朧、夏祭り 1
言えない記憶が一つある。
暑い夏の日の、単なる普通の午後だった。
言えないけれど、恐らくずっと忘れない。
そんな大事な思い出だ。
「あ、祭りっすよ。ここ通れないっすね、葉柱さん」
人ごみにバイクを停めて、葉柱を振り返った賊学生は、そこをバイクで通り抜けられないことに、いくらか腹を立て、それと同時に少しばかりワクワクしているようだった。
夏休み。それでも毎日続くアメフトの練習。熱くてだるくて終りが無くて、みんなきっと、随分疲れているだろう。それを思い、葉柱は祭りの人ごみを眺めながら、ぽつりと一言、こう言った。
「ちょっと、見物してくか…」
「…えっ!」
意外な言葉に驚いて、それでもメンバーの何人かは、バイクを停める場所を探しにいく。程なくしてケータイが鳴って、葉柱を先頭に、大事なバイクにイタズラされる心配のない駐車場へと、ぞろぞろと彼らは移動した。
バイクを置いて身軽になったあとは、並ぶ出店を見渡しながら、全員が全員、どこか子供みたいな顔でポケットの小銭を探り出す。不良なんてのは、恰好ばっかり頑張って立派にしてて、案外、金なんか持ってやしない。
千円持ってりゃいい方で、四百二十円とか、二百六十五円とか、そんな有り金を手のひらに乗せ、全員分足して、なんか買おうと相談している。まるでホントのガキみたいで、葉柱はそれを見て笑い出してしまうのだ。
「なんだよ、お前ら、随分しけてんじゃねーか。しょーがねぇ、今日は特別だからな、そら」
ポケットからサイフを出し、葉柱は五千円札を一枚、傍にいたヤツの手のひらにのせてやる。おおっ、と声を上げて本気で喜んで、おでん屋だの焼き鳥屋だのを覗きに行く奴らが、ヤケに可愛く見え、葉柱も機嫌がいい。
おでん、鯛焼き、焼き鳥、たこ焼き、フライドポテトにリンゴ飴、懐かしいとかなんとか言って、オモチャ屋をひやかして喜んでいる馬鹿もいる。五千円の内から、やつらはちゃんと葉柱の分の食いもんも買って、ごちそうになってます!と、ちゃんと一人一回は礼を言ってきた。
不良がスレてるのは見た目ばっかりで、中身はその辺の高校生より素直だったりすることを、見る目のない大人はみんな知らないし、知ろうとしないだけのことだ。
「休みは今日だけで、明日っから、また地獄の特訓だからな!」
「判ってますよ、葉柱さん!」
「判ってんならいい。今日はたまの休みにすっから、騒ぎだけは起こすんじゃねー…」
バシャっ!
言い掛けた葉柱の顔から胸からすべて、その一瞬が過ぎた後、全部がずぶ濡れで、彼は一瞬、何が起こったのか判らなかった。
「てっ、てっめぇ、このジジイ、賊学の葉柱さんに何しやがんだっっ!」
跳ねた水で、自分も幾らか顔を濡らしたまま、隣にいた一人が大声を出した。我にかえって目の前を見れば、白髪頭の小柄な爺さんが、ガタガタガタガタ震えながら、葉柱の足元に膝を付いている。その横には、空になった桶とひしゃく。
どうやら葉柱の体を濡らしているのは、日差しに焼けた石畳を濡らす筈の、打ち水であるらしい。
「すみません、すみません…っ。よく見てなかったんです。すみません…っっ」
「ジジイのその目は飾りもんかよっ。葉柱さんがいるのが、見えなかったってのか!」
「す、す、すみませんっ」
よりによって見るからに怖そうな不良に、水を掛けてしまい、小さなその爺さんは、殺されそうに怯えている。葉柱は一つ溜息を付き、まずは長いその片腕を、いきり立ってる仲間の方へと振って、彼の額を軽くはたいた。
「うるせぇんだよ! てめぇこそ、その耳は飾りか? たった今、騒ぎ起こすなっつったろーがっ!」
膝を付いてる爺さんと、怒鳴り付けられた賊学生。両方ともビクリと震えて竦み上がる。葉柱はそれに気付いて、目尻を下げて、なるべく優しい顔で爺さんに言った。
「あー…。悪ぃな、こいつらガラ悪くて。別にワザとじゃねぇんだし、気にしなくていーから。でも、まぁ、これじゃ祭り見物って訳にも…」
上も下もずぶ濡れの葉柱は、どうしたって着替えに帰らなきゃならない。仕方ないから、仲間と分かれて、自分だけ帰ろうかと彼は思った。こんなに楽しく遊んでる奴らに、もう帰ることにするとはとても言えない。
するとさっきまで足元に這いつくばってた爺さんが、ぱっと顔を輝かせて出店の奥へと引っ込んで、すぐに何かを手にして出てくる。
「お兄さん、どうかこれを着て下さいませんか。その間に、濡らした服はちゃんと乾かしてお返しします」
見れば、差し出されたのは渋い藍染めの浴衣。細かい麻の葉の柄が粋で洒落ている。黒縞の帯と、真新しい桐の下駄まで揃えて、葉柱へと差し出す爺さんは、さっきより数段しゃんとして見えた。
それもその筈、出店は反物や着物と和装小物を並べていて、つまりはこの爺さんの得意分野というわけだ。
「着付けは奥の衝立の後ろで、ワタシが」
「いや、いい。着れる」
遠慮の言葉もなく、躊躇もせず、葉柱は仲間達を置いたままで奥へと入っていき、びっくりするほどすぐに出てきた。それも用意された浴衣をきっちりと自分で着付けて。
「に、似合うっすね! さすが、いい男は何でも似合って」
「なんか、あつらえたみたいですよ、葉柱さんっ」
「歯の浮くようなこと言ってんじゃねぇ。道の真ん中にたまってちゃ他の祭り客に迷惑だ。てめぇらはその辺で適当に遊んでろ!」
そう言って仲間達を散らしておいてから、葉柱は襟元を手のひらでなでて見た。実は口々に褒められながら、葉柱は肌に触れる布地の感触に、酷く懐かしいものを感じていたのだ。
もうこの世にはいないが、葉柱は実は祖母ちゃんっ子で、ガキの頃は祭りっちゃあ、愛情込めて作って貰った浴衣を着て、帯の後ろにウチワを差して、神社の境内を歩いたものだったのだ。
そんなことも祖母ちゃんが死んでからはしなくなっていたから、それを思い出すと、酷く懐かしいと共に、切ないような気分になる。
「なぁ爺さん、俺、これ一式、気に入ったから買って帰るわ。悪ぃけど、濡れちまった服は乾かしといてくれよ。で、幾ら?」
まあ予想はしてたが、とんでもない、代金は要らないと恐縮がられて、葉柱は困ってしまう。着れば判るが、これは相当いい品物だし、上着に水を掛けられた詫びの代わりに、貰って帰れるようなものじゃない。
「…参ったな。タダで貰っちまったら、なんか脅し取ったみてぇで、後味悪ぃンだけど。マジでちゃんと払うって。幾らだよ」
払う、いらない、と、そんな押し問答をしている葉柱の視線が、その時、急に一点に止まってしまった。目の前にいる爺さんの後ろを、今、見覚えのある姿が通り過ぎたのだ。
「…え。あ、おいッ!」
ヒル魔だ。なんでこんなとこに? ここはバイクで遠出した先だから、ヒル魔がいつもうろついてる場所とは随分離れてる筈なのに。もっとも、ヤツの行動範囲なんか、ほんとは全然判らないのだが。
爺さんの事は、葉柱は一瞬で忘れ去って、ヒル魔の消えた人ごみに飛び込んだ。さっきまではそれほどでもなかったのに、夕刻が迫った境内は、右も左も人で溢れ返っていて、ヤツの姿はもう見えない。
境内はそれほど広くない筈なのに、人で遮られた視界は、実際以上にそこを広く見せ、ヒル魔どころか、沢山いる筈の仲間たちの姿まで見えなかった。
夕暮れの、淡いオレンジの光。いつしか灯り始めた、石灯籠と吊るし行灯。出店の奥から零れる、一つ一つの仄かな灯り。葉柱はあてもなく速めていた足をとめて、幾つも見えるそれらの灯りを見渡した。
続
不思議話を書きたくて…。書けたんだろうか。どうです?
三話同時アップ、完結済みです! 執筆後コメント、また後ほど〜。
07/05/19
