月 籠 tuki-kago 6
己が底から腐るような
どろどろとした感情が
よもや
そんな名のものだったなど
今更教えるのは
野暮、だぜ…?
それがどんなものか
知らずにいられたら
少しは楽だったろうか
見たことも無く触れたことも無く
ろくに知らぬままだったら
今も焦がれず
居られたろうか
がらり、音立てて、刀が板の間に落ちる。政之助の手が、それを素早く遠くへと滑らせた。届かぬところへ遠くなった刀の柄に、真新しい血と、もう乾いた血の二色の赤。
弥一の目は、暗い眼差しでそれへと繋がれ、彼はぽつり、言った。酷くかすれた、消えそうな。
「…殺った、のか」
俺のせいで。おめぇはまた、汚れた、のか。
自分がどれだけ汚れても壊されても、汚毒にまみれ滅茶苦茶にされても、バラバラにされたとしても、引き換えに政之助がきれいでいるなら、それがいいと彼は多分、どこかで思っている。なのに、また…。
「弥一ど…」
「離せ」
「…弥一、殿」
「もう離…せ…」
「……」
あぁ、と、声にならぬ吐息が、政之助の体から抜けるのが分かった。政之助は弥一の体を、すっぽりと抱いて、その頬に頬を押し当て、子供に似た仕草で頬をすり寄せ、こう言った。
「いっそ…ひとつで、あれたら」
そうであれば、痛みも苦しみも分け合える。辛くあるのを、見過ごすことも無い。一人にせず済むのだし、今度のように見失い、知らぬうち、こんな惨い目に会すことも、無く。
「弥い…」
その時、閉じていた戸が開いて、医者が戸口で立ち竦んでいた。乳飲み子を近所に預けたその足で、治療の為足りぬ様々を、隣町まで借りに走って、たった今戻ったのである。
「い、いったい、何が…っ」
自分が出て行った時から、明らかに変容した惨状を目にし、何があったのかと聞き掛け、けれど医者は、そのすべてを一度、喉奥へと飲み込んだ。
「……とにかく、治療を。そちらのお方も、さっきは無かったその傷を診せて下さい」
だらだらと、肩口と胸から血を流しながら、政之助はやっと弥一から体を離す。そして、酷く繊細で弱いものを扱う様に、弥一の身をそうっと布団へ俯せにした。
「…この怪我は、そう深くは。それに、こうして手布を当ててしっかり血を止めておく故。どうか、弥一殿を先に治療してくだされ」
医者は彼の言葉を鵜呑みにすること無く、政之助の傷と、弥一の傷とをしかと見て、それから頷いた。どちらの傷も浅くはないが、弥一の方が己で己を、治す気が無い。こうした患者の深手は危険だと、直感で分かるのだ。
体の何処にも力を入れず、体ごと命まで放り出しているような弥一の様を、政之助は少し離れた場所から見ている。抗わず手当てを受けてはいるが、痛む筈の時も、表情の一つさえ動かさぬ姿が、見ていて恐ろしい。
だから政之助は言った。ここで言うのが憚られることだと承知の上で、言葉を選ばず告げた。
「…此度は、殺してはおらぬ。多分。辛うじて寸前で、とどまれた。だから、安心、されよ」
治療をしている医者の手が、ふと止まった。鞭打ち刑の跡、そして腕に墨の跡までがある、この男。のみならず、善良に見えるもう一人も、人を殺したことがある、と。
彼はほんの数月前、父親をならずものに殺されたのだ。どんな奴らだったものか、顔形も、背格好でさえ見ておらぬ。その上彼は、ずっと部屋の隅蹲る義母と、まだ幼い義理妹の体の震えを目にしている。疑っても然るべき、であった。
その動揺の中身を読んで、だろう。俯せで、じっと手当を受けていた弥一が喉奥で、くく、と笑ったのだ。
「留守中に何があったか。聞きゃあいいのにな…」
「弥一、殿」
思わず名を呼んだ政之助の声に、医者は何を思っただろう。化膿止めと血止めをさらしに塗布し、それを患部に貼り付けつつ、彼は静かにこう言った。
「何より、治療が先です。あなた方が、どこの誰であろうと。それが父の教えですから」
「…医者も殺したことがあるぜ? お前のことも、殺すかもな」
びくりと一度震えはしたが、治療の手は止まらない。よどみなくずっと動いている。弥一の手当てが済み、それまでずっと思っていただろう言葉を、医者は強い口調で告げたのだ。
「…俺の命は、今ここで死んでいい命ではない。未熟でも経験足らずでも、この手が治せる病や、怪我が幾らもあるんです。ごらんなさい。今、こうして目の前にも…」
低く交わされるやり取りを、政之助はすべて聞いていて、あえて口を差し挟まない。己で言った通り、切り傷のある肩と胸をずっとしっかりと押さえていたから、医者の治療がはじめられた時には、血は殆ど止まっていた。
部屋の隅にいるままの母親と娘は、澱みなく続けられる治療の様子を、ずっと見つめ続けていて、やがて母親は震えの収まらない手で、それを手伝う。
何も言われずとも井戸から水を汲みあげて来、治療の過程で血染めになったさらしをまとめ、それを大盥の中で洗う。幼い娘すらも、たどたどしいながらそれへ習おうとしている。血の色を恐れたりしないのは、流石は医者の家の女たちだった。
「かたじけない」
あんなことがあったのに、それでも、我らを救うてくれようとするとは。言うと、女は顔を上げぬまま言った。
「…あの人だったら、きっとこうする。ただ、それだけ」
「本当に、かたじけない」
やがて二人共の治療は済み、襷にしていた袖を下ろしながら、若い医者はこう言った。
「お二人とも、暫しここから動かない方がいい。一日二日安静にすれば、傷も少しは塞がろうし、心身共の疲労も和らぐかと」
医者というのは、弥一には到底計れぬ人種なのかもしれぬ。そう言った彼の言葉にはもはや、疑いや戸惑いの欠片もなかった。
丸一日が過ぎた。夜は明けて、やがてはまた暮れ、闇が路地へと沁みるころ。
医者の家は、随分狭い家だった。患者を診るための部屋と、もう一部屋の間に仕切りは無い。治療のための部屋が塞がっているからだろうか。医者が往診に行くと言って夕に出て行って、まだ戻らぬ。残っているのは母親と、その傍らで眠る幼い娘と、乳飲み子と。
小声で赤子をあやす声が、時折聞こえる。政之助の目の前、むこうを向いて身の片側を下にした弥一の体が、強張っているのがわかるのだ。そして、無理に平素を保とうとするような、不自然な息遣いと。
「………痛むのか、弥一殿」
「いや…」
言いながら、ごろりと弥一は仰向けになる。その寝方は駄目だと咎めようとした政之助の方へ、彼の顔がかくりと向いた。
暗い暗い、目。底に澱んでいるのは、憎しみ、かもしれぬ。政之助は無言で目を見開き、其処にある己の体を透かすようにして、弥一が何を「見」ているかを理解したように思った。
あやす声。大切そうに。愛しそうに。
母親が幼子を、この世の宝のように。
「や…」
「何かあっても、今ならおめぇが、止めるだろ」
だから、見ていろ。これが俺だ。お前が知っていると言う。分かっていると言う、俺の思いの底。憎しみの滲み出す様。
動けず、弥一の姿を見続けて、おたけの言っていたことが、政之助の脳裏を過っていった。はらはらと泣くような、か細いか細い、震え声。
政、イチさんは…
居て欲しい、って、
言われなかったの…。
弥一の声が今度は聞こえる。政之助が聞いたわけではない声。過去から響いてくる、過去の弥一の声だ。
女は誰でも、子を産みてぇか?
愛せないかも、しれなくても。
じっと見つめて、長く黙っていた後、政之助は弥一の名を静かに呼んだ。
「…弥一殿」
淡々と、穏やかな声だった。彼は弥一を恐れてはいない、嫌悪など、していない。降り積もる憎しみの下、隠した想いが、政之助には分かったのだ。
「弥一殿は、さびしい…のだ…」
幼子をあやす母親の声は、あまりに愛しげだ。この世にこれほど優しいものがあるのかと、信じがたいほどに。
続
とても難産でして、二度ほど総ボツにしましたです。そんで結局今回二話分まで書いて、今出すのはその一話分でございますよ。一か月くらいしたら、書き終え済のもう一話を出そうと思うのですが、その時はまたその先を少し書いてからにしたいかな。
こういうの私には、ほんと珍しいです。慣れなくて変な感じですが、まぁ、いいか。
人間てさ、自分だけで変わるのではなく、周囲の人々と関わり合いながら変わりますよね。弥一の葛藤も苦しみも、彼らが居てこそってこともあるな、って思う。でもその苦痛が、いつか選ぶ良い道となれば、いいんだよな、などと思うのでした。
この話、次話のあたりでは、かなりラストに近くなりました、多分ね。
2016/04/29
