月 籠  tuki-kago 2







舞い落ちる、まっか な まっか な、
カエデの葉を、
まばたきもせず見上げている。
何度もその あか が、目の前をよぎる。

この目を塞ぐように。

この夢を潰すように。




 もう、何度目を覚ましたか知れない。もしかしたら本当は、一睡もしていないのかも知れない。何も握らぬ筈の手の中に、はっきりと硬い感触があって、その硬いものが、ぶるり、ぶるり、震えて、すぐに動かなくなる。

 息も荒げず淡々と横臥したままで、夢か何か分からないそれを感じている。ただ、同じ部屋の中に聞こえている、静かなもう一つの、自分のものではない息遣いが、少しでも変わるのが怖いから、聞かれないように息をひそめる。もう、止めてしまうほどに細く細く、夜が白むまでずっと、ひそめている。

 そして。   
 
「弥一、殿…」

 その朝、政之助はカラの布団にそう呼び掛けた。寝入るまでは確かにいた筈の弥一が、明けの日の差すその部屋には居なかった。捲り上げられた掛布団とわずかに乱れた敷布を、ぼんやりと眺めて、昨日のうちに二人分貰ってきていた朝餉の菜を、如何にしようかと思う。

 昼にでも、或いは夜でも戻るなら、その時に共に、と、彼は思って、涼しい厨の隅にその小鉢を下げた。けれど、夜まで待っても弥一は来なかった。その次の日も、来なかった。 
 

 

 
「弥一殿、に、誰か会っておらぬか。ここ数日中に」

 あれから七日の経ったその日、梅の店を訪れた政之助が言った。店にはおたけも松も、銀太も、勿論梅も娘の絹もいたが、弥一だけは居なかった。
 
「数日、ってなぁいつだ」

 小鉢に煮物を取り、それを台の上で、絹のいる方へと押しやりつつ、梅がそれを問う。

「十日ぐらい前だったら、おいらここで会ったけど? も少し前だったかなぁ」
「馬鹿か。そんときゃ全員揃ってたろうが」

 次の小鉢に煮物を取りつつ、梅が変に面倒くさそうに銀太へと言い、今度は松が、視線を上げずにこう言った。

「月形町へ出る橋んとこを、おめぇとこっちに渡ってるとこは見た。その後は、知んねぇ」

 その時見かけた弥一の顔を、松は妙にはっきり覚えている。まばたきもしねぇで真っ直ぐ前見て、後ろから政が来ることなんざ、思ってもみねぇような顔だった、と。でもそれを言葉にはせずに松は黙る。

 口を閉じた松と、卓に頬杖ついて脚をぷらぷらさしてる銀太と、二人へ視線を渡した後、残りの小鉢に煮物を分けて、切れ端ひとつを味見して、梅は漸く、戸口の傍に立ちん坊の政之助に言った。

「ぼっと突っ立ってねぇで、まず座れてめぇは。で? イチがどうした? 十日がとこ来ねぇなんてたまにゃあるだろ、何でそんな気にしてんだ?」

 それを言わなきゃ、みんな何かあったかと思うだろうが。また何か、起こったのかと心配になるじゃねぇか、と。そこまでは言葉にせずの梅の、への字の口元。

「お医者様のとこ、行ったんだよね、政さん連れて行きたいって、こないだ言ってた。イチさんの足診て貰うって」

 小鉢を皆の前に置き終えて、盆を胸に絹がそう聞いた。優しい柔らかな物言いに、政之助はひとつ息付いて、もうあと数歩店中へと進み、いつもの場所へと腰をおろす。いつもの猫背が尚丸い。

「確かに、あの日はその為に出掛けたのだが、訪ねるはずの月形町の医者が、年暮れ頃に夜盗に襲われ、命を落とされた、と。丁度その細君と出会い、そう聞いた。あ、その。二人の幼子を連れた細君が、偶然にも弥一殿の知り人で、何度か、買って、もらったことがある、とか」
「あぁ? 話が見えねぇぞ、何言ってんだ?」

 眉を顰めていう梅に、怪訝な顔する松。言葉の下手な政之助が、もう一度考え考えし、ふと気付いてこう言った。

「あっ、もしやあの細君は、弥一殿が松殿を追手から助けた時の、ではなかろうか。自分の刺した脇腹は、もう治ったのか、と聞いていた」
「ますます話が見えねぇってっ。おめぇが一番皆の事情を知ってんだ。全員が全部を知ってるもんだと思って喋るんじゃねぇや」
「探してた医者が暮れに死んでて、それで?」

 がなる梅を煩そうにしながら、松がざっくりその話を切った。己絡みのあの時のことは、恐らく弥一の居場所には関係がなかろうと。

「あ、いや、それでその息子が生業を継いだそうだから、診て貰おうと思ったのだが、弥一殿が、その…たぶん、診て貰いたくないだろうと、なんとなくその時。何故であったろうか、自分でも、よく…だから…」

「ごちそうさま! おいら帰る」 

 唐突に銀太が言って、がたりと音立てて立ち上がった。そのまま店の中を横切り、じゃあね、と戸口で言って出て行く。政之助はきょとりとその閉じた戸を眺め、一瞬後に何かに気付いた顔をして、その戸を開けて駆け出した。

「って、おい政っ! …ったく、あいつは相変わらずな。一口も食って行きやがらねぇ、出来立てを出してやったってのに」

 政之助の分の小鉢から、梅はまた一つ二つ摘まんで口に放り、それを咀嚼して飲んでから、ちろり、と松の顔をねめつけた。じっくりと黙ったまま眺め、そのあと低く咎めるように。

「おめぇ、ほんと言やどうなんだ? イチのこと他でも見てんだろ。夜、とかよ?」
「………」

 松は梅の顔を平気で一度見返してから、美味くも不味くもなさそうに煮付けを摘まみ、茶を一口飲み、それでも、ぽつ、と言った。

「見て、無くはねぇ」

 やっぱりな、と笑う梅を構わずに続ける。

「が、イチさんは見られたくねかった筈だ。そう思った」
「はっ。…おめぇも相変わらずだ。ったくな、イチの野郎ときたら、こんだけ皆気にして気ぃ揉んでんのに、何どっか行ってんだかよ。…いつだかこの煮付け、美味ぇって言ってたのによ」
「来る前になくなっちゃうね。でも、まだ市に筍、売ってたよ」

 絹の言葉ににこりと笑い、ずっと黙ってたおたけが、滲むような声で言う。

「おいしかった、とっても」

 ことり、カラにした小鉢を卓に置いて。

「じゃあ、また、ね」

 と、笑みの見えるよに、背を向けた。

 


 
「待って下され、銀太殿…!」
「…なに追っかけて来てんだか」
「あ、そのっ」

 くるり振り向いた銀太が、あからさまに呆れ顔。大方、夜盗に殺された医者の話なんかした自分が、考え無しだった、思い出させて辛くさせたとかなんとか、そんなことを思って駆けてきたんだろ。だったらきっと、気にするところが違う。

「別に、なんてことないよ。俺が辛くなった、とか、お前の気のせい。いいから、お前はイチのこと心配してりゃいいんだ。じゃないと、さぁ、また」

 またあいつ、落っこちてく。
 そんな気がして、危なっかしくて。
 
「そっ、某っ」
「…言葉、戻ってんぞー」 
「ぎ、銀太殿っ」

 言葉を途中に、苦笑しながら手を振って、銀太が去ったその後。くたりと項垂れて、来た道を振り返った政之助の目の前、おたけが笑んで、立っていた。

「イチさんだったら、この前遅く…あたしんとこに」

 笑み顔が、一瞬ひどく疲れたように、陰って見えたのは…。

「来たけどすぐに帰ったよ」

 聞きたがる政之助の、見開いた目の前、おたけもくるりと踵を返す。

 知られたくないだろうことを、明かして欲しくはないだろうことを、教えてしまうのは忍びない。可哀想だ、って思ってしまう。弱くなんか自分を見せないあの人の、古い古い傷跡を、きっと自分は少し、知ってる。

 でもねぇ、でも。

 知って、それでも信じて、
 救ったのは、政だから。

 あたしも信じて、いいだろうか。

「…政…? ねぇ、カエデを、見に行かない?」















 いつも反省しているつもりだが、中々改善できないこと「難しい話は、書いた時の感情は極力忘れてから次話を書け。しかし内容は忘れないうちに次話を書け」。

 そもそもこれ、無理じゃね?

 いや、出来れば「書いた時の感情を覚えていても、なおかつ読み見返した時に、もう一度揺さぶられる話を書け」ればいいんだけども、こんな難しいことはそうそうありませんよね。高望みはでも、一応しておこう。するだけタダ。

 ともあれ、イチに刺さっている何かは、消え去ることはないだろうけど、それが少しずつでも痛みのないものになればいいなぁ、と思います。でないとみんな痛いまんまさ。





15/05/31