月 籠 tuki-kago 7
カエデがきれいなように
きれいには生きられなかった
汚れて
捩れて
なのにまだ
散ることさえできない
おめぇが言い当てたんだ
あぁ
ずっとあの頃から
もう
ずっと…
「ふ…くく…っ…」
独白に近い政之助の声に、肩を震わせ弥一は笑った。とんだ見当違いだと嘲るふうに笑いながら、己の片手で目元を覆い、背を丸め、蹲る。身内から這い上がるような慄きに、震えが止まらない。
「はは…っ…。は…。誰が? 俺がか…? おれ、が…。俺にそんな、似合わねぇ言葉もねぇだろう?」
「…弥一殿はずっと」
「やめろ…っっ」
いきなりの怒号に、子をあやす母親の声は止まる。女は赤子を娘に見させ、膝立って弥一の方を見た。酷く不思議だった。身を縮めて蹲るその姿が、寄る辺ない、幼い、子供のように見え…。
あぁ、そうだった、と、彼女は思い出す。だからアタシはあの頃も、このヒトのことが気になって。だからこのヒトが、あの時と同じ"イチさん"だったら、昨日のあのことも、何かの間違いにちがいない、って。
目を覚ましておくれよ、あんたは誰かを助けるために、自分を傷つけろって言ったヒトじゃないか。ほんとはイチさんは、ヒトを傷付けるなんて出来ないよね、って。無我夢中で、簪を、自分の喉に向け。
「イチさん」
女は彼の名を呼ぶ。立ち上り近付いて、眼球だけを動かし自分を見上げる弥一の目を見、恐れることなくもっと近付き、肩にかけていた着物で、弥一の体を、そぉっと覆った。
「イチさん、あんな…らしくない真似なんかするから、居た堪れないんだろ? ばかだねぇ」
あたしも驚いちまったけどさ。
あんたはほんとは優しいのに。
みんなちゃんと知ってるのにね。
辛いことがあったのかい?
可哀想に。
そう言って、弥一の肩をさすりながら、その傍らに膝付いて、女はもっと、小さな小さな声で…。
「わら、わせる……」
「…え?」
言うなり、弥一は起き上がった。掛けられた着物と布団を跳ねのけ、女を突き飛ばすような勢い。そして、戸口で草履をつっかけ。
勿論、政之助はその背を追った。弥一は怪我人だ。傷を負い血も足りぬ。何日も飯すら喰わず、安静にしておらねばならぬ身なのだ。まだ、無理などしていい時じゃない。
本当は走ることなど出来ぬ筈なのに、弥一は我が身に鞭打ち、がむしゃらに走り、川縁へとまろぶように下りると、そのまま浅い流れへと。
「弥一殿…っっ!」
「来るな!」
怒鳴られ、一瞬怯んだ政之助が、弥一の怒号を凌ぐ強さで言った。
「許さぬと言った筈だ! 死ぬなど、許さぬと!!」
その言葉を聞いた途端、弥一の膝は崩れ、半身が水に没する。
「弥一…っ」
駆け寄り、己も水に入って、ぎりぎりに伸ばした腕で、政之助は弥一を捕まえる。抱いて、抱きすくめながらあたりを見回し、橋の下に、貸し舟屋の物置を見た。政之助は、そこへと弥一を連れて行き、濡れた着物をすぐさま剥いだ。
傷を案ずるが故だが、焦るあまり随分と手荒い。膏薬で傷に貼ったさらしが、幾枚も剥がれて落ちて、向けられている背中が殆ど、政之助の前に露だった。もっとも酷い傷に政之助が触れると、弥一の肌はふるりと震えた。
「早く戻って、もう一度手当てを…」
「…おめぇになら、されてぇ」
「……」
「手当てでも、何でもしてくれてたろ、あの頃。風呂も、使わせてくれたっけ? 俺の体の、どこかしこ」
くす、弥一が政之助の動揺を読んで、笑う。体ごと振り返った弥一が、片手を伸べて、乱暴に着物をくつろがせ、政之助の肩に巻かれた包帯を毟った。彼の刃が付けた、恐らくはもう消えない傷が、その肌に深く、濃く刻まれている。
「死にゃしねぇさ。こんな程度の傷」
それは政之助の傷のことか、弥一の背の斬られた傷のことか、それとも…。言葉はふつりと途切れ、政之助の傷の中に、弥一の指が浅く喰い込む。
変わりゃぁしねぇ。おめぇは、俺が、何度俺に失望させようとしても。真っ直ぐで、頑固で、例えそれが間違いでも、一度信じたものを、疑わねぇ。そうして俺にまで、信じさせようとするんだ。信じりゃ余計、苦しいものをさえ。そのありがた迷惑が、俺を今に、どうにかさせちまう。
言ったら、
変わったのか?
あの時もあの時も、あの時も。
さびしい、って言ってたら…?
背中の火傷のあとに、今まさに、もう一度熱い湯がかけられる。そんな気がして、弥一は顔を歪めた。あの時、煮立つ湯が掛けられたのは過失だった。きっと誰も悪くはない。けれど、そのまま放り置かれたのは、何故だ。
火傷は膿んで、こびり付いた着物を剥がす時、皮膚まで剥げて酷い跡になり、穢らわしいと、蔑まれる印になった。皮肉なもんだ、真っ赤なカエデはあんなにきれいだってのに。
カエデがきれいなように、きれいには生きられなかった。汚れて、捩れて。なのにおめぇに触れると、まだ、散らず居てぇ、まだここに居てぇ、って…。
「…う……」
胸を下にして弥一が背を丸め蹲る。己を掻き抱く手の片方が、カエデの印に爪を立てて掻き毟ろうとしていた。辛うじて塞がりかけてた傷が、裂けるように開いて、血が。
「弥一殿…っ…」
政之助は弥一の両の腕をきつく掴み、体を起こさせて、その背に触れぬように激しく抱いた。その激しさはすぐに解かれて、ただ優しい抱擁になった。
抱かれたままの薄暗がり、弥一の目が政之助の白い首筋を見る。首を斜めにして、間近にあるそれを、弥一は噛んだ。甘く、歯の先を当てるだけ。
「政。ずっと、もう、ずっと」
声を発すると、触れている歯先が揺れ、冷えた唇が、舌が肌をなぞった。びくり、政之助の体が跳ねて、逃げたいのだと分かったが、弥一は彼の体を離さなかった。今がこのまま過ぎ去ればきっと、近寄ることも怖い有り様になる。それが残酷なほど、分かっている。
「政」
「は、離れて…くだされ」
「…からかってなんか、ねぇよ、俺は」
「弥い…」
…おめぇが言ったんだ。
俺がさびしいんだろう、って…
なら、おめぇに
"欲しい"って言ったって、
許して貰えるんじゃあ、
ねぇのか?
ふつん、何かが切れる音がした気がする。政之助は弥一の両肩を掴み、折れるほど俯きながら、互いの体を引き剥がす。でももう、それは、逃げるための所作では、なかった。
川の音がする。ずっと、傍らで。その流れの音の下へ隠すように、政之助が何度も囁く。
辛いのなら、
言って、下され…。
辛いのなら、
すぐに、そう…。
「辛かねぇ。牢屋で、いや、その前もずっと、数え切れねぇくらい、俺が、どんなされ方してきたか、おめぇが聞いたらきっと、そのでけぇ目ん玉、落ちちまうぜ?」
弥一は変に饒舌だ。傷の在る無しを、ひとつひとつ確かめながら、政之助は手のひらで弥一に触れ、唇で触れ、慄きながら時折、舌で触れている。
「い、痛くは…?」
鎖骨の窪みに唇を当てられて、思わず首をすくめた所作に、政之助がぎくりと愛撫を止める。
「痛かねぇって。くすぐってぇよ、さっきから」
弥一の背なを、床に触れさせてはと、政之助は片腕で彼の腰を抱き、もう一方の腕で肩を抱き、そのまんま自身の体を前に屈め、随分と辛い姿勢でいる。そしてそのまま、届く場所だけに、おどおどと唇這わせ、稀に歯を当て。
「政…?」
ふ、っと、弥一が笑む。彼の痩せた全身が、笑いの為にふるふると震え、政之助の肩をぐい、と押し、間近で見た怯え顔のその唇に、噛み付いた。
「う」
「口、吸ってくれ。おめぇからも。これは、誰ともしたことねぇんだ、俺も」
「こ、こ…こう…で、あろうか…?」
ぎゅ、と口引き結んだまま、目を閉じて、息を止めて、恐らくは顔真っ赤にして、政之助は弥一のしたことに、それでも習って、いるつもり。押しつけられたあまりに不器用な唇に、弥一はとうとう声を立てて笑い出した。
「ったく、おめぇと来たら、笑わせる…っ」
笑われて、つい手が緩んで、弥一の背中が床まで落ちる。ど、と音がして、これ以上は無いくらい政之助は狼狽した。そうしてあまりに心配されるので、とうとう弥一は彼を許した。
「もう、いい」
「弥一…殿」
「ほっとしてんじゃねぇ、今日はいいって言ってんだぜ」
奥底から笑いの沁みた双眸に、政之助は泣き笑いのような顔を見せたのだった。
続
丁度ひと月前に書いて置いてあったこれですが、ちょっと修正などしてUP致します。この続きはプロットのみ作りましたです。もうラスト近いですねぇ。また解決していないことが、恐らく一つと半分。どうなるんだろうな、って思いつつ…7話です。
こういうシーンは、やはり書くの楽しいです。でも可愛いもんですけどね。そこがいいのか。政之助らしくてv
2016/05/29
