろしたから。両方のポケットに手を突っ込んだままで、彼は海から遠ざかるように、急に歩く方向を変えた。

「ヒル魔…っ」

 ヒル魔は足早に道路の方に進んで、その先の岩場の、岩の間を縫うように歩く。葉柱が自分に話しかけているのに、返事もしない。

 彼らの進む方向には、見上げるような岩壁。その所々に裂けたような巨大な凹凸がある。一見、底の浅い洞窟みたいなところに、ヒル魔は黙って入って行った。

「お前、どこ、入ってってんだよ、ワケ判んね」

 そこには光は届いているが、あまり風は当たらない。ヒル魔は岩壁の出っ張りの一つに腰掛けて屈むと、忌々しげな顔をして、唐突に左足の靴を脱いだ。

 逆さまに振った靴の中から、砂混じりの水と、細かい石かなんかが零れる。その素足の、丁度、土踏まずのあたりに、血が滲んで…。

「おいっ、それ、怪我してんじゃねぇか…!」
「…るっせぇな」
「るせぇじゃねーだろ。見せろ」

 葉柱はヒル魔のすぐ目の前に膝をついて、精一杯姿勢を低くして、ヒル魔の足に顔を寄せた。ヒル魔は全然、協力的じゃなくて、見ようとすると砂の上に足を下そうとする。

「見せろって!」
「触んな」

 嫌がられても、葉柱は怯まなかった。それに、そうきつく拒絶された訳じゃなく、触ってもいいんじゃないかと、心のどこかで思っていたのかもしれない。だから強引に足首を掴んで、上に持ち上げて、ヒル魔の足の裏を覗き込む。

 怪我の一つもさせたくねぇって、俺があんなに思ってんのに、コレかよ、こいつ。

「ちっと切れてんな。あーこれだ、ガラスの欠片」

 足元に転がった、薄水色の破片を摘み上げる。さっき、ヒル魔の靴の中から零れたそれを、葉柱は遠くへ放り投げる。砂の上に直に座ったまま、彼は丁寧に、ヒル魔の足の砂を払った。

 よくよく足の裏を覗き込むと、一センチちょっとの傷の中に、いくつか見える砂の粒。

 このまんまにしといたら、傷が膿んじまう…。

 そう思ったから、葉柱はさらに低く頭を屈めた。ヒル魔の左足をしっかり掴んで離さずに、その傷に口を付け、舌先で傷を舐めてやる。一瞬だけ、ヒル魔は足を引っ込めようとしたが、葉柱は手を離さなかったし、付けた口も外さない。

「気色悪ぃこと、してんじゃねーよ」
「………」

 舌先に、砂粒の感触がなくなってから、やっと葉柱は傷から口を離し、自分のポケットを探ってハンカチを取り出す。それでヒル魔の足の傷を縛ってやる。白地に、深緑色のカメレオンの刺繍のハンカチ。

「趣味、悪ぃな、てめぇ」

 気色悪ぃだの、趣味悪ぃだの、散々な言われようだが、そんなのは全然、葉柱の耳に入っていない。

 砂は落としたし、傷はもう汚れてないし、ちゃんと傷口を綺麗な布で縛ったし、大丈夫だろ、と葉柱は安堵の息を吐く。そうして顔を上げて、ヒル魔と目が合った途端…。

 彼は今頃になって、自分がした事に気付いて、思わず息を飲んだ。

 今、俺、こいつに何した?
 命令されてもいねぇのに、膝付いて?
 足の汚れキレイにしてやって
 それから…舐めて…?

 気色悪ぃ…って、そりゃ言われるわ。
 やんねぇだろ、フツー。

 顎が落ちたような顔をして、葉柱はいったい、どれだけヒル魔の顔を見ていたろう。ヒル魔の方はと言えば、大していつもと変わらない顔に、ほんの僅か、呆気に取られたみたいな表情を浮かべてる。
 
「おもしれぇ」
「…は?」
「おもしれぇ顔だっつってんだよ」

 それで、ヒル魔がいきなり言った言葉がコレ。どこも面白そうじゃない様子で、むしろいつもより無愛想な顔をして。

 ヒル魔は岩に手を付いて、片足でひょろりと立ち上がり、砂の上に転がった靴を、怪我した左の足先で引っ掛ける。そのままはこうとするが、巻いてあるハンカチが邪魔で、靴に足が入らない。

 うざったそうに舌打ちを一つ。左は靴に足先だけを突っ込んで、右は普通にはいて、ヒル魔はひょこひょこ、危ない足取りで歩いていこうとしている。



                                    続









 執筆後コメント・・・・。実はこの後の、三話目、つまりラストも同日アップなので、そちらにコメント書こうかな。ラストはくさいですよっっ、とだけ言っちゃおう。滝汗。


06/10/29
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お前は海の波のよう  2