月 籠 tuki-kago 1
舞い散る桜の下を歩く
はらはらと、ちりちりと
くすぶる想いを足元に
わがまま放題、してるがな
別にいいのさどうだって
今更このうえ、何一つ
欲しいものなどありゃしねぇ
からり料理屋の戸を開くと、いつもの馴染みの面々。用があっても無くとも集まる。それが既に心地いい。
「ま。凄いわねぇ、桜」
笑みの滲んでお竹が言って、その手が髪に届く前、弥一は数度首を振り、薄紅の花弁をはらり落とした。いくつもいくつも、散る花びらの一枚が、彼の首筋を滑り、襟のうちへと落ちていく。
「どうせあっと言う間に散っちまわぁ」
桜よっか梅が好きだと天邪鬼に言いつつも、店主の梅はとんとんと漬物切ってる。耳に馴染みのその音に、端から手を伸べ松吉が、てめぇの名が好きなんざ、気色わりぃと悪態を。きたねぇ手で触んな、と返す憎まれ口もいつもの通りだ。隙見て銀太も手を伸ばす。
絹は熱い茶を入れて、柔らかな笑みを浮かべながら、弥一と、それからその少し前に来た政之助の前に置いた。
「でも今日は、風がすこぅし冷たいよね、政さん」
丸めていた背をぎくんと伸ばし、きょとと見開いた目になる背高の、立ちんぼうの男。
「……は? なんと?」
その様に、数人が、ぷ、と笑う。
「政ったら、ぼんやりねぇ」
「あ、そのっ、すまぬ」
「風が冷てぇなって。でもねぇさ、丁度心地いいくらいだった」
さらりと笑って言った弥一を、政之助の目が、また見る。顔を、それから開き気味の襟の中、落ちた花弁の所在を探すかのように。その視線はすぐ逸らされて、らしくもなく漬物を摘まみに、彼までが調理場に寄る。そのひょろ長い手を伸ばし。
「なんだてめぇまで。今出すから待ってろ!」
叱責に、ひゃ、と手を引っ込める様。また皆が笑った。茶に漬物に無駄話、ちょいと酒をひっかけても良し。季節を料った、味見など。そうやって、気紛れに集まったのと同じように、気紛れにまた、ぱらぱらと帰る。
その帰りの、政之助の視野の遠く。ほんの少しばかり坂をのぼった途中で、道脇の桜に添い、またはらはらと散るその花の下、褪せた白の姿があった。花が似合う、など言葉にしたら、おかしいと笑うだろうか。女じゃねぇよ、と揶揄するだろうか。
緩く眼下を見るまま動かない姿に、近付いて隣に立って、声を掛けた。
「どう、なされた」
「…おめぇこそ」
「私? 私は何も」
幾度聞いても、奇妙な気のするその言葉。笑みを含んで、弥一は首を軽く横に倒した。痩せた細いその喉元が露になり首の、付け根の窪みに薄くれないの。
「肩、髪、袖にも。確かにすげぇ」
桜が、と言いはしない弥一の眼差しが、ちらり、ちろりと政之助の、濃い色の着物に映える花弁を見る。つい少し前、ぱらりと雨のあった故、尚纏わるように離れぬ。
「弥一殿も」
「…ついてるかい? まだ。払ったんだけどな、たった今も」
「ここに」
もうひと進み近付いて、摘まむ指の形の手が、つい、と寄ってき。けれど触れずにその腕は、政之助の身脇にゆらりと戻る。
「どこだって?」
「首筋、喉元の、そこに」
「どこ」
襟を手で、わずか寛げる仕草から、政之助は視線を逸らした。
「確かに、今日は空気が冷たい。風邪を引かぬうち戻らねば。弥一殿も」
「戻ってどうする?」
「あたたかく、せねばまた」
ひゅう、とまた風が吹き来る。花は哀れを催すほどに、枝から一息にもぎ取られ飛ばされ、明日のうちにはきっと残らず、散り終えていることだろう。
古長屋、一軒丸々誂えたように空いていたのを、端から順に、政、おたけ、銀太と埋めて、弥一は特に居を定めずに、日によりて相も変わらずふらふらと。錺職の松は、目と鼻の先の別の長屋。梅の店もさほど離れてはおらず、市へと行き来の娘の絹が、長屋の前をよく通ってゆく。
今日も花雨、花散らす雨。
「まだ、痛みが…?」
そう問われて、自分が足をさすっていたことに、弥一は気付いた。いつぞや、木の根に引っかけて捻った足だ。その後牢でも、重ねて痛めたやも知れず。壁に背を預け、体をずり下がらせた中途半端な格好で、彼は戸口に立った政之助を見上げた。政之助は向かいの住人から、煮物のおすそ分けを貰って戻ったところ。
「…少しな、痛みってほどでもねぇ。冷えてるからだろう、さすっていればじきに」
「弥一殿は、手があまりあたたかくないゆえ」
「そういやおめぇは、随分あったけぇ手をしてたよな」
まるで、さすってくれと言わぬだけのような、弥一の仕草。折り曲げて自分で擦っていた脚を、政之助の居るほうに投げ出し、めくれた着物もそのままに。
「そう、でござろうか」
焦ると口調が戻る。しかもそのことに気付かない。弥一の目元が笑むのを、何故かと気にしながらも膝で寄って、彼の足首のあたりに手を添えた。
「どのあたりが」
「…あぁ、ほらな、あったけぇ」
「いや、どこらへんが痛むのかを」
「もっと、上だ。…もっと、もう少し」
言われた通りに、政之助の手のひらはさすりながら徐々に上へと。足首から膝の方へ、今にそのまま、膝を過ぎ。
「政、もっとずっと上」
「弥一殿」
半端に開いたままの戸の外を、誰かが通った、今更のように何かを気にして、触れていた手を、すいと引く。政之助は柔く笑っている弥一を咎めながら、視線を逸らした。
「…からかうのは、本当に無しで」
「別にからかってやしねぇ。ここに着くまでの間は、もっと、なんだってしてくれてたぜ」
「それはあの時は、弥一殿が、弱っておられた故」
聞き分けのない子供をでも突き放すように、政之助はそう言った。体も心も弱っていて、拠り所の無い幼子のようにも、見えていた故。政之助は弥一から距離をあけて、改めて部屋端に座り、それでも気遣うようにこう続ける。
「冷えのくるごと雨のごと痛むのなら、一度医者に診せては。確か、月形橋をさらに行った先に、名医がいると聞いた」
「…俺みてぇなやくざ者が、いきなり行ってもな」
馴染みでなければ、門前払いもあり得なくはない。政之助もそのぐらい分かるほどには、この土地に慣れつつある。東、ほどではなくとも、この地も時には物騒だ。
「私も共にゆく故」
「なら、いいよ」
遠出日和のあたたかな日。話に聞いた名医を探し歩く、その途中、弥一が女に声を掛けられた。乳飲み子を背に負い、五つ六つほどの子の手を引いた女だった。
「イチ…さん?」
振り向くも、何も言わない弥一の顔を、女はまじまじと眺めて、少しばかり焦ったように、乱れかかっている髪に手をやる。引かれていた手を離されて、小さな女の子も戸惑いながら弥一を、そしてその連れの政之助を、見比べるように見ている。
「やっぱり、イチさんだ。あたしのことはわかんないだろうね。ほんの二度ぐらい、買って貰っただけだもの。あん時、あたしが刺した腹、すぐ治ったかい?」
すっと伸びてきた手が、弥一の脇腹にやんわり置かれてすぐ遠ざかる。これでわかったろう、と悪戯っぽく笑う女の手は、あの時とは違い、少し節が目立っていた。
「知り人、でござろうか」
何も言わない弥一に代わって、間を取り持つように政之助が問い掛けた。丁度そうした店の前におり、喉も乾いてきた頃合い、懐具合を思い浮かべてから、彼は母子を茶店に誘う。
「弥一殿、一休み致そう。茶と、団子で」
「おや、嬉しいねぇ。あんたも確か、桂屋の用心棒をしてたお侍さんだろ。優しい先生だ、って、女たちのいうのを聞いたことがある。あたしは斜向かいの『糸のや』にいたんだけどさ、ちょいと羨ましかったもんだ」
茶と団子、子供の分も合せて頼んで、それを待つ間は店の板椅子に座る。女は二人の子を気にしながらも、政之助に問い掛けた。
「それにしても、こんなとこで会うなんて思わなかった。偶然ってのはあるもんだね。近くなのかい?」
「いや、ここいらではないが。そうだ、ご存じなかろうか? このあたりに名医がいると聞いて、今、探していたところで」
言った途端、女の顔からすう、と笑いが引いた。
「…その人ならもう居ない。あたしを落籍せてくれた旦那、だったんだけどね。押し入ってきた夜盗に刺されて逝っちまった、ついこの暮れのことだよ」
遠くを見るよな女の目の奥には、親子ほども年の離れた、優しい男の姿が浮かんでいる。元々働きの少ない自分を気に入ってくれ、何度も呼んでくれて、体を壊した時は診てくれて、そうして、誰の種か分からない子を身籠ってしまった彼女を、腹の子ごと救ってくれたひとだった。
移る病を患ってるとおかあさんに嘘ついて、全部は無理でも出せるだけを出す、どうか自分におくれと頭を下げた。そうして嘘が知られてはいけないと、こんな遠くまで連れてきてくれたってのに。
「…いい人だったよ、とっても。だから私は、私の自分の子とおんなじに、あの人の連れてたこの子のことも大事。もう随分大きい息子も居てね、もともとあの人の手伝いしてたから、今じゃ頼ってくれる怪我や病の人をしっかり診てる。あの人の本当の子供はその上の子だけなんだ」
「では、子供たちはみんな血の繋がりも…?」
「そうだよ、お侍さんにはびっくりするような話かい? あぁ、ほらっ、転んじまうよ、おかあさんとこお戻りなっ」
出てきた団子を食べ終えて、嬉しくなって駆け回る女の子に向けて、彼女は両手を広げて見せる。駆けてきたその子は、なんの遠慮も気兼ねもなく、嬉しそうに抱き付いて、抱き付きながらもにこにこと政之助を見た。
「いい御子でござるな」
「自慢の子だよ、みぃんな」
女は笑ってそう言ったが、気付けば弥一が居なくなっていた。医者の父親を継いだ孝行な息子に、痛む足を診てもらってもよかろう、とそう言い掛けた声が萎んだ。見回す政之助の視野の先で、川を眺めている姿があった。
「弥一ど…」
「おしの、あの人呼んできておくれ」
「あ」
「はぁいっ」
一瞬、止めようかと思った。今、無邪気な幼い子供に、近寄られたい心境ではないやもしれぬと。けれど躊躇いなど欠片もない子供の足は速い。あっと言う間に駆け寄って、手を伸ばし、弥一の着物の袖を、掴み、掛け。
びくり、震えて後ずさった子供の姿。己の身で、女の視野で遮るように政之助は立ち上った。
「弥一殿、団子はいらぬのか」
「……いらねぇ…」
微かに聞こえたその声に、政之助は女を振り向き、殊更明るくこう言った。
「私の分もいらぬ故、よければ食べてくだされ」
「え? いいのかい? あ、病や怪我のことだったら、今日でなくとも来ておくれ。ここから一町と少し川沿いを戻った一番古びた長屋だからさぁ」
振り向いて、会釈だけをした。弥一がその医者に己を診せるものとは、思えぬ気持ちになっていたからだった。女の背に負ぶわれて寝ていた赤子が、いつの間にか目を覚まして、小さな小さな手を元気にこちらへと振っていた。
続
久しぶりの五葉作品です。故あって、この日を目掛けて書いてきました…ら、力が入り過ぎてしまったらしく、一話完結にならなかった…という。連載になってしまったので、よりいっそう大事に書いて行きたいと思っています。五葉の初めての連載だ!記念すべき、ですね、それも。
というわけで、心をこめてv
2015/03/25
