朧、夏祭り 2
ここは…どこだったろう…。
と、葉柱は不思議な事を思ったのだ。いつもと違う、粋な浴衣の恰好で、素足に冷たい下駄履きで、いつの間に差したものか、帯の後ろには祭の一文字を書いた、大きなウチワ。
ここは神社の境内で。その神社は今、夏の祭りの最中で。それだけは判るが、判るのは本当にただそれだけ。
なんだか、体や年はそのまんまで、場所だけが彼の子供の頃に戻ってしまった気がした。振り向くと、どこからか、ガキの頃の自分の笑う声と、大好きだった祖母ちゃんの優しい声が、聞こえてきそうに思える。
そうして何処からか、これも酷く懐かしい音色で、涼やかな硝子の風鈴の音…。
「そ、そうだ…ヒル魔…。確かにさっき…」
カラコロと下駄を鳴らして人ごみの中を進むと、そこだけ酷く優しい灯りで、小さな小さな出店が見えた。右はタコ焼き屋、左は輪投げの店で、その二つに挟まれて、酷く窮屈そうに、金魚すくい屋が店を開いている。
客は七つか八つくらいの男の子と、三つかそこらの女の子だけ。すぐに破れる輪っかのポイを、小さな手で握り締めて、男の子が力んでいるのへ、店のものが声を掛けた。
「力んじゃ駄目だよ。力抜いて。そうすりゃ金魚がきっと、自分からすうっと寄ってくるから」
優しい声だが、それは妙な売り子だった。酷く昔っぽいキツネの面を、額に斜めに乗せているが、それが殆ど顔を覆っていて、女なのか、男なのかもはっきりしない。
着ているのは浴衣。臙脂色の女物だが、それに濃茶の男帯を合わせて着流し風の着付け方をしているので、着た物を見たってどちらだか見分けが付かなかった。
「もう一回、やるかい?」
「ううん、もう、いい…」
売り子の助言くらいでは、そう簡単に金魚がすくえる筈がない。小さな子供の小遣いで、そんなに何回も、そればかりやっていられないのだろう。男の子と女の子は、がっかりしながらその店を離れ、人ごみの中へ消えていった。
「次は兄さん、やってみる?」
人ごみの中へ向けて、性別も判らないその売り子は言った。差し出した掬い輪のポイは、真っ直ぐに葉柱へ向けられていて、引き寄せられるように、彼はその店先に屈んだ。
「一つでいいかい?」
差し出された白い手首、ポイを持った細い指。もし女なら、着付け方こそ少し妙だが、純日本風のその装い。けれど、そこだけそれに似合わない、淡い金色の髪が、被った面の影に見えた。
「ヒ、ヒル…っ」
「一つで? それとも自信が無いなら、椀にする…?」
ポイみたいに破れない、赤いプラスチックの椀を差し出し、売り子はその口元に小馬鹿にするような笑いを浮かべた。どうせ掬えやしないだろ、最初から椀にしとけば?と、言葉に出して言われたようで、葉柱はムカついた顔でポイを手にする。
狙うのは一番生きがいい、朱色に白まだらの綺麗な出目金。思えばさっきの子供たちも、その出目を欲しがってたようだった。うまい具合に掬えたら、探して出して渡してやってもいい。
一つめ。すぐにやぶれた。
二つめ三つめも同じく。
四つめは惜しかったが、葉柱がつい、惜しいっと口にすると、売り子は、どこが?とでも言いたげに無言で笑う。
もう言葉もなく、無言で小銭を差し出して、葉柱はまた新しいポイを手にした。その都度、目の前まで伸ばされてくる白い手が、彼の目には、見慣れたあいつの肌に思えて仕方ない。
ヒル魔じゃ、ないのかよ…。
いいや、ヒル魔だ。よく聞けば声だってヤツの声だし、手首も指も、着物の襟から見える首筋も、鎖骨の形も、あいつのにしか見えない。笑っている紅い唇も…。
「…もう一つ。いや、三つ寄越せ」
「頑張るね。あんたに連れて帰って欲しい金魚は、この水槽の中にはいないみたいだけど」
「るせぇっ」
その三つも全部破れて、葉柱は懐から札入れを出す。万札しかなくて、それを引っ張り出そうとしたら、売り子はまたからかうように笑って、白いその手で自分の面に触れる。
「…っ!」
「そんな大きなお金を出されたって、釣りが出せないよ」
面を、外すのかと思った。だが、ずれたそれを直しただけで、売り子はすらりと立ち上がる。その華奢過ぎる体は、やはり女かとも思えたが、その体つきが、これはヒル魔に違いないと逆に葉柱に思わせた。
「見てな」
売り子はそう言って、小さな折りたたみ椅子を後ろにずらし、土の地面に片膝をつく。その片脚の足首と、脛と膝までもが、ほんの一瞬葉柱に見えて、思わず彼はごくりと唾を飲んだ。
そうやって下駄履きの素足を見せた恰好で、売り子は着物の両袖を肘までまくり、葉柱がその辺に放り出した、穴の開いたポイを握る。
何をする気かなのかと思った。穴が開いてちゃ金魚は掬えない。そりゃあ、穴は真ん中に裂けたように開いていて、端の方は紙が付いたままだが、それだって、そんなもので掬おうったって…。
「あ…!」
「…うまいもんだろう。金魚すくいってのは、こうやるんだぜ?」
初めて零れた男言葉が、粋な姿によく似合って、後ろで数人見ていた祭り客は、なんの違和感も感じてはいない。売り子は上手に掬った出目と、さらについでのように掬い上げた、二匹の紅い和金をビニール袋に入れて、葉柱に差し出した。
「十回以上もやって貰っちゃ、何にも持たせない訳にいかないからな。いらなきゃ、さっきの子供らを探して渡してやれよ。そのつもりだったろ? 兄さん」
地面に膝を付いて、屈んだ姿勢になったからか、臙脂の浴衣の襟が開いて、白い胸が葉柱の目に映った。そしてその鎖骨の少し下の、薄赤い跡に彼は気付く。
「て、てめぇ、やっぱ、ヒル魔だろっ!」
差し出された金魚ではなく、その細い腕を掴んでしまうとしたのに、葉柱の手に残されたのは、三匹の金魚の入ったビニール袋だった。するりと身を翻し、売り子は奥の掛け布を捲って、その向こうに消えてしまう。
慌てて急いで裏へ回ったが、そこにはさっきの売り子と似ても似つかない、何処にでもいそうな浴衣の女が一人いるだけだったし、表の方へ戻っても、別の売り子の男がいるだけ。
そして、そのどちらへ聞いても、臙脂の浴衣の売り子なんか、知らないというのだ。
違う。嘘だ。
誰にともなく、心の奥でだけ、葉柱はそう言った。
さっき見えた胸の跡。あれはついこの間、彼がヒル魔の胸に付けたキスマークだった。もう三センチ上だったら、つまりは服を着ても見える場所だったら、暫く体に触らせねぇって、酷くヒル魔に怒られたんだ。記憶違いじゃない。
リリー…ン…
何処からか、また風鈴の音がした。風鈴屋なんか、ここで見た覚えがないから、その風鈴の音は、酷く不思議に響いた。
その音の聞こえるほうに、葉柱は無意識に足を向けて進み、そうするうちに、彼は境内の端まで来てしまっている。古びた石灯籠に手を触れれば、そのひんやりした手触りが心地いいが、今、彼が触れたいのは、もっと温もりのあるものなのだ。
灯籠を過ぎて、さらに数歩行くと、そこには狐の像が二つ向い合わせに立っている。…というよりも、そこはお稲荷さんの小さな祠で、それを守るように白狐がいるのだ。
その狐の顔が、さっきヒル魔が被っていた面にそっくりで、葉柱はそれをじっと眺めた。
続
今までこういう話を書いたことがあったんだろうか。
ファンタジーならあるけど。でも普通の世界の中の不思議っていうのは、初めてなのかもしれませんよ。楽しかった、楽しかったっ。
三話同時アップ、完結済みですから、執筆後コメント、後ほど〜。
07/05/19
