月 籠  tuki-kago 5







あぁ、
そんなに大事に、
されてる命もあったのか。
そこいら中に、あるってわけか。
 
へえ…

そいつぁ俺とは、
遠い話だ。

間違ったって、そうはなれねぇ。

 



 突き刺した一つ目の小さな体が、ぶるり、震えてそれきり動かなくなる。その向こうで貫かれている女が、口から血を流して死んだのは、刃ではなくて絶望の故だったのかもしれない。

 そんなに大事、だったってかい?

 思い出したいつくもの殺生が、今更のように笑えてしまって、くつくつ、と、体揺らして笑った筈なのに、冷え切った体は笑いすらも、上手く作れずに微かに震えただけだった。泥だまりみたいに濁っているだろう視野を、瞼の隙間から一瞬見て、また瞼で塞ぐ。

 弥一には、ここが何処だかもう分かった。知らない屋内だ。でも察しはつく。件の医者の家だろう。

 もう疲れたから、このまま眠れると思ったのに。また愚かしい想いの浮かばないうちに、地獄へ引き摺って行ってくれと、誰へともなく思っていたのに。

 聞こえるのは、はぁ、はぁ、と、抑えても抑えきれない浅い息遣い。その隙間に零れる嗚咽。それに、震えるままに、名を呼ぶ声。

「…いち…っ、ど…」


 うるせぇ うるせぇ 

   そんなゆめまぼろし 
   あっという間に
   取り上げられちまう幻なんざぁ 

 ききたく ねぇ…


 嘯く心の表の下から、けれど、狂おしいほどにそれを求めてしまう。

 ほら…
 ほら、やっぱり…
 おめぇが…
 きてくれた…

 あぁ、
 こんなに大事に、される命なぞ。
 この身の何処にも、ありゃしねぇのに。
 俺の中にあるのは、
 どろどろと腐り果てた、膿みだけ、なのに。

 もう一度、薄目を開けて餓えたように見た弥一の視野には、見慣れた膝が見え、腰のあたりが見え、なんにもねぇ筈のそこに、刀の柄が、見えた。そうしてその柄が…。

 よくよく見知った、
 赤黒いもので汚れて、い…。

 床が、鈍く振動した。そんな気がした。でもそれは胸の鼓動だった。弥一の胸で、大きく鼓動が鳴って。一度きりだけそうして大きく鳴って、その後はまるで動くのをやめたみたいに、静かになった。

 人形か何かみたいに、ぐるん、その首が真横に倒れて、残像を引く薄暗い視野に、子供がいるのを見て、起きるなり腕を、そこへと伸ばす。悲鳴も上げられず引き摺られて、捕えられた幼いその子の、細い首に血の跡の残る刃を、押し付ける。

 弥一は、いっそ夢にでも浮かされたように、言ったのだ。

「見ろ…っ。見ろよ、政、知らねぇんだろ、知らなかったろう…っ、これが俺だ。これが…本当の、俺なんだよ。ガキ一人なんざ、簡単に」
「…弥、い…」

 腰の刀を抜き取れられて、膝立ちになる他何も出来なくて、見開いた目が、信じたくないように揺れて揺れて、逸らされては弥一の上に戻る。その、時、激しい音がすぐ傍で響いて、弥一の腕に在る子供も、政之助の体も、びくりと震えた。

 水をいっぱいにためた木桶が、土間に落ちた音だった。

「うそ、だろ…? ねぇ、なんの…冗談…」

 岡場所上がりのあの女が、その子の母親が、震える声で笑い混じりに。

「よしとくれ、離しとくれよ。あたしの子なんだ。大事な子」

 女はそのままへたりと座り、濡れた地面を掻くように、両手の爪を立てた。

「イ、イチさ…。あんた、イチさんだろ…? ねぇ、変な冗談、やめとくれよ、許しとくれ。この上、その子まであたしから奪うっていうの…?」

 弥一は政之助だけを見たまま、言った。

「 し ら ね ぇ よ 」

 その、生身とも思えないような、抑揚の無い声。更に子供の首に寄せられる、赤黒い汚れのついた刃。まだ動けない政之助は、何処かで分かっていた。今ここで、おのれがどうするか、だけが、酷く、大切なのだと。

「弥…」

「あんた、違う。似てるだけだ、イチさんじゃない…っ。もし、イチさんだったら…!」

 叫びと共に、女が髪からかんざしを抜いたのが、政之助にも見えた。それを逆さ持ちし、そのまま頸へと向けるのも、そうすることに、僅かの躊躇もないことも。

 政之助は腰から鞘を抜いて、伸ばした腕で、それを激しく横へと振った。大きく弧を描いた鞘の先が、女の手首を払う。かんざしは飛んで、壁にあたって落ちた。そして、ひるがえって返すその鞘が、弥一が手にする刀の切っ先をも払う。硬い音がして刀の先端が折れ、逆方向の壁に突き立った。 

 同時に飛び込んだ弥一の懐。政之助は彼の両肩を掴んで、引き摺り上げるようにしながら、その体と重なり、半間ほど先へもつれ合う様に、落ちた。子供の体だけは元の場所に残され、刃からは遠ざかって。

「お、おかぁ…っ、おかぁ、さ…」

 ひぃ、と泣き出す子供の体に、女は必死に身を被せ、抱き取り、抱いたままで狭い部屋の逆端に、壁を背にして蹲る。元々弥一の傷ゆえに、血の匂いの満ちていたその部屋に、真新しい血が濃く香った。

 痛い顔なぞ一つもせずに、政之助はその身に弥一の刀を受けている。切っ先のみ折れて失った刀身の中ほどが、彼の肩と胸とに、はっきりと喰い込んでいた。

 淡々と、静かに、声。

「知って…ござるよ…。それも。その姿も、想いも…すべて、弥一殿だと、某、もう、知ってござる、ゆえに」

 政之助は身に喰い込む刃を、僅かも除けようとせず、押し戻そうともせず、ただ弥一を緩く抱いた。肉を斬る感触が生々しく、弥一の手に伝わる。飽きるほど知っているその感じは、けれども、まるで、弥一自身の体に、刺さってゆくかの…。

「だから、やいち、どの。安心…なされ…よ」

 背なを抱く政之助の腕に、力が籠る。それと同時に更に刃が、その身を斬る。弥一は、握ったままの刀の刃を、おのれの身に引き寄せながら回そうとした。でもそれをも政之助が許さなかった。剥き出しの刃を、ぐいと曲げた首と顎で挟み、力を籠め、おのれの命を盾に、けして動かさせなかった。

「…許さぬよ」

 死ぬなど

「許さぬ」

 だから、その手を…離されよ、と。

 指のすべてが、ばらばらと落ちでもしたように、もう弥一は刀を、握っていることが、出来なかった。




 








 新年早々これを書くことに、ちょっとした躊躇はあったんですけど、何しろ前回の内容があんなだったので…。でもこの五話目から良い方に向く、という支点なのだし、正直書きたかっので書くことにしました。その、血なまぐさくてごめんなさい。

 半分ほどを書いたあたりで「大切なもの」ということに対して、考える機会がありまして、なんというか、結構感情が揺らいだのですが、これを書いててかえってよかったのかもしれません。政は優しい男ですけど、彼は彼の為に、大切なものを大切にしていると思う。失うと痛いから心を尽くす、というのは、それはもう相手の為ではなく、自分のため。

 けれどそれでも、それは、大切で、大事で、かけがえ無いものであることが、揺らぐようなことではないと思っています。誰でも一番大切なのは自分。政さえもね。

変な執筆後コメになりましたなぁ…。ごめんです。


2016/01/03