月 籠  tuki-kago 8






どこまでも臆病で
どこまでも怖くて
だから
どこまでも逃げたくなって
でも探して欲しくて
連れ戻して欲しくて
何度でも

なんて
身勝手なんだろう
愛想をつかされることだって
いつもこんなに怖いのに

逃げたさと
見つけて欲しさは
いつもいつも
御せぬ心の裏表






 はらり、弥一が肩から着物を落す。借り受けてある手当の道具で、政之助は見よう見まねの手当てをする。

 今朝はおたけは女友達と湯屋へ、銀太は請負仕事へ、松は夕べ遅くまで簪やらを作っていたらしく、起きてくる様子がない。梅と絹は今頃今日の仕込みの最中だろう。変に静かな、この朝に。

「もう少し、明かりの方へ、背を」
 
 言って、外から差し込む朝の明かりへ背中を向けさせる。細心の注意を払い、政之助は彼の体から包帯を解き、患部に貼ってあるさらしを剥がすのだ。どうしても、少なからず膿んでしまった。傷付けられてそのままに放置されて、汚れた荒い床の上で何日も穢された、その。

 程度の軽い傷から選んでさらしを剥がすと、傷を清めて、膏薬を塗った新しいさらしを貼る。ひとつが終わればまた次だ。殆ど背中全面を覆うほどの、沢山の傷のすべてを。

 そしていつも、最後に残す、左肩。それまで以上に静かに、怯えてでもいるように、政之助は気を遣う。そこが他と比べて、殊に酷いからだ。形をなぞるように切られ、肉を抉られ、まるで玩具にしたような有り様。腕の墨の跡のあたりも、同様に酷い。

「………」

 政之助の息が震えるのが、弥一へと伝わっていく。触れる指も、震えていた。繰り返す毎日の手当の度のことだが、今日は尚更。 

「政」
「あ。なんであろうか」
「いや。なんでもねぇ。少し、寒いな」
「な、なるべく、急ぐゆえ」

 政之助が"心"を顰めている。顔をではない。見せぬ内心で、軋むほどに胸を痛めているのが、伝わってくる。これは怒りだ。そして、こんなにされてしまうまで、探し当てられなかった、漱げぬ後悔。

 それを、喜びと感じている、弥一がいる。

「う」
「…あっ、痛かったか。すまぬ」
「あぁ、ちっとばかしな、構やしねぇ、このぐらい」

 返事しながら、僅かに笑むような弥一の声音。思っているのだ。痛ぇのはおめぇだろう、そんな震えて、手も、声も、息も。

「…っ…」

 弥一はわざと、息を詰めた。途端に政之助は手を引っ込めて、おろおろと、傷でない場所を、温かな手で、指で撫でてくる。その温もりに、心が揺らぐ。もっと、もっと、あんときみたいに、触られてぇ。

 やがて手当は終り、貼ったさらしが剥がれないように、包帯を巻き直す段になった。医者に書いて貰った絵を、床の上に広げて四隅を小石で押さえ、それを手本に、余分な長さの無い包帯で、全部のさらしを覆えるように。

 これは政之助が弥一に、抱き付くような格好になる。上背のある体を屈めて、弥一と身の高さを合わせ、両腕を開き、時には弥一の肩に、胸に、頬が触れるほどの距離になる。

 心の臓の鼓動が聞こえた。どきん、どきん、と大きく打っている。間近に見る政之助の頬や首筋がひと刷け赤い。表情は硬く、大事な手当の最中に、有らぬことを考えている自分を、厳しく叱責しているかに見える。

 嬉しいと、そう思いながら、弥一は不思議でならなかった。なんで今、こうして居られるのかが、不思議で、まるで一瞬後には覚める夢のような。

「政」
「……すまぬ、今、熱い茶でも。弥一殿の体が、すっかり冷えてしまった。あ、そうだ、茶より何か、朝餉に食べられるものを。何、水場へ行けば、この間みなにわけた漬物の礼にと、近所の誰かが、何か」

 言いながら、逃げるように政は行ってしまった。着せかけられた着物の前を合わせ、壁際によって肩で寄り掛かる。屋内に差し込む朝の光を、ぼんやりと眺めながら、弥一は己の片腕を回して、カエデの印を着物越しに撫でた。

 このまま、何も無かったように、前までの暮らしに戻っていくのだろうか。そして、恐らくはまた、逃げたくなる。失うことを恐れて、厭われることを恐れて、信じられなくなって、逃げるのだろう。

 ずるり、と、壁で肩が滑った。そのまま崩れるように横になり、うつらうつらと眠った。政之助が戻る前に、長屋へ戻ってきたおたけや銀太、置き出して来た松吉が、部屋を交互に覗いていく。弥一がちゃんと居ることを確かめて、皆、安堵したような顔だった。

 そして、煮物やなんか、幾つかの小鉢を盆に戻った政之助は、眠る弥一の傍にそっと膝を付き、身を屈め、血の気の薄い彼の顔を凝視して、こう呟いた。

「覚悟を、せねば。私は…。そして、弥一殿にも…」

 



 幾日もが経ったある日の、夕刻を少し過ぎた頃合い。淡い闇が滲み始めた部屋で、政之助が、弥一を真っ直ぐ見て言った。

「弥一殿、これから、よかろうか」
「…これから、って?」
「共に、来て欲しい場所がある」

 弥一が横になっていた身を起こし、構わねぇよ、と言い掛けた言葉の終わらぬうちから、政之助は彼の手首を取った。ぎちり、と握られ、少し痛むほどの力だった。歩む歩調も随分速く、背の違いから、弥一には少し無理が掛かるぐらいだ。

 でも、どこへ、とは問わずに歩いた。きつく握られた手首が、腕が軋んで、殆ど良くなった背中の傷が、引き攣れる様な気すらした。

 そうして連れて来られたのは、随分前に廃業したらしい高級料亭の、広い庭の奥、離れであるらしい小さな部屋。隅に布団が一組畳まれて詰まれているのが見えた。弥一はそれを見て、何も言わず、ただ、ようやっと手首から、政之助の手が外されるのを感じた。

「……」
「すまぬ、少し、跡になった」

 言われて見てみれば、確かに手首には政之助の握っていた跡が。

「弥一殿、今宵。もし、嫌であれば、そう言ってくれて構わぬ故」
「………」
「場所を用意するのに少し手間取ったが、丁度、弥一殿の怪我も良くなったし、部屋は古いが、ここなら誰も訪ねては来ないし、布団はそれほど古いものではないから」

 色々喋ったが、弥一はまだ何も言わない。政之助には背中を向けたまま、突っ立っている。

「少しは言葉を返して下さらぬと、せめて、嫌なら嫌と」
「嫌かもしれねぇと、思う理由が俺には分らねえ」

 返された言葉は、それだった。

 すると、政之助は用意されてた行灯に灯を入れた。布団を部屋の真ん中に敷き、枕元にその行灯を置いて、座って下され、と、弥一に。言われるまま、白い布団の上に座ると、政之助も弥一と向かい合うように腰を下ろした。

 互いの距離は違えど、あの時と似ている。あの時の傷は、まだ政之助の額にうっすらと残っている。

「弥一殿、今から、私は私なりの、覚悟の話を致す」
「覚悟」
「こればかりは、伝えておかねばと」

 いよいよ、似ている。弥一の肌に震えが立った。政之助の言葉は、途切れ途切れに続く。何を言うか、どう言うか、考え尽くしたものだろうに、一息には言わぬ。

「私は…このような男ゆえ、軽い思いでは、この事を成せぬ。例え弥一殿にとって、これが幾つもの夜のうちの、たった一つであろうと、どのように些細に思おうと、私にとっては、これは」

 誓い に 等しい、のだ。

 ずっと重ねられていた眼差しが、一度、途切れた。政之助が目を閉じたのだ。一瞬後に弥一は、さらに強く見つめられていた。なんてぇ目を、と、それだけ思った。政之助の声は、静かに、ひとつひとつ、まだ続いている。

「傍を、離れぬ。手を、離さぬ。心を、逸らさぬ。命のある限り、守ると」

 そこまで言って、ふ、と政之助は笑った。目元と口元で僅かに笑い、少し項垂れると、軽く首を左右に振った。

「…そう思ったが、それは、江戸を離れる前に、既に誓ったことだった」

 つ、と。政之助は手を伸べる。伸べた指が、弥一の頬に触れた。そのまま手のひらで頬全部を覆うようにし、指先は彼の耳朶へと届いている。

「故に、あとひとつ」

 手は、弥一の頬に触れたまま、政之助は彼へと近付いた。真っ直ぐに伸びいてた肘を曲げ、その分の距離を詰め、やがて額へ、額を付ける。消え去った距離。息がかかり、鼓動が届き、言葉が発せられる前の、感情の欠片さえが見える。

「弥一殿が、逃げれば、追おう」
「………」

 弥一は今一度、震えた。そのまま逃げを打とうとするかに。政之助はもう一方の手で弥一の逆頬を覆い、そのまま両手で彼の頭を捕えた。瞬きすらしない眼差しが、弥一の「中」を見ようとしている。

「松吉殿に聞いた。姿を消して、少なくとも、七日。弥一殿は女郎屋を転々としていた。日を重ねるごとに、段々と、長屋から遠ざかる店を選んで、七日目には恐らく、町はずれまで」

 じっと見つめる政之助の目が、悲しむように眇められ、触れていた額を離した。少しばかり顔を離して、さらに言葉を続ける。

「誓いは、さっき言ったものだけ。今一つは、だから、私から弥一殿への、頼みごとだ」

 弥一の頭に触れていた政之助の手が、するりと離れて、彼自身の膝上へと戻る。きちりと正座したままで、行燈の揺れる明かりに、彼は顔を照らされていた。

「どうか、逃げないで…下され。行けるところまで追うと、誓うが、過去に弥一殿が居た場所までは、私は恐らく、追えぬ。光の無い暗がり。弥一殿が自身で己をいたぶるような、過去の底無き、沼の底。どうか、私の追えぬところまで、逃げていったりはせぬと、約束してくだされ、弥一殿」

 政之助が、漸くそれを言い終えると、弥一は彼を哀れむように、小さく首を傾けた。口元が少し、笑んでいるようにも見えるが、ただ歪んだだけのようにも見えた。

「……悪ぃが、約束、できねぇな、政」
「あぁ、」

 弥一の言葉を聞いた政之助は、短く嘆息し、そして目を閉じて、ぽつりと言った。

「そう言われるのではないかと、思っていた。なら、仕方ない。何処へなりと追えるよう、己を闇に染めてでも、私はずっと弥一殿を追おう」

 政之助の両手が、今度は弥一の着物の襟にかかった。幾らか乱暴に、体を前へと引かれて、弥一が気付いた時には、口を吸われていた。口吸い、と言うには淡過ぎたが、それ以外のものではなかった。

「仕方がない。惚れた弱みと言う言葉も、桂屋に居る頃、女たちからよく聞いた。弥一殿、もう一度だけ聞く、返事はもう聞いたも同然なれば、無くとも構わぬ」


 今宵、よかろうか。
 弥一殿を、
 己のものとしても、
 
 よかろうか。



 











 尋常じゃあない、と、思う。ある意味、己の身がどうなろうと、知ったことじゃなくなってしまう、弥一の心の不均衡。多分、心の其処此処が壊れているんだと思うし、それはもう治るようなもんじゃないんだと思う。

 そういう、普通じゃなさ。いくら理屈で語って聞かせようと、彼の身を案じて守ろうとしようと、ふとした躓きでこれからも弥一は、奈落の底へと向かっていくのかもなぁ。政、確かに覚悟がいるわ、ほんといるわ。

 どうにもこう、ほんの欠片の不安ごとさえ、消えて無くなったハッピーエンド、っていうのが、この世界観に合わない気がして…。いや、単に私がハピエン苦手? 苦手? なだけかもしれないね!そんなわけで、悩みに悩んでやっと書いた8話です〜。



16/09/11